気持ちの良い朝には美味しい朝食を
次の日。
キャロンは小鳥が目覚めるよりも早くぱっちりと目を開けた。
布団がフワフワでぐっすりと眠れていたくせに、こんな早くに起き出してしまった。
でも、最高の目覚め。
体も頭もすっきりとしているようだ。
瞬きをする。
目の前に、広い天蓋が広がる。
嫁入り前は目覚めればすぐ小汚い納屋の雨漏りのする屋根が見えるだけだったので、この違いにはいささかびっくりする。
「本当に、凄いお部屋ですね……」
大きなベッドからそろりと足を出せば、フワフワな絨毯に包まれた。
こんなに足に優しい床を歩いたのは、生まれて初めてかもしれない。
絨毯を踏むのが勿体なくてつま先立ちでジャンプするように歩き、広い部屋に備え付けられた浴室まで歩いて行った。
昨晩はここで体を洗い、用意された良いにおいのする石鹸に酔っぱらってしまいそうだった。
今日の朝も浴室は変わらずあるので、昨日の入浴も夢ではなかったらしい。
本当に、こんな生活をさせてもらっていいのだろうか。
キャロンは浴室の隣にある洗面台で水を少しだけ流し、顔をピタピタと洗った。
洗顔石鹸らしき文字が書かれた石鹸も発見したが、顔だけを石鹸で洗ったことなどない。あまりよく分からないので、いつものように水で洗ってフワフワのタオルで水気を押さえつけた。
ゴワゴワのヤスリのようなタオルしか使ったことが無かったキャロンは、タオルがあまりに気持ち良すぎるので、水気がなくなってしまってからも飽きずにポフポフと頬を拭いていた。
いくらかうっとりとポフポフして、キャロンはようやくエイッと頬からタオルを引き剥がした。
名残惜しそうにタオルを戻して、後ろ髪引かれながら洗面台から離れる。
こんな素晴らしい体験をさせてもらえたのだから、せめてキリキリ働いて返さねば。
キャロンは小さな鞄の中に詰めてきた麻の簡素な服を取り出して、テキパキと身に付けた。
仕事場を探しにいくため、部屋の扉を開ける。
長い廊下はシンとしていた。
キャロンは朝の静かな時間の中、薄い光の差す廊下を歩く。
とても美しい朝だ。
獣人の国は建築物も乱雑で、文化レベルも低くて、獣人は芸術も分からないと一部の人間は笑う。
けれど、エルフリートの屋敷の窓ガラスは一枚一枚が繊細で、その窓の外に見える庭も花の花弁が一枚一枚色付いているのが見て取れるほど良く整えられている。
ここは綺麗な場所だ。
キャロンは階段を静かに降りていく。
キャロンの部屋がある階も、その下の階も、その下の階も人の気配はなかった。
しかし一階に降りると、ようやく喋り声と気配が感じ取れるようになってきた。
「じゃあ、一体どうするんだい」
「僕ら2人じゃあ、用意できっこないよ」
なんだか、揉めているような困っているような声が聞こえてくる。
キャロンは声がする方へそろそろと近づき、その部屋の前まで来た。
声がするのは、どうやら厨房の中からだ。
厨房の押し扉を少しだけ押して中を覗くと、小さな体と長くて細い尻尾を持った獣人が2人、頭を抱えていた。
「あの、どうしたのですか?」
「うん?君は誰だい?」
獣人のうちの1人、短めのおかっぱ頭の男の子が振り向いて声を上げる。
「私、昨日新しくこのお屋敷に来ました。お二人が何かに困っているなら、お手伝い出来るかもしれません」
キャロンがペコリと頭を下げると、獣人2人は顔を見合わせた。
「新入りだってさ。どうする?手伝ってもらうかい?」
「でも、料理なんてわからないんじゃあないかな?そもそも僕らだってまだ見習いなんだから、教えてあげられる余裕もないよ」
ヒソヒソと話しているが、2人は完全に隠す気はないようで、内容はキャロンにも聞き取れた。
「お二人は、お料理ができる人を探しているのですか?」
「そうなんだよ」
今度は少し長めのおかっぱの男の子が頷いた。
「私、料理の経験があります。前にいたところでは仕入れまでしていました」
「え?仕入れまで?」
「そうなのかい?」
キャロンの顔をまじまじと観察しながら、2人のおかっぱの男の子たちは再び顔を見合わせ目配せをし合った。
2人とも、考えたことは同じだったらしい。
「じゃあ、手伝ってもらってもいいかい?」
「今日は料理長と副料理長、2人ともどうしても体調が悪いって言って僕ら2人しかいなくてね。困ってたんだよ」
男の子達はそうと決めるが早いか、キャロンの手を引いた。
厨房の奥の戸棚から洗い立てのコックコートを出してくる。
それから、同じ場所に保管してあった白いコック帽も手渡してきた。
「じゃあ、よろしく頼むよ。今は猫の手も借りたいところなんだ」
「分かりました。料理長さん達、早く良くなるといいですね。今日はささやかですが、私が精一杯お手伝いします」
キャロンは言うが早いか一瞬でコックコートを身につけ、腕まくりまでしていた。
さて。両親が亡くなった時から、キャロンは侯爵家の家事を全て受け持ってきた。
掃除や洗濯だけで無く、もちろん料理もだ。
