東砦での出来事
エルフリートとグリシスは魔族の国との国境にある重要拠点の一角、東砦に到着していた。
まず同じ軍の部隊の、夜勤を担当していた者たちからの報告を聞く。
今日の戦況は特に昨日と変わらずで、とりあえず一安心だ。
エルフリートたちの敵、魔族はとても残忍だ。
放っておけば同種族の隣人とも殺し合いをするような性質を持っているので、それを防ぐためにも魔族は他の国と戦争をしたがる。
彼らは獣人に襲い掛かって力比べのような気軽さで殺したがるし、泣き喚く人々の悲痛な顔を見て楽しむ趣向がある。
そして魔力を持った魔族は獣人の国を横切って人間の国まで行きたがる。
彼らは魔力を持った人間を食べると強くなるらしく、魔力を持った人間を好んで捕食するのだ。
それ故に、魔力持ちが多い貴族の人間は隙があれば狙われる。
グリシスはエルフリートに武装を取り付けながら、そういえば人間の国から来たあの女はどうだっただろうかと考えた。
キャロンからは魔力の匂いが全く感じられなかった。
男遊びの酷いにおいがきつ過ぎて分からなかったのかもしれないが、もしかしたらキャロンは魔力自体持っていないのかもしれない。
人間の貴族でもそう言った落ちこぼれが偶に生まれると言うし、キャロンもその類か。
であれば、エルフリートは要らない娘を押し付けられたのだろう。最悪な貧乏くじを引かされたものだ。
「……はい、出来ました」
グリシスはエルフリートのベルトをきつく締め終え、声をかけた。
準備が整う。
銀の防具と国の紋章を背負った隊長格にしか与えられないマントは、凛と立つエルフリートによく似あう。
これでいつでも魔族との戦闘に出られるが、出撃命令がない今は訓練の時間に充てられる。
エルフリートとグリシスは砦の裏にある訓練場に移動した。
各々思い思いに自主練をしたり防具の手入れをしている中、現れたエルフリートに気が付いた隊員たちは口々に挨拶をしていく。
エルフリートは一人一人に挨拶を返し、大体一巡したところで改めて口を開いた。
「そうだ。皆、これを食べないか」
「なんですか、それ?」
エルフリートとグリシスは抱えていた大きな包みを開いて、寄ってきた隊員たちに中身を見せてやった。
冷めてしまってもよい香りを漂わせるクロワッサン。
大半の者にとっては見たことも無いものだろうが、誰かがその香ばしい匂いにごくりと喉を鳴らした。
「差し入れだ。美味しいから味見してみるといい」
エルフリートが言うや否や、隊員たちがわっとクロワッサンに飛び掛かった。
サクサクサク。
軽快な音がそこかしこから聞こえてくる。
それと、うまいうまいと言って尻尾をブンブンと振る音も。
「では、私ももう一つ」
その場の全ての隊員に行き渡ったところで、エルフリートが本日三個目のクロワッサンに手を伸ばした。
顔はいつもと変わらず涼しげなままだが、またエルフリートの尻尾がフサッと揺れた。
クロワッサン、本当に大変気に入ったらしい。
ご機嫌な尻尾のエルフリートとその様子を見ながら微笑んでいるグリシスの元に、二つ目のクロワッサンを貰おうとやってきた隊員の獣人のうちの一人がやってきた。
クロワッサンを摘まんだ後、思い出したように声を上げる。
「そうだ、エルフリート大隊長。昨日結婚式だったんですよね?なんで結婚休暇取ってないんです?なんで今日ここに来てるんです?」
「ああ、それは……」
一人の獣人の無邪気な質問に、つい先ほどまで生き生きとしていたエルフリートの大きな尻尾は途端に動かなくなった。
「というか隊長、人間のお嫁さんなんて本当に羨ましいです。人間って獣人と違って長生きだけど儚くて賢くて繊細なんですよね?栄誉勲章を受章した隊長に相応しいですよね!」
「……」
「僕なんかは国王陛下の人間のお妃様を遠くから一目見たことがあるくらいですけど、隊長はお嫁さんに賜ったから人間が家にいるんですもんね。いいなあ」
「隊長、人間ってどんな感じなんですか?やっぱり可愛いですか?」
クロワッサンを頬張りながらニコニコしている部下たちをキッと睨みつけたのはエルフリートではなく、その隣にいたグリシスだ。
