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新しい部屋と深まる誤解






キャロンは結婚式のあとエルフリートの住まう、ハーレダルクの大きな屋敷に連れてこられていた。


エルフリートの屋敷は見るからに大きく、やはり広かった。

中心にある螺旋階段はとても長いし、各階には幾つも大きな扉がある。

エルフリートの狼の一族の歴代の当主の肖像画が並んでいる一角もあれば、鎧や剣が飾られた広間もあった。


キャロンは案内され、その最上階の一番角にある部屋を与えられた。


勿論、嫌われているから屋敷へ向かう馬車の中でもエルフリートは終始無言だったし、着いてからはキャロンが直ぐに自室に案内されたのでエルフリートと言葉を交わす機会はなかった。


キャロンのような嫁が来て、もう姿を見たくない程がっかりしているからだろう。

キャロンは心の中で何度もペコペコとエルフリートに詫びながら、小さな鞄で事足りた荷物を、与えられた部屋に運びこんだ。



そして一息つき、改めて部屋を眺める。

ここが新しいキャロンの部屋。

以前いた納屋よりも大きくて、そして……

え?

キャロンはあんぐりと口を開けて驚いていた。

先ほどまでエルフリートに申し訳ないと思っていたことも、すっかり忘れてしまうほど驚いていた。


何故驚いているのかと言うと、部屋だ。

キャロンに与えられたのが、お姫様の使うような広くて綺麗な部屋だったからだ。


目が痛くなる程部屋が綺麗すぎる。

天国かと思うほど居心地がよすぎる。

それに踊れるほどに広すぎる。


化粧台もあるし、テーブルもあるし、ソファもあるし文机も本が入った本棚もある。

ノートサイズの高級な紙もメモ用にと備え付けられているし、なめらかな線が描ける羽ペンもある。


ベッドも押せば沈んでしまうほどふかふかだし、本当にここで寝てもよいのだろうか。

こんなに柔らかくて、寝たら壊れてしまわないだろうか。

天蓋だって付いているし装飾のついたベッドで寝るなんて、罰が当たりそうな贅沢だ。


(なんて、なんてすごいお部屋なのでしょう!私、本当にここで暮らしてもよいのでしょうか!)


初めて見るふわふわなベッドにそろりそろりと近づき、片手だけをゆっくり動かす。

未知のものに恐々触れるように指を伸ばす。

ふわり。

まるで雲のような感触だ。

もう一度、次は少し強く押してみる。

ふんわり。

指が溶けてしまいそうなほど柔らかい。


(これが、私のベッドですか……!!!)


キャロンは感動していた。

思わず顔がほころぶ。




しばしベッドを指で押したり手のひらで撫でたりして堪能していたら、コンコンと扉がノックされた。


「あ、はい」


誰だろう。

キャロンはパッと立ち上がって返事をした。


「エルフリート様の従者を務めている者だ。グリシスという。今いいか。時間はそう取らせない」


ぶ厚い扉の向こうから、冷静そうな淡々とした声が聞こえてきた。


「は、はい。どうぞ!今開けます!」


扉に鍵はかけていなかったが、開けて差し上げなければと思ったキャロンはトトトと走って急いで扉を開けた。


そこには名乗り通り、エルフリートの従者の男性が立っていた。

結婚式の場でもエルフリートに初めて顔合わせした日でも見た、巻いた尻尾の犬の一族の男性だ。


従者の男性、グリシスは結婚式の青いドレスのまま扉を開けたキャロンを見て少し顔を歪ませたが、努めて冷静に話を切り出した。


「手短に話そう。今夜の件だが」


「今夜?」


はて。

何か約束でもあっただろうか。

キャロンは小さく首を傾げた。


「今夜、だ。結婚式の日の夜だろう今夜は」


「はあ、そうですね」


キャロンが打っても全然響かないので、グリシスは怪訝な顔になってキャロンを睨みつける。


「とぼけた振りもなんと白々しいことか。毎日のようにそれを楽しんでいるお前に分からぬはずがないだろう。でも、エルフリート様はお前などに心を許したりはしない。いくら王のご期待に添えなくなると言っても、エルフリート様がご自身の気持ちを蔑ろにすることはない。お前に、今後一切寝室に来るなというエルフリート様の言伝を俺は確かに伝えたからな、その心づもりで過ごすよう」


