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再来

 結局、あの女が本当に幽霊だったのだという確信を持ったのは、彼女が


「では、おやすみなさい」

 と言って消えたときだった。


 彼女は、本当に消えてしまった。

 幽霊よろしく霧のように、ふわりと揺らいで掻き消えてしまったのである。


 幽霊が消えた後、僕は急いでエンジンをかけ、のんびりとシートベルトを締めてから慌ててアクセルを踏んだ。


 怖かったからではない。

 自宅に帰って眠りたかったのだ。

 それまでの出来事が夢だったのならば早く夢が終わるように。

 夢でないのならば、翌日にこれ以上夜更かしの影響が出ないように。


 結局、二日後の今となっては、あの晩のことが夢だったのか現実だったのか定かではない。

 ハルヒコとお札を貼りに行き、ハルヒコを家まで送り届け、ハルヒコから信号機に関する怪奇現象を知らされたところまでは現実だったとして、それ以降のことが夢でないという確信はないのである。


 なにしろ、夢ではなかったと言ってくれる証人がいないのだから。


「もしかして、夢だった?」


 唐突に、チヒロの声がそう言った。

 ちらりと左に目をやると、難しそうな顔をして耳元の髪をもてあそぶチヒロの姿。


「いったい、何が」


 背筋から頭の奥に、ロックアイスが駆け上ったかのようだった。

 チヒロはあの夜のこと、つまり僕が幽霊と話をしたことなど、知るはずがないのに。


「んー、と、ね」


 自分の髪を指先でぐりぐりと捻りながら、チヒロは言いにくそうに


「オバケ出なかったっけ」


 そう言って、窓の外を見た。


 オバケというその言葉で、なぜか合点がいった。

 なるほど、そういえば、チヒロとも幽霊と遭遇している。


「オバケって、女の子の?」


「あ、やっぱり夢じゃないんだよね」


 窓に映ったチヒロの顔は、安心と驚きが混ざったような表情を浮かべた後、一秒も置かないうちに、不思議そうな顔へと変化した。


「チヒロも見たっていうんなら、それは夢じゃないっていうことなんだろうね」


 見慣れた風景が、滲むような夜の顔をしてそろそろと後退していく。


 まだ日付の変わっていないこの時間帯は、これまでの経験上幽霊が出てくるには早い。

 そう思うと、薄暗いこの風景も心なしか穏やかである。


「じゃあさ、その後のことも、夢じゃなかったはずだよね」


「その後っていうと」


「なんていうかな……えっと、わたし、一人で帰ったじゃない」


 なんとなく、チヒロの言いたいことが分かってきた。

 その後というのは、つまりチヒロが僕を振った件なのだろう。


「だって、覚えてるもん、そのときに乗ったタクシーの運転手の名前」


「うん、確かにあの夜、僕はビンタされて蹴っ飛ばされて指輪を投げつけられたよ」


「だったら」


 日付は変わらずとも、やはり暗くなってからのこの道の通りは異様に少ない。

 本当ならば運転中の余所見は禁物だけれど、僕はアクセルから足を離して、チヒロの不信に満ちた表情を横目に入れた。


「だから、今日はそのことを謝りたくってさ」


「だけどあれって、謝って済むようなことじゃないよね」


 そう言いながらも、口ぶりから判断するに満更でもないようだ。

 横目に引っかかるチヒロの横顔は、不信から少しずつ信頼に戻ってゆく。


 僕とチヒロとの恋愛は、今日のように職場からの帰り道、チヒロの運転手になることによって進み、深まっていったと言える。

 きっと過言ではない。


 始めのうちは駅前まで、しばらくするとバス停まで、それから間もなく自宅まで。

 僕らの距離は、チヒロが帰り道を一人で歩く距離と同じように縮まっていった。

 だから今日、チヒロを彼女の自宅まで無事に送り届けることができれば、僕らの関係はまた元に戻るのではないか。

 僕のそんな期待は、この忌々しい一本道の半ばに差しかかった今、確信に変わろうとしていた。


 そんなときに、彼女は現れた。


 後部座席に、俯きながら座る、薄い青を基調としたワンピースの女性。

 バックミラーを通して、僕と幽霊は目を合わせた。


 あれは夢ではなかった。


「チヒロ……」


 いかにも深刻そうに響き、僕の声は車内を凍りつかせた。

 あのときと同じ道だということで、少なからず不安があったのだろう、チヒロもすぐに異変に気づいたらしい。


 悲鳴を上げそうになるチヒロを「大丈夫だから」となだめつつ、急ブレーキ一歩手前の停車をする。

 僕は大きく息を吸い込むと、


「おい幽霊! チヒロには指一本触れーー」


 させないぞ、と。

 そう言う手はずだった。


 それができなかったのは、あの少女の幽霊が、溶岩の目をかっと見開いたまま、僕の鼻先にぴょこん、と現れたせいである。


 おかげで僕の勇気ある言葉は、悲鳴となって飛んでいってしまった。

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