一話 目覚めれば薔薇の香り
「やっぱり女の魔法士はレベルが低いのだな、フィオナ様?」
青年たちは皆、私を頭の先からつま先まで、なめるように見て苦笑する。長いテイルの制服である燕尾を翻した。
「それは……!!」
私は言い返してやりたい気持ちをぐっと堪えた。何故なら、異世界から転生してしまった私は、魔法なんて使えるわけが無いからである。私は、ただクチビルを噛んで黙っていることしか出来ない……いいや、違う。本物の“フィオナ”なら……
ああ、どうしてこんなことになってしまったのだろう。日常から逃げたいという気持ちが、私を現世に帰らせるのを阻んでいるのだろうか。私の気持ちに反して、空には雲ひとつなく、太陽はさんさんと私たちを照らしている。私は完全気舐めきっていたのだ。悪役令嬢に成り代わるということを。悪役令嬢には、お金も地位も名誉もあると思っていた。なんでも望めば手に入り、困り事は解決出来るのだと。しかし、実際になってみればわかる。悪役令嬢とは、悪役だから悪役令嬢なのだ。嫌われているから悪役令嬢なのだ。左手薬指にはめているただでさえ重いルビーが、より重く、ずしんとのしかかったように感じた。
―昨日
何時から寝てしまっていたのだろう。私は甘いバラの香りに鼻の奥をくすぐられ、ゆっくりと目を開けた。車窓から入る朝日と、咲き誇るバラの色鮮やかさが、まだ覚めたばかりの目に眩しく、くらんでしまいそうだ。
「お嬢様、もうすぐですよ」
日常ではめったに見ることの無い、古典メイド服を着た柔和そうな女性が微笑んでいる。近くに裕福な少女がいるのだろう。物語の中に迷い込んだみたい、と口からこぼれそうになった言葉を飲み込む。ああ、何て素敵な一日のはじまりなのだろう。図書館で読んだ海外文学を思い浮かべ、胸が踊るような心地になった。私にとって物語とは、現実から少しだけの時間遠ざけてくれる秘密基地なのだ。現実と言うのは、受験勉強だったり、部屋の整理整頓だったり、忘れ物をした後のお説教だったりする。周りの中学生たちも、きっと同じことを苦に思っているだろう。母が少しばかりヒステリックで、父がたまに暴力的なだけ。至って普通の家庭。昨夜母にお前は性格が悪いと罵られてできた胸の空虚感はもうどこかに消え、父にぶたれてできた傷は、かさぶたとなって出血を止めている。どんなに辛いことがあっても、物語は私の涙を止めてくれる。時には荒廃した地球で未知の生物と闘い、誰にも治せない病の薬を作り、お姫様になって恋をしたりする。ああ、いっそ物語の中に入ってしまいたいなあだなんて……
「終点、終点……」
突然のアナウンスが響いた。例の彼女はせっかちな様子で降車の支度をしながらぶつぶつ独り言を発している。立ったり座ったりするたびに、ロング丈の裾にあしらわれたレースが揺れる。私もいつか、と憧れるクラシックロリータ……そうだ、私は昨日家を飛び出し、駅まで走った電車で寝てしまったのだった。どうして今まで忘れていたのだろう。電車内でこれほど強い眠気に襲われたのも、今日が初めてだ。私が不思議に思って首を傾げたりしている間、彼女はフィオナが今日は特段に機嫌がいいのだとか、乗車中に悪口を言わなかったことを褒めたりだとか、突然無口になってしまったことを心配したりしていた。お嬢様フィオナは、まだ幼い女の子だったのだろう。私はまた、本の中の登場人物であるおてんばお嬢様を思い出しては、彼女のばあやぶりに我慢ができず、くすくす笑ってしまった。
「……あ!!終点!」
私はもうひとつ重要なことを思い出した。今しがた止まった終点で降りなければならないことを。さっきのアナウンスは終点を知らせるものだったのだ。聞こえていなくとも、体の感覚で、電車がどれくらい走ったからわかるのだから慣れとは怖いものだ。さあ今すぐ降りなければ。
しかし通路側に座っている彼女はまだ降りる様子がなく、まだ何か独り言を言っている。さっき呆然としてしまって遅れた時間を取り返さなければ、学校に遅刻してしまう。待っている時間は無いから、通らせてもらおう。
「すみません、降ります!…………え?」
私が席から立とうとした瞬間突然!彼女が私の腕をいきなり掴んだのだ!
