そのころエルフリートは
この日も、エルフリートが守る東の砦は平和だった。
広い訓練場では兵士たちが掛け声とともに剣や槍を振っている。
魔族の襲来が一匹たりともないので、哨戒任務中以外のほぼ全員が砦の訓練場に集まっていた。
エルフリートもその訓練に混ざって新人たちの相手をしていた。
決して易しい訓練な訳ではないが、どことなく緊張感に欠けていて、何となく間が抜けていた。
ここ最近は緊張感のある実戦が、とんとないのが原因だろう。
要するに、平和過ぎた。
「今日も空が青いですね」
「なんだグリシス、藪から棒に」
弓と矢を両手に持っているグリシスはエルフリートの横で、真っ青に晴れた空を見上げていた。
暢気な太陽はポカポカと浮かんでいて穏やかそのものだ。
まるでこの砦が国境を守る重要拠点なんかでではなく、ピクニックのできる公園か何かのような錯覚さえ起きてくる。
「ほんとうにここ最近、欠伸が出る程何事もないなと思いまして」
「それには同感だ」
「ええ、いつもなら魔族の雑魚くらいは何処からともなく湧いて出てくるのに。魔族にも休暇なんてものがあるんでしょうかね?」
「だが三度の飯より破壊が好きな連中だぞ。休暇があれば攻めてくるに決まっているだろう」
「それもそうですね。では他の仕事で忙しいのでしょうかね」
「さあな」
エルフリートは持っていた銀の大槍を下に降ろし、肩を竦めた。
他の仕事で忙しいなんて、魔族に限ってあるものか。
彼らにとって破壊行動よりも魅力的なものは、より強い力を手に入れる事か、人が苦しむ姿を見る事くらいしかないだろう。
グリシスに話しかけられた事で集中が途切れたが、丁度キリも良いところだったので、エルフリートはグリシスに訓練場の監督を任せ、一度自らの執務室に戻った。
屋敷でも砦でも、書類仕事はエルフリートについて回る。
エルフリートは勤勉だが、座ってする書類仕事は少し苦手だ。
大隊長に任命されて一砦を任されて、勲章を獲得してからは更に書類の山が増えた。
重要な書類も増えたし、パーティへの招待状などのどうでもいい知らせも増えた。
(こうして魔族が出ない間に、書類整理を少しでも終わらせておくとするか)
椅子に座り、机の上の書類と対面する。
机に備え付けられていた羽ペンを手に取り、最も重要そうな紙山の一番上の束を手に取る。
かれこれ一時間くらい書類とにらめっこしたが、山はまだまだ減らない。
エルフリートはふうと溜息をつきたいのを堪えて、執務室の飾り棚の一番上に飾られた古傷の有る短剣を見やった。
(兄上もこれをされていたのだから、私も頑張らねばな)
なんて、一人自身を鼓舞する。
短剣の持ち主、エルフリートの前前任の大隊長、この東の砦とともに東の国境の防衛を任されていたのは、実はエルフリートの兄だった。
エルフリートとは少し年が離れていたが、彼はそれこそ何でもできる有能な人だった。
戦いも書類仕事もおてのもの。
強くて優しくて、真っすぐで勇敢で、エルフリートの憧れた人だった。
彼はエルフリートが兵士になるよりも早く大隊長に任命されて、砦を任された。
そして若き日のエルフリートは年齢を満たしたら迷うこともせず、兄がいる東砦で戦うことを志願した。
エルフリートが見た、狼の一族の最高傑作とまで言われた兄が戦場で戦う姿は圧巻だった。
邪悪な魔族を長い槍で薙ぎ払い、愛用の短剣で切り裂いて活路を開いていく。
彼がいればこの砦は難攻不落であると皆が思った。
エルフリートも、あんな戦士になりたいと思って努力してきた。
だが、兄はもうここにはいない。
エルフリートの兄が使っていた短剣には、古い傷と赤い染みが付いている。
それらはもう取ることは出来ない。
エルフリートの目に焼き付いたあの時の光景も、もう忘れることは出来ない。
きっと死んでも忘れはしない。
絶対に許しはしない。
あの時がやって来たのは、穏やかな日だった。
静かで、魔族の敵襲がぱたりと途絶えた日。
訓練が身に入らず、穏やか過ぎて欠伸が出るなんて誰かがぼやいた日。
空が青くて、太陽が無慈悲に穏やかだった日。
そう。
まさに今日のように。
エルフリートはバッと顔を上げた。
そして素早く身を翻し、床に臥して防御姿勢を取る。
それと同時に、大気が揺れた。
どごおおおおおおお!!!!
