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悪夢

 チヒロの頭を撫でたはずだった。

 そこで、チヒロとは髪型が違うことに気づかなかったのは、電気を点けていなかったせいなのだろう。


 チヒロの肩に腕を回したはずだった。

 そこで、成人女性にしては肩が小さすぎることを理解しなかったのは、チヒロはこんなにも華奢だったのかと自分を納得させてしまったせいなのだろう。


 チヒロの手を握ったはずだった。

 そこで、彼女の指に僕の渡した指輪がはめられていないことなど、精神の昂ぶっていたそのときの僕には分かるはずもなかった。


 プロポーズに成功したばかりの僕に、どうしてそんな些細な異変を気に留めることができただろうか。


 興奮していたのだ。

 彼女の、僕がチヒロだと思っていた彼女の顔を直視できないほどに。


 だから僕がその知りたくもなかった現実を知るに至ったのは、ほんの数秒前に撫でたばかりの頭とは違う場所から、チヒロの声が聞こえたせいである。


 言葉になっていない声だった。

 ああ、とか、ひい、とか、そういううめき声が恐怖の色を含みながら、まさに僕が口づけようとしていた口とは違うところから漏れ出でていたのだ。


 声のするほうを見てみると、そこにはやっぱりチヒロ以外の誰がいるわけでもなくて、ならば僕の首の近くで熱い息を吐き出しているのが、チヒロであるはずもなかった。


 車という密室の中、ここには僕とチヒロしかいないはずなのに。


 存在するはずのない得体の知れない存在が、僕の腕の中にいるだなんて。


 恐怖だとか、そんな簡単な言葉では言い表すことなど到底できそうもない感情が全身に流れ込んできた。

 悪夢だと言ってもまだ生ぬるいであろう状況が物理的な力を持って、見たくもない闖入者の顔を見るために僕の首を動かした。


 そこには、


 女の子がいた。


 目の中には溶岩のように真っ赤な血が溢れ、


 骨すら透けて見えそうな真っ白い肌の小さな女の子が。


 女の子の姿をした絶望は、


 何が楽しいのかにんまりと不気味な笑みをつくると、


「           」

 何かを言った。


 チヒロのうめき声よりも遥かに言葉じみていたその声が、僕にはもはや世界の砕ける音にしか聞こえなかった。

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