「お嬢様、こちらを」
彼女は、大きな赤い宝石のついた指輪を、無理やり私の左手薬指にはめたのだ。最初は意味がわからず混乱し、そして、どうして!!という驚きと同時に、自分の指にはまるその宝石が、先程のバラを煮詰めた様に深く、そしてきらきらと輝いているのに目を奪われてしまったのだ。……いいえ、そんな場合ではない、と私はふと、我に返った。
「人違いです!私は」
彼女は私の言葉をさえぎって、指輪をはめた左手を強く握り、そしてさすったのだ。
「フィオナ様、証でございます」
彼女は私の目をじっと見つめて逃さない。
「いえ、あの私はそんな子供に……」
私は目線を下にそらそうとすると、彼女は下に潜り込んで、またもじっと見つめる。
「いいえ、逃げようとしたって無駄ですよ。そりゃあ、いまから女一人で男子校であるヴィルフレド校に行くのは心細いかもしれませんがねえ」
女一人?男子校?ヴィルフレド校?理解できない話と、聞いたことがない単語が、頭の中でぐるぐると回っている。私は混乱した頭でとっさに考えたことは、フィオナを探せばよいということだった。そうすれば解放されて、学校にも遅刻しないと思ったのだ。私は車両の隅から隅まで探そうとした。すると、何と!いつも乗っている電車とはまるで違っていたのだ!天井の電気はランプのようなもの、床はきでできたもの、どれもレトロな風合いのものに変わっていたのだ!だんだん冴えてきた頭でよくよく考えてみると、普段、車窓からバラ園は見えていなかったし、この時代に電車で年配の女性がロリータファッションでしか見なくなってしまったメイド服を着て仕えているのも、どこか小説の中のできごとのようで、まるで現実味がない。それに、どれだけ隈なく探しても、フィオナは居らず、車両内にいるのは私の彼女の二人だけのようだった。どこかおかしい。フィオナは、本当に居るのだろうか。背筋がずっと冷たくなり、高くなった声で聞いた。
「あの……もしかしてフィオナさんはもう、亡くなっているのではないでしょうか……?」
それならば辻褄が合う。彼女は過去に亡くなったフィオナの幻影に縋るために私を成長したフィオナと思い込んだ。メイド服は、昔彼女に懇願されて着た思い出の服だとか、いくらでも理由は考えられる。私が探偵風に考えていて気が付かなかったが、彼女は眉間に大きな皺を寄せていた。
「あなたがフィオナ様じゃないですか」
?!私が、フィオナ様??私の探偵ごっこの推理が当たったことはないが、今回ばかりは納得してもらわねば困るのだ。とは言ってみても、さきのフィオナ捜索で授業は遅刻が確定してしまったのだった。だから私は、親切のつもりで、彼女の慰めになるならばと、とにかく話を聞こうと思ったのだ。これから何が起こるかも知らずに。フィオナは相当優秀な女子校からの交換留学生だったらしい。性格は難ありと言われていても、成績は本当に優秀だったのだろう。それに、何よりもかなりの家柄であったそうだ。……よくよく聞いていると、フィオナに重えられるなんてたまったものではない。物語中に出てくるようなれっきとした悪役令嬢ではないか!!私が憧れるのはヒロインであって、悪役令嬢ではないのだ。
一通り聴き終わったあと、本当の私を話そうと思った。ワガママなフィオナを見放さず、ずっとお世話してきた真摯さに心を動かされたからだ。もちろん、このままフィオナに重ねられるのも、自分の理想に嘘をつく気がして嫌だったからだ。こうして、私の家はさほど裕福では無いこと、父親がもう生きていないこと、母がひとりで私を育ててきてくれたことなど、もしや言う必要のないかもしれない事まで、自分の生い立ちをつらつらと語ってしまった。そうすれば、彼女も悲しみに目を向けられるのではないかと思ったのだ。しかし、話せば話すほど、彼女の顔は嫌に曇っていくばかりなのだ。