「お喋りはもう止めです」
「ええ?折角なのでもう少し話が聞きたいですよ」
「いけません。時間も迫ってきていますし、食べ終わったら各自、素早く準備をするように」
エルフリートから人間の話を聞こうと集まってきた獣人たちを散らし、グリシスはハアと溜息をついた。
それから訓練を一通り終え、ひと段落ついたところでエルフリートはちょっとした段差に座って休んでいた。
グリシスは水と補給食を取りに行っていて傍にはいない。
「エルフリート」
呼びかけと共に、スッと影が落ちた。
見上げれば長年共に戦ってきた気の置けない仲間、猪の一族の獣人であるガヴィンが立っていた。
険しい顔をしている。
「やっぱり、結婚相手はあまり良くない人間だったか?」
「……やっぱりとは?」
ガヴィンはエルフリートの隣に腰を下ろし、少し言いにくそうにしてから話しだした。
「俺はお前の結婚式に出席していたが、式が終わった後に、お前と結婚した人間の姉と人間の国の宰相が立ち話をしていたところが偶然聞こえてな。どうやらお前と結婚した人間は姉を虐めていたらしい」
「虐めていた?」
「そうだ」
「たった一人の姉妹をか?」
「人間の姉は、確かにそう言って俯いていた」
「……可哀そうなことだ」
「そうだな。お前からしてみれば大切な姉妹を虐めるなんて特に有り得ないことだろう」
スッとまつ毛の影を落としたエルフリートの横顔を見て、ガヴィンは申し訳なさそうな顔になった。
「元々はその虐められていた姉がお前の所に嫁ぐはずだったのに、意地悪な妹が無理やり結婚相手を替えたので、どうにかして戻して欲しいと姉は宰相の男に訴えていた」
「……そうか」
「姉は、本当は自分がお前のところに嫁に来たかったと静かに泣いていたぞ。俺はなんだかその姉が不憫でならなくてな。お前ならその姉を幸せにしてやれるんじゃないか?」
「……」
「なあ、姉が可哀そうだと思わないか?俺はな、お前にならあの姉を任せたいと思ったんだ。お前は俺が知る誰より優しくて誠実で、少し恋愛には疎いが、でも俺が女だったら間違いなくお前と結婚したかったくらいのいい男だ。あの姉を幸せにしてやれるのはお前しかいないと思うんだ!」
「いや、そんなことはないだろう」
「いいや、そんなことはあるんだ。あの姉はお前と結婚したいと泣いていたんだぞ。悔しいがお前しかいないだろう!」
ガヴィンはキャロンの姉と話したこともない筈なのに、その言葉には熱い熱が籠っていた。
「なあ、エルフリート」
ガヴィンがずずいとエルフリートに迫ってきたが、エルフリートはふいとそれを避けた。
首を振るエルフリートは、ガヴィンとは対照的にどこか冷めた目をしていた。
「あの姉を助けてやってはくれないか」
「申し訳ないが、私では助けになれないだろう」
「何とかならないか?」
「すまないが」
「いいや、諦めないでくれ。その姉ともう一度会って話して、王に2人で直談判に行くのはどうだ。俺が姉との連絡役を務めるぞ?!」
どうやら必要以上に感情移入してしまった様子のガヴィンは、遂にエルフリートの腕を掴んできたが、エルフリートはそれを押し留めた。
ゆっくり目を伏せ、首をゆるゆると横に振る。
「私はもう曲がりなりにも結婚をしてしまった身だ。私の相手がどうあれ、あまり不誠実なことはしない。私がその姉と会うことはない。この話はもう終わりにしよう」
たとえその姉が不憫だったとしても、いかにこの結婚が望まない相手とのものだったとしても、エルフリートはもう藻掻く気はない。
それに、すでに結婚している身なのに自分と結婚したいなんて言って泣く人間とこっそり会うなど、それこそ自分がキャロンにされて嫌だったことをしているのと同じではないか。
「本当にお終いでいいのか?」
「そう言っている」
「お前はよく分からないな。地味でパッとしない貧相な妹に比べて、姉は綺麗でとても乳がでかい人間だったのに。俺は出来る事ならもう一度くらい会いたいんだがな……」
ガヴィンは何かを思い出して少し頬を赤らめたようだったが、エルフリートはもう何も言わず立ち上がった。