最終的に仕入れも全てキャロンが管理していたし、毎日のメニューだって考えていた。
我儘のひどいエイルの注文で鍛えられてきたし、マルチタスクにも自信がある。
キャロンは本日の朝食メニューを受け取って、簡単に覚えた獣人の国の文字を目で追う。
ムツムツ焼き、トリンキン焼き、ポードレドルト焼きにナナツボシ焼き。
(ムツムツ?トリンキン、ポードレドルト?はて。良く分からない食材ばかりですね。いえ、それよりも問題は……)
良く分からない食材の名前がずらりと並んでいるけれど、食材は聞けばわかるだろう。
だが問題は調理法だ。
朝っぱらから焼き物三昧なんて、本当にこれでいいのだろうか。
少し疑問は沸いたが、兎にも角にも。
キャロンはまず、おかっぱの二人に食材を紹介してくれるよう頼んだ。
そこで頷いた二人によって用意されたのは、いくつかの巨大な肉の塊だった。
「これがムツムツの肉で、こっちがトリンキンの肉だよ」
「それで、これがポードレドルトの肉でこっちがナナツボシの肉だ」
おかっぱの二人は異様な形をした真っ赤な肉を指さし、丁寧に教えてくれる。
肉の一つはなんだかデロデロしているし、他の一つは岩のように固そうな見た目をしている。
半透明の肉もあれば、星形模様が付いている肉もあった。
「珍しいお肉なのですね。私はこのようなお肉を見たことは初めてです」
「え?君は虫獣の肉を見たことがないのかい?」
「虫獣?」
ごくり。
キャロンは思わず生唾を飲んだ。
虫獣とは、獣人の国と魔族の国の間にある湿地や森に生息する巨大な虫の化物だ。
人間の国にいる虫とは訳が違うとても大きな生き物で、獣人は飼育・食用している。
知識として何となくは知っていたが、キャロンはその肉を初めて見た。
「これが虫獣の肉ですか……」
「ははは。そうだよ。何をそんなにまじまじと見てるんだい。皆いつも食べているじゃないか」
「いや、アレキス。山の麓の田舎では虫獣を食べない地域もあるらしいんだ。だからこの新入り君は、物凄い田舎の出身なのかもしれない」
アレキスと呼ばれた長めのおかっぱの男の子は相方にそう言われて、そうか、と相槌を打った。
そしてキャロンの顔を覗き込んできた。
「田舎の出なんだね。都会へようこそ。そういえば、君は何の一族なんだい?君の匂いは嗅いだことがないし、尻尾も服に隠れて見えないくらい短いもののようだし」
一般の獣人はまず人間に会ったことが無いから、人間の匂いも分からないらしい。
そして嫁入りしてきた貴重な人間が厨房にふらりと現れるなんて夢にも思っていないおかっぱの二人は、まさかキャロンが人間だとは微塵も思わなかったようだ。
ふんふんとキャロンの匂いを嗅いでいるが、2人はキャロンが返事をする前に、キャロンは数の少なくなったカモシカの獣人だろうと勝手に決めつけた。
「僕らネズミの獣人と違って珍しい、絶滅危惧種のカモシカの獣人か。初めて会ったよ」
「山に登るのが得意で、崖でも岩山でも臆しないと聞いたよ。いいね、頼もしい新入り君じゃないか」
こうしてキャロンは何も反論する間もなく、カモシカの獣人として認識されてしまった。
「……ふむ」
まあ、いいか。
特に支障もなさそうだし、二人がさらに友好的になった気がするし。
ところで、獣人には人間と同じように血筋というものがある。
キャロンが侯爵家の人間であるように、この二人のおかっぱ料理人見習いたちはネズミの一族出身で、細く長いしっぽを持っている。
今の獣人は尻尾と匂い以外に外見の特徴を持たないこともあるが、おかっぱ料理人見習いたちはキャロンは子供かと間違うくらいには、鼠らしく体が小柄だった。
2人は体が小さめで可愛いなと思っていたら、長めのおかっぱの男の子・アレキスがパンパンと手を叩いた。
「さあ、そろそろお喋りはお終いにしようか。もう料理に取り掛からないといけないね。3人しかいないんだから、時間はいくらあっても足りないだろうから」
そしてキャロンともう一人の男の子に役割を振り分け始めた。
「じゃあ新人の君は焼く係。僕は肉を切る係だけど、オメロンも焼く係でいいかい?」
オメロンと呼ばれた短めのおかっぱの男の子は頷いたが、キャロンはおずおずと片手を上げた。
「あの、そのことなのですけれど……」
「なんだい?新人の君」
キャロンは渡されていたメニュー表を引っ張り出して、思い切って提案してみた。
昨晩はあんなにフワフワの素敵なベッドで寝せてもらえたのだから、ただ言われた仕事をこなすことだけでは不十分な気がしたのだ。
もっとこう、なんというか、人間の国の知識と獣人の国の文化を合わせて、この屋敷になにか新しいものを提供したいと思ったのだ。
美味しくて、朝から元気が出るような何かを。
「あの、焼くお肉だけじゃなくて、私に他の料理法を試させてもらえませんか?」
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よかったら、恐々覗いてみてやってください。