「ああ……そんなにお嫌だったのですね…………わたくしは、わたくしは……」
彼女はついにさめざめとなきはじめてしまった。
私はどうすればいいかも分からず、スカートをぎゅっと握りしめた。フィオナがいないという現実は、やはり見たくないのだろう。年上の女性の泣き顔を見るのは苦手だった。私のために辛い仕事も我慢して深夜に泣いている母と重なってしまって、苦しかったのだ。……そうだ、私は、スカートと太ももの間にあるポケットのなかに学生証があった。これがあれば、少なくとも私がフィオナでないとわかるはずだ。あたふたと学生証を見せようとポケットを探った。私はとても焦っていた。彼女を泣き止ませようと必死だったのだ。ブレザーから出落ちてきたのは学生証ではなく、鏡だった。……パリーン!!無音の電車に、かわいた音が響いた。
まだ家族というものに希望を失って居なかったころ、植物園で買ってもらった鏡を落としてしまったのだ。……あれ?どういうわけか、割れたこの鏡は植物園に関係が無いと父に文句を言われたモザイクのステンドグラスだったはずなのに、薔薇の絵になっている!私は鏡を割った悲しみと、彼女を泣き止ませないという思いと、見ないふりをしためまぐるしい怪奇現象への恐怖と、そして物語の主人公になったような出来事の連続で、感じたことの無い高揚感が体全体を包んだ。私はそろりと床に手を伸ばした。すると!!その鏡に手を伸ばしてのぞきこんでいるのは、私ではなかったのだ!!髪は銀髪、猫目と目尻の垂れたまつ毛の中に覗く眼は、淡くピンクに染まり、涙の膜が張っていてうるうるとさせている。一見痩せているかのように見えて、頬と唇はふっくらしており、血色を感じざる。つまり、絶世の美女。もちろん全て、私のものではない。まっすぐにのばしていた父譲りの直毛の黒髪も、母譲りのたれ目も、どこかに消えてしまっていた。何だか、血のつながりがなくなったみたいだ。
「ありえない……」
今起こっていることが夢ではないということは感覚からしてわかっている。信じられるわけがない。けれど、この異様さに恐怖するのではなくもう既に胸が踊っていること、今までの日常から逃げてしまいたい自分がいたこと、今非日常を楽しんでしまう自分がいるのも確かだった。少しだけ期待していたことが、現実になり、私の心臓の鼓動はどんどん早くなって、産毛が逆立った。私が、フィオナ?私はフィオナになったのだ。……そうすれば彼女の言うことは本当で……
「お嬢様……フィオナ様……」
彼女はまだ私の背中の後ろでおいおいと泣いていた。そうか、彼女は私が最初から交換留学に行きたくなくて駄々を捏ねているようにしか見えていなかったのか!
「お嬢様……決まったことなのです。今更なんとおっしゃられようと、わたくしにはどうすることもできないのですよ……」
今度はちりめん皺まで寄せて大粒の涙を流しているではないか。私の中身はフィオナでは無い……いいえ、私はフィオナ。フィオナになってしまおう!!
「ごめんなさい、これまでイタズラしちゃって」
彼女は目をぱちくりさせた。そのまばたきでさっきこぼし忘れた涙が頬をつたった。私は重い革製の茶色いバッグを受け取り、声高らかに言った。
「いってきます!!」
私はなんにも知らない笑顔で、これから起こる事件たちに立ち向かわなければならない運命を、ここで背負ったのだ。その時、つけ慣れない指輪が一瞬光ったような気がしたのだった。