美しい玄関
一方。
美味しい朝食を作り上げたあとのキャロンは、次は濡らした布で玄関を磨いていた。
玄関は屋敷の顔。
しいては、家の品位を映す鏡。
念入りに、丁寧に。
だけど、時間はかけすぎず。
キャロンは二人の料理人見習いが形容した通り疾風の如く動き回り、大理石の玄関を隅から隅へと完璧に磨き上げていく。
途中、少し欠けてしまっている額縁を見つけた。
玄関ホールの一番目につくところにあって、元々の装飾も凝ったせっかくの額縁なのに、勿体ない。
キャロンは辺りを見回した。
でも、いつ欠けたかも知れない額縁の破片が見つかることは勿論なく。
しばし考えて、キャロンはポケットから紙を引っ張り出した。
ペンも取り出して、割れた額縁に合う破片を描いていく。
でも、こんな小さなものでも具現化はできないかも知れない。
キャロンは持っている魔力量が極端に少ないので、1日に使える魔法に厳しい制限があるのだ。
今日はもう既に泡立て器を具現化しているので魔法は使えないだろうけど、と諦め半分に描き終えた絵に魔力を流した。
「あっ」
じわり。
滲むようにゆっくりとだが、欠けた部品が具現化した。
もう今日の魔力は無くなっていたと思っていたけど、なんとか欠片分は残っていたのかも知れない。
よかった。
キャロンは具現化した欠片をくっつけて、額縁を元通りにした。
キャロンは改めて、自分が直した大きな額縁を仰ぎ見る。
そこには、大きな狼の尻尾を持った男性と綺麗な女性、それから小さな子供が二人描かれた絵が入っていた。
多分これは、前当主であるエルフリートの父親と家族の絵だ。
であれば二人いる子供のうちのどちらかは、エルフリートなのだろう。
結婚はしたが、キャロンはエルフリートの両親と挨拶をした事もないし、彼に兄弟がいたことさえも知らなかった。
キャロンはエルフリートに嫌われているから、紹介もされなかったということかも知れない。
だけど絵の中で皆が笑っていて、とても仲の良さそうな家族だ。
(素敵なご家族ですね。でもこの屋敷にいないということは、皆さんここではない所に住んでらっしゃるのでしょうか)
キャロンは微笑む家族を見て優しい気持ちになり、その絵が入っている額縁を特に念入りに拭いて綺麗にした。
「よし、玄関掃除おわりです、っと」
ふう。
濡れた布を持った手の腕で額の汗を拭う。
次は廊下の掃除をしたいな。
廊下は広くて長いから、更に気合を入れないと。
ヨシっとエプロンのリボンを結び直した時、食堂の方からこちらへ向かってくる足音が聞こえた。
コツコツと靴が床とぶつかる音が段々と大きくなって聞こえてくる。
この綺麗な足音は、きっとエルフリートだ。
エルフリートは歩き方もとても絵になる。
きっと目の保養になるような歩き姿だろうけれど、エルフリートはくさいキャロンには会いたくないだろう。
彼に嫌な思いをさせたくない。早くこの場を離れないと。
キャロンは水の入ったバケツを手に持つと、すたこらさっさと次の仕事場へ移動していった。
……
「グリシス」
半歩前を歩いていたエルフリートがピタリと足を止めた。
大量のクロワッサンを抱えたグリシスは「はい」と返事をする。
「玄関はこんなに綺麗だったか?」
エルフリートの呟きに、グリシスは一歩大きく前進して玄関を覗き込んだ。
「確かに、なんだか眩しいですね」
思わず目を細めてしまった。
使用人たちはいつも清潔な屋敷を保ってくれてはいるが、新品のように輝く玄関を見たのは初めてだ。
絵の中で笑うエルフリートの両親たちも、心なしか嬉しそうに見える。
エルフリートも綺麗な玄関に感心していたようだったが、クンと何かに気づいてグリシスを振り返った。
「なにか……いい香りもするようだが、花か?」
「花ですか?」
「だが花は飾られていないな。ならばこれは気のせいか」
グリシスには花ではなく清潔な匂いしか感じられなかったが、エルフリートは小さく鼻を押さえていた。
エルフリートもグリシスも同じように鼻は利くのだが、グリシスには感じられなくてエルフリートに感じられる匂いというのもあるのだろうか。