「分かりました。けれど、言われなくても行ったりしません。大丈夫ですよ」


心配しないで欲しい。

人様の寝室に勝手に行ったりはしない。

キャロンがエルフリートに近づけば、また彼が嫌な思いをするだろう。

それに、キャロンにはこの立派なふわふわベッドがあるのだ。

人様のベッドに近づく必要もないではないか。


キャロンは生まれてこの方男性とは全く縁のない生活を送ってきたので、グリシスの言うことに未だにピンと来ていないでいたのだった。

しかし良く分からないままに返事をしたキャロンの一方で、グリシスは益々顔をしかめていた。


「言われなくても行ったりしませんだと?なんだその言いようは。お前がエルフリート様に文句を言える立場にいるとでも?!」


「えっ?!いいえ!そんな滅相もありません。私は元々どこでも寝られるような人間なのに、こんな素敵なベッドを用意してくださって……」


エルフリートに文句があるなんてとんでもない。

キャロンは納屋で寝ることも覚悟していたというのに、こんな素敵なベッドと部屋を用意してくれたのだから。


しかし、グリシスは何故かますます怒ったようだった。


「どこでも寝られる?!もはや悪びれる事も、隠す事もしないというのか」


「えっ?あの、隠したところで、すぐに分かってしまうことです、よね?私は馬小屋で寝たことも野草の中で寝たこともあります。そういうものも、貴方たちはにおいでわかってしまうのですよね?」


そういう女の子らしさのかけらもない汚いキャロンだから、エルフリートはくさいと言ったのだろう。

獣人は鼻が良いから、汚い出自を隠したところでお見通しだろう。

そう思っての発言だったのだが、グリシスはまたまた驚いたようだった。


「馬小屋で!!野外で!!とんでもない女だな貴様は……もういい。よく分かった。これ以上は気分が悪い。失礼する」


「あっ」


グリシスは言うが早いか踵を返し、もうここには一秒たりともいたくないとばかりに足早に去っていった。

キャロンはその後ろ姿を引き留めようとしたが、一足遅かった。


まだ、聞き忘れたことがあったのに。

明日から早速仕事を始めようと思っているのだが、炊事洗濯、庭掃除に馬小屋と煙突の掃除をしたあとにどこか掃除をしておいて欲しい場所はあるか。

それから、屋敷に修繕が必要な個所はあるか。

折角だから、それを聞きたかった。


でも、エルフリートの寝室に忍び込むことは許さないと言う当たり前の話をしただけで終わってしまった。








……



静かに書斎の扉を開け、グリシスは部屋の中に体を滑り込ませた。

静かに灯った橙の光の下、主であるエルフリートは古い本を広げている。


「只今あの女に言伝を伝えて参りました」


エルフリートが本から顔を上げたので、グリシスは綺麗なお辞儀をした。


「ありがとう」


「いいえ」


グリシスがプルプル尻尾を振って答えると、エルフリートは本に視線を戻した。

そして何か考えるようにしたあと、何気ない調子で質問をする。


「何か言っていたか」


「ええ。エルフリート様のお耳に入れるのも憚られるような事をいけしゃあしゃあと」


「というと?」


「っ、あの女、エルフリート様との初夜は言われなくとも興味はないなどと言い放ったのです!」


「そうか」


「それから、どこでも誰とでも寝られるから、とあの女は発言しました。エルフリートに拒絶されたならされたで、他の男と寝ればいいという意味だったのでしょう」


「……」


「そして最後に、自分は馬小屋でも野外でも楽しんだことがあると意気揚々と語ってきました。……地味で綺麗でもない女ですが、見た目に騙されてはいけません。あの女は最低の淫乱女です!!」



