幽霊さん①
これは、間違ったことなのだろう。
名前すら知らない幽霊に現を抜かしている暇があったら、さっさとチヒロと寄りを戻すことを考えた方が良いに決まっているのだ。
彼女だって、幽霊だってそう言うに決まっている。
それが分かっていながらも、僕はこうして通勤途中のコンビニほどに見慣れた自動販売機の前へやって来ていた。
時刻はまだ午後十一時前。
真夜中でなくとも幽霊が現れるということは、彼女との日々のうちで実証済みである。
車を降りると、湿気を孕んだ夜風が重く波打った。
ここに来てしまったことへの後悔と、早く幽霊に会いたいという気持ちとが僕の頭を締めつけている。
「あの、幽霊さん」
自動販売機を真正面から眺めながら、僕は呼びかけていた。
返事はない。
まだ、ここにはいないのだろうか。
どこか違う場所にいるのだろうか。
かまわない。
もとから独り言のつもりだった。
財布の中からつまみ出した小銭を、自動販売機に投入する。
「幽霊さん、僕にとり憑いたりなんかしていませんよね」
若干自嘲気味に言ってみると、どうしようもない気分になった。
とり憑かれていようとそうでなかろうと、大して変わりはしないような気がしたからだ。
どちらにしろ、ろくでもない状況であることに違いはない。
「幽霊さんって、もしかしてわたしのことですか」
待っていた声。
恐れていた声。
これまでの心境などは無視して、僕の気持ちは喜びに昂ぶった。
「いたんですか」
まだ、振り向きはしない。
すぐ後ろにいるはずの彼女は、どんな顔をしているのだろうか。
僕の顔は、緊張して強張っているはずだった。
「いますよ、そりゃあ。会う約束をしたのはあなたじゃないですか」
「ああ、そうですよね。あの、こんばんは」
「はい、こんばんは」
なかなか顔の緊張が解けない。
「何か買うんでしょ。早く選んで、こっち向いてくださいよ」
飲み物を選んだら、振り向かないといけないらしい。
僕はコーヒーのボタンへ伸ばしかけていた指を折り曲げて、その指先をふらふらと彷徨わせた。
「もう、迷ってるならわたしが選びますよ」
なんだか今日は機嫌が悪そうだ。
軽い苛立ちを含む声とともに、販売機からは缶の吐き出される音がした。
見ると、後方から伸ばされた手がコーンスープのボタンを押している。
白くてしなやかな指の先に、よく整えられた短い爪が座っていた。
「ああ」
驚いて振り向くと、
「ポルターガイストです。諦めてください」
声の通り、機嫌を損ねた顔が僕のことをじっとりと睨みつけていた。
「そんなことはどうでもいいんです。幽霊さんってわたしのことですよね」
「まだ名前知りませんし、幽霊って呼び捨てにしたら悪いかな、と思って」
「じゃあ、やっぱりわたしのことなんですね」
思えば、お互いに立ったまま話をするのはこれが始めてである。
身長は僕よりも頭一つぶん近く低くて、肩幅は、おそらくほぼ同じ身長であろうチヒロよりも少しだけ狭いように思える。
「気に入りませんでしたか」
「いいですよ別に。幽霊さんでいいです。うん、しっくりくるからそれでいいです。幽霊さんって呼んでください」
機嫌の悪そうな顔のまま二、三度こくこくと頷いて、機嫌の悪そうな顔のまま、やっぱり僕のことを睨みつけた。
「そんなことも今はどうだっていいんです」
「あの、僕が何かしましたか?」
「それはこっちのセリフですよ。わたしが何かしましたか?」
腰に手を当てて、むっとした顔を僕に近づける。
それだけで僕の顔は熱くなってしまった。
「いいえ、わたしは何にもしてませんよ。それなのにとり憑いてるだなんて、失礼もいいとこです」
「あ、ああ、そのことですか」
「はい、そのことです。まったく、どうしてとり憑かれてるだなんて思うんですか」
顔を引いて腰に手を当てた幽霊、いや幽霊さんは、怒っているというよりも呆れているようだ。
そのことに僕が安堵しているのは、彼女が幽霊だからだろうか。
それとも幽霊さんだからだろうか。
「特にこれといった理由は、ないんですよ」
幽霊さんは、はぁ? という顔になる。
特にこれといった理由もなく、あんなことを一人でつぶやいていた、ということになるのだから無理もない。
だけど、言えるわけがないのだ。
あんなことを口走った理由を。
僕の認めがたいこの気持ちを。