どこかで、他人には感じられない花のような匂いにまつわる話を聞いた気もするが、グリシスはその話をよく思い出せなかった。
だが、まあいい。
思い出せないということは、そう大切なことではなかったのだろう。
「とりあえず、ここまで磨き上げてくれた使用人には感謝ですね。玄関掃除は確か、ボルト爺の担当でしたか」
「ああ。後でボルト爺にもよく礼を言っておかないとな」
ボルト爺とは亀の一族の獣人で、エルフリートが生まれる前から屋敷に仕えてくれている、獣人には珍しい長生きな種族の使用人だ。
「最近ちょっと遠視がのう」と言っているので埃の取り残しなんかがあった玄関だが、爺も本気を出せばここまでできるのだ。
すばらしい。
綺麗な玄関は、気持ちよくエルフリートとグリシスを送り出してくれようとしていて、気分がいい。
これで今日も頑張れると言うもの。
……と思ったがつい、美しい玄関と対比して気に食わない真実を思い出してしまった。
「これでエルフリート様に与えられた人間があんな女ではなくて、旦那を笑顔で送り出すような健気な女性なら完璧でしたのに」
「彼女はまだ寝ているか?」
「そうでしょうとも。メイドからも起きだしてきたらしいという報告はないですし、部屋は物音ひとつしないそうです。今頃はエルフリート様が用意した最高級の布団で惰眠を貪っているのでしょう」
「そうか」
「まあ、物音がしないということは男を連れ込んだりはしていないということですね。この屋敷の中でそんなことをしたら叩き出してやりますが」
「流石にそんなことはしないだろう」
「ですかね?でも彼女は、結婚式の朝まで男遊びをしていた女ですよ」
それについてはエルフリートは返事はせず、グリシスが手際よく肩に掛けた大きなマントを翻して、押し開けられた玄関扉から外に出た。
これから魔族との攻防が続く戦線へと向かう。
今の戦況は互いに隙を窺って睨みあっているような状況だ。
小さめの戦闘は依然として続いているが、国境を破られるまでには至っていない。
仕掛けてくる魔族も雑兵ばかりで、魔族の主戦力が動いている気配もない。
だが、魔族とは底が知れない恐ろしい種族だ。
獣人は多くの魔族を討ち取ったが、その裏で何人もの獣人の戦士が敗北していった。
エルフリートよりもっと強かった人も、魔族に背後を取られて殺されている。
エルフリートは魔族の恐ろしさを知っている。
憎いくらいに良く知っている。
魔族は、決して常識や理屈ではとらえられない理不尽な力を持っている。
そして、人が泣いて悲しむ姿を見て笑う。
戦況が安定していても、決して気を抜いて相対してはいけない相手だ。
……
「ふんふふんふふーん、ふふふふふーん」
キャロンは少し外れた調子で鼻歌を歌いながら、廊下の窓を磨いていた。
玄関掃除を終えた次の、窓掃除だ。
きゅきゅきゅきゅ。
きゅきゅきゅっ。
硝子は磨けば磨くほど透き通って綺麗になるので、掃除のし甲斐が有る。
「ふんふふんふふーん、んふふふふふーん……あ」
キャロンは窓を磨く手を止めた。
4階の小さな廊下の窓から、仕事に行くエルフリートとその従者の姿が見えた。
シャンと立つ二つの影。
凛とした横顔。
彼らは、これから魔族との戦闘があるかもしれない危険な仕事場に行く。
強い彼らが体を張って戦っているおかげで、人間の国は魔族から守られている。
人間の国も支援はしているが、そんなもの命懸けの彼らには有って無いようなものだ。
本当に、獣人の彼らには感謝しかない。
でも、ああやって命懸けで頑張ってるのにご褒美に貰えた人間がキャロンで、エルフリートには本当に申し訳ない。
ごめんなさい。
結婚が決まってから何百回と唱えた謝罪の言葉を飽きもせずに呟く。
しかしそれと同時に、別の事も祈った。
どうか彼らが怪我をしませんように。
今日も帰って来て夜は屋敷でゆっくり休めますように。
そう小さく祈った。
キャロンに願われてもエルフリートたちは嫌なだけかもしれないから、気づかれないようにそっと。
窓の外に見えるエルフリート達は、四階の窓際のキャロンに気づく事はなく道の向こうへ消えていった。