言い切ったグリシスは肩ではあはあと息をした。

渦巻く怒りをなんとか抑えて、尊敬する主、エルフリートの横顔をちらりと見る。

エルフリートはグリシスの答えを聞きながら、ゆっくりと視線を落としていた。


その瞳の奥の温度は、読み取れない。

エルフリートはあまり自分の感情をあらわにしない。




彼は、気高く強い、銀狼の一族。その当主。

戦場を駆け、刃を振るうその背中の頼もしさたるや。

真っすぐで折れない信念と、正しく澄んだ忠誠心。そして仲間を決して見捨てないその優しい強さ。


グリシスはエルフリートに命を救われた過去もあり、エルフリートには誰よりも幸せになってもらいたかった。


獣人の国で最高の軍人に贈られる栄誉勲章を賜ったエルフリートに人間が与えられると聞いて、グリシスは最初、誰よりも喜んでいた。

エルフリートに人間が与えられれば、エルフリートはその人間との間に番の誓いを立てられるかもしれない。

人間に番の誓いを立てることが出来ればエルフリートは更に強くなれる。

先祖返りをして巨大な銀狼に姿を変えて一騎当千の英雄になることも出来る。

人間の番がいることでエルフリートは長生きもするだろうし、もしかしたら可愛くて強いエルフリートの子供と遊べる日が来るかもしれない。


そんなことを夢見た日もあった。

どんな素晴らしい人間がエルフリートの元に来るのだろう。

エルフリートは素晴らしい獣人だから、きっと与えられるのも可愛らしくて賢くて優しい女性だろう。

だからやがてエルフリートもその女性の事を信頼し、その女性もエルフリートの事を好きになって、理想の信頼関係を築いてくれる。

グリシスはそう期待をしていた。



しかし、グリシスの期待は呆気なく砕かれた。


初めての顔合わせ、キャロンは多数の男のにおいをこれでもかと纏わせて現れた。

結婚式の日も更に酷いにおいを振りまいていた。


エルフリートの相手がこんな浮気女で、淫乱女だったなんて。

非常識で、傲慢で、高飛車で、相手を思いやる心がない事は火を見るよりも明らかだ。

信頼のしようがない人間であるキャロンは、誠実なエルフリートには似合わない。


エルフリートの元に来た人間があんな風では、エルフリートはもう輝かしい将来を掴むことは出来ないかもしれない。グリシスはそう思った。


エルフリートは王に更に強くなる器だと期待されているが、きっともうそれも無理だ。

エルフリートが好いてもいない相手に無理やり誓いを立てるとは思えないし、たとえ無理やり誓いを立てたとしても、人間に裏切られたり死なれたりすれば、獣人は灰のように力を失うことになってしまう。


それに、別に愛せもしない人間などいたところで獣人は長生きは出来ないし、子供も生まれない。

感情など無視して利益の為だけに無理やり物事を進める手もあるが、真っすぐで優しいエルフリートは相手の為にも自分の為にもその手段は絶対に選ばない。

長年仕えてきたから、グリシスには分かる。



「本当に、あの女でなければよかったのにと思わずにはいられませぬ」


グリシスの悔しそうな言葉に、エルフリートは何も言わなかったが静かに目を伏せた。


「鼻の利く獣人には嫌というほど分かります。あの女からは沢山の男の嫌なにおいがする。初めてあった時も驚きましたが、あの女、結婚式の日の朝まで複数の男と遊んでいたのです」


憤ったグリシスの言葉に、エルフリートは小さく頷いた。


「式の直前、彼女に弁解する気はあるかと聞いた。だが、彼女は弁解する気もないようだった」


「ではもう擁護のしようがありませんね。あの女は男遊びを繰り返していることを認めたのですから、それは紛れもない真実ということです。あの女に再び近づけば今度こそ鼻がもげることでしょう。今日の式の吐瀉物の方が幾億倍かはマシというもの」


「いや、あれも結構酷かったぞ。普通に鼻がもげるかと思った」


エルフリートが本から顔を上げて困った顔をしたので、グリシスは思わずあははと笑ってしまった。


「ああ確かに、あの女もあの女で酷かったですね。ゲロまみれなのにエルフリート様に枝垂れかかって来て、俺ははっ倒してやろうかと思いました」


「ははは」


エルフリートは乾いた声で笑った。

目が死んでいる。

もしかしたら、吐瀉物の酷いにおいを思い出して気持ちが悪くなっているのかもしれない。



グリシスは急いで良い香りのお茶を淹れ、エルフリートに差し出した。


清らかな湯気の立つお茶で息を整えたエルフリートはふうと息を吐き、しばらくゆっくりと書斎の窓の向こうに見える鈍色の月を見上げてた。


エルフリートは戦場では勇猛果敢で気高い狼そのものだが、プライベートではかなり穏やかでまったりしている。

古い本を読む事が好きだし、こうしてただ月を眺める事が好きだし、古い図鑑を引っ張り出して来て古代の生物を緻密に模写したり、もう使われなくなった文字を書き写したりすることが好きだ。

エルフリートはまだ若いのに、どこか古風なところもある。





「何を考えておられるのですか?」


落ち着いたところで、グリシスは静かにエルフリートの隣までやって来て、月を見上げながら尋ねた。

エルフリートは小さな音を立てて、ティーカップをソーサーに戻す。



「……申し訳ない事になったと考えていた」


「まさか、あの女にですか?」


「状況的には、彼女は国の勝手な都合で人柱よろしく故郷から離されて異国の地に送られて、良くも知らない獣人などと結婚させられたのだ」


「エルフリート様、そうはいっても全てあの女が悪いのです。あの淫乱女を信用して慈しむことは誰が相手でもできません」


「だから、申し訳ない事をしたと思っていた」


「信用して慈しむことが出来なくて申し訳ない、と?まさか!エルフリート様はお人好しが過ぎます!申し訳ない気持ちになる必要は全くありませんね!」


「……まあ、そうなのだろうな」


「それに、ああも男遊びを開き直られては、もはや歩み寄ることも不可能です。少しでも隙を見せればすぐに狡猾に騙されて、気が付いたら酷いことになっているやも知れません」


「ああ」



呟いたエルフリートの横顔を見ながら、グリシスはエルフリートの身に降りかかった理不尽を心から呪った。


過去には、手っ取り早く力を手に入れる為に無理やり番の誓いを立て、逃げようとすれば暴力でか弱い人間を従わせていた獣人だっていたほどなのに、どうしてこの優しいエルフリートにはあんな女しか与えられなかったのだろう。








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