結婚式のその日には②
キャロンが巨大なステンドグラスのある会場へと入場するために扉の前に到着した時、エルフリートはもう既にそこにいた。
正装に身を包み、背筋を伸ばして立っている。
広い背中。綺麗な髪。通った鼻筋。涼やかな目元。
目が眩むほど神々しい。凛々しい。尻尾がフワフワで大きい。
「今日もその酷いにおいを纏わせているというのか。式の日でさえ我慢が出来なかったとは……」
だかキャロンがエルフリートの横まで歩いてきた時、キャロンを一目見たエルフリートが眉間にしわを寄せた。
「式の前日にも遊びまわってその酷いにおいをつけている事に、理由があるというのなら聞こう」
(やっぱりまた、ひどいにおいって……)
キャロンの頭の中では、その言葉がごうんごうんと木霊していた。
やっぱり、臭かっただろうか。
結婚式の前日まで泥仕事ばかりしていたキャロンに沁みついたにおい。
女の子らしさのかけらもない、下働きのにおい。
長年あくせく働いてついたそのにおいは、ちょっとお風呂に入っただけでは取れないらしい。
「無言ならば、弁解の余地も無しととるぞ」
「はい……」
酷いにおいに弁解の余地などない。
だってキャロンはずっとボサボサのまま、汗をかきかき仕事をしていたのだ。
可愛く着飾る暇などなかった。
自分はこの綺麗な獣人の男性に不釣り合いにも程がある。
本当に申し訳ない。
キャロンはしょぼんと肩を落とし、エルフリートから出来るだけ距離を取って横に並んだ。
獣人には鼻が利く種族が多いし、狼の一族のエルフリートは間違いなくその種族なので、ちょっとでも匂いで迷惑を掛けまいとしたのだ。
大きな扉が開かれて、キャロンとエルフリートは会場に入場する。
「両人、こちらへ」
新婦であるキャロンと新郎であるエルフリートに、今回の式を進める役割を担う司祭から声がかかった。
司祭は真っ白で長い眉に目が隠されていて、仙人のような見た目の獺の一族の獣人だった。
この会場にいる誰よりも神聖そうな衣装に身を包んでいて、小柄な体ながら誰よりも威厳あるいで立ちだ。
「両人、もっと近う寄るんじゃ」
祭壇に立つ司祭は、キャロンとエルフリートに近く寄るように指示をしてくる。
司祭は鼻がひじゃけているので、エルフリートが嫌がるキャロンのくさいにおいが分からないのかもしれない。
「こら両人、近う寄れと言っておるじゃろう」
キャロンはおじいちゃん司祭を無視し続けるのも居た堪れなくなって、エルフリートを恐々見上げてみた。
エルフリートは微動だにせず、キャロンの方も見ない。
しかし、狼の一族の正装であろう長いマントの端から見え隠れする大きな尻尾は雄弁で、終始毛を逆立てているのが見て取れる。
「エルフリートよ、爺の言う事が聞けんか」
エルフリートは何か言おうとしたようだったが、ぐっと押し黙って首を振った。
司祭はハアと溜息をつく。
「ではもうよい。しかしお前がいくら嫌がっても我らが王の命じゃから、結婚はしてもらうぞ」
司祭はエルフリートの返事は待たず、長い祈りの言葉を呟き始めた。
獣人の国は人間の国と大分文化が違うから、この祈りの言葉に何の意味があるのかキャロンは分からなかったが、必死に司祭の呟きに耳を傾けた。
ちなみに視界の端に入った姉のエイルは、顔を青くしていた。例えて言えば、今にも吐きそうな雰囲気だった。
前方や後方にいる獣人たちを見て、目を白黒させている。
そしてそのエイルの隣には担当官と人間の国の宰相がいて、献上品であるキャロンを獣人の国に納める結婚式が上手くいくまで見届けようとしているようだった。
「では、この結婚を大いなる神と我らが王に誓い、この国の礎とならんことを」
およそ30分ほど息継ぎもさほどせずに祈りの言葉を言い切った司祭は、そんな一言で締めくくった。
なんだかよく分からないなりにとても神聖な時間だったけれど、少し離れたところにいるエルフリートが「どうしても結婚しなければならないか……」と小さく呟いたのを、キャロンは聞き逃さなかった。
(そうですよね)
美しいと評判の姉ならまだしも、くさいだけのキャロンとの結婚なんて嫌に決まっている。
姉を守るためキャロンも引くことは出来なかったとはいえ、エルフリートには本当に申し訳ないことをした。
これからはエルフリートにはこれから極力近づかないようにするし、出来るだけ顔も見せないようにする。
嫌な結婚をさせてしまった分、キャロンは草むしりでも馬小屋の掃除でも井戸の整備でも何でもする。
それにいない者として扱ってくれても構わないから、どうか許して欲しい。
キャロンの謝罪は無言故にエルフリートには届いてはいないだろうが、キャロンは内心必死に祈っていた。
「では両人、こちらに結婚の徴を」
司祭が長い反物のような羊皮紙を魔法の絨毯のように台の上に広げ、キャロンとエルフリートを交互に見やった。
エルフリートは無表情のまま一歩踏み出した。
キャロンの方は見ない。
だがキャロンの方からはエルフリートの広い背中が見え、やっぱり逆立っているとげとげしい大きな尻尾が良く見えた。
エルフリートは司祭と羊皮紙の前に立ち、自分の親指に犬歯で傷をつけた。
そして感情のない目のまま機械的に、溢れた赤い血で塗れた親指を羊皮紙に素早く押し付けた。
成程、司祭の求める徴とは血判の事らしい。
人間の国で言う、婚姻届けにサインのようなものか。
エルフリートは事も無げに自分の指の皮を切り裂いたが、キャロンの歯に果たしてそれができるのだろうか。
仕事のし過ぎで赤切れはあるけれど今日は血が出ていないし、そもそも親指の皮は使い過ぎで分厚くなっていて、ちょっと噛みついたくらいでは血が出ないかもしれない。
「あの、」
「大丈夫じゃよ。ほれ」
自分の親指をまじまじと見つめていたキャロンが助けを求めて司祭に声をかけると、司祭は懐からスッと取り出した針を手渡してくれた。
こうも準備がいいのは、司祭が獣人と人間の結婚を何組も世話してきたからなのかもしれない。
「ありがとうございます」
「ちゃんと消毒してあるでの、今ちょっぴり痛いだけですぐ傷も直ると思うでの」
キャロンは頷くと、受け取った細い針を親指に当ててサクッと突き刺した。
「おお」
司祭が大げさにも聞こえる声を出したので、キャロンは顔を上げた。
「ああ、おぬしは肝が座っとる人間じゃと思っての。嫁入りしてくる人間は大抵泣きべそをかくか、針を刺すのに小一時間はかかるでの」
「そうなのですか」
司祭が少しうれしそうだったので、キャロンはつられて少し微笑んだ。
でもキャロンは決して、司祭の言う『肝が座っとる人間』ではない。
針を簡単に指に刺せたのは、針が指に刺さることより酷い痛みがあることを知っているからだ。
それに実際に、まだお裁縫が上手くできなかった時、何度も何度も指に針を刺してしまったことがある。
なんにせよ、キャロンにとって指に針が刺さるなんて訳ない事なのだ。
こんなもの、痛いのうちに入らない。
キャロンはエルフリートから一定の距離を保つように気をつけながら台の前に立つ。
そしてエルフリートに倣い、血が出てきた親指を羊皮紙に押し付けた。
「血痕で結婚が成立じゃ。ほっほっほっほ」
二つならんだ赤い徴を見て、司祭が満足そうに笑った。
長いひげの間から、小さな口と小さな前歯が見えた。
人間でも獣人でも、おじいさんは愉快な言葉遊びが好きらしい。
「ふふっ」
キャロンは小さく笑ってしまった。
一瞬エルフリートの視線を感じてすぐに口をつぐんだが、彼からは何も言われなかった。
怒られなくてよかった。
キャロンと司祭との間で柔らかい空気が流れたのも束の間。
「うおええええええええ!!!」
突然。
思いもよらなかった酷い声がして、キャロンは驚いて振り返った。