雄叫びのような爆発音。
建物が揺れる。
岩が崩れるような破壊音。
噴火のように飛び散る破片が窓の外に見える。
先ほどまであったさんさんとした日差しは何かに覆われて消え失せ、砦から光が消えた。
エルフリートは一瞬怯んだが、すぐさま突進でもする勢いで扉を開け、廊下を走り出した。
異常事態。
まずは、状況を確認しなければ。
それから哨戒中だった斥候の者を集め、訓練中だった兵士たちに指示を出さねば。
エルフリートは状況把握の為、砦の階段を駆け上がる。
その途中で出会った兵士たちには、慌てる事なく臨戦態勢を整えて次の指示を待つようにともれなく伝えた。
そしてエルフリートは到着した砦の最上部で、砦一帯を見渡した。
砦の左手側から、もうもうと黒い煙が上がっている。
まるで爆発で吹き飛ばされて炎で焼かれたかのように。無残に破壊された砦の一角が確認できた。
幸いにも砦の左手側は、大勢が活動していた右手側の訓練場の反対だ。
武器庫や伝令用・乗り物用の虫獣の小屋が破壊されたが、兵士への損害は少なそうだ。
しかし、だからといって状況は予断を許すはずもなく。
獣人の国が誇る砦の三分の一が一撃で破壊されたともなれば、それは間違いなく上位種の魔族が出張ってきている。
そうであれば砦付近の街に警報を出し、何よりも早く応援を呼ばなくてはいけない。
そして上位種の魔族に対抗する力を持つ英雄が援軍として到着するまで、何としてでもこの砦を死守しなくては。
砦が立つこの区画は大陸にある国同士の国境の不思議な守りが無く、行き来が自由なスポットなので、ここが落とされれば魔族は一気に獣人の国に雪崩込むことになる。
皆に更なる指示を伝えようと踵を返せば、エルフリートの後ろには優秀な数人の部下の姿があった。
「エルフリート様」
有能な斥候である鼬の一族の女性が、真っ先に声を上げた。
「わたしは丁度哨戒中でしたが、砦を破壊したのは巨大な三つ首の化け物でした」
「化け物?」
「はい。今は砦を包囲する黒煙に紛れて見えませんが、八つの赤い目の化物でした。たとえるなら、神話に出てくる地獄の番犬のような姿です。まるで召喚でもされたかのように、何もなかったところに突如現れました」
「赤い目の化け物……」
「はい。それから攻撃の予備動作として、化け物の三つの頭が寄せ集まっているように見受けられました。攻撃後はすぐに煙に紛れて見えなくなってしまいましたが……」
「そうか。有用な情報だ。ありがとう」
斥候の報告が終わり、エルフリートはその斥候に、兵を残った砦の防衛位置に着かせるよう指示の伝令を任せた。
斥候が小さくお辞儀をして、旋風のように階段を駆け下りて行った。
(赤い目か)
エルフリートは厚く砦を囲う黒煙を睨みつけた。
嫌な気配がする。
そして嫌な予感しかしない。
二度と会いたくなかったが、どうしても会いたかったあの魔族の気配がするような気がしてならない。
「エルフリート様!」
灰が舞う緊迫した空気の中、急ぐエルフリートの横にぴたりと付いた者があった。
「グリシスか」
「近隣の街にはもう警告を出すよう手配しました。あとは援軍ですが、いかがしますか」
「砦左側がああも破壊されては、伝令用の虫獣も残っていないだろう。たしか今年の新人に白馬の一族がいたな。彼女に王宮まで援軍を呼びに行くように指示を頼む」
「はい」
すでにテキパキと集まり始めた兵士たちは臨戦態勢に入っている。
そんな彼らの間を縫って早足に歩きながら、エルフリートは残った武器や配置の確認も済ませていく。
「うちの……ハーレダルクの屋敷は大丈夫そうか」
「屋敷はこの砦と近いですからね。でも使用人たちは避難訓練も何度もしていますし、大丈夫だと思います」
あの引き籠りの人間の妻……キャロンは大丈夫だろうか、とエルフリートは口に出しかけて止めた。
これは聞くまでもないか。
彼女は避難訓練こそ経験してはいないけれど、訓練を積んだ使用人がいる屋敷にいるのだから、きっと誰かに手を引かれて嫌がりながらも逃げているだろう。
評判の良くない彼女だが、流石に見捨てて逃げるような薄情な使用人は屋敷にはいないはずだ。
だが。
そうやって納得した瞬間、エルフリートの元に一匹の小さな虫獣が飛び込んできた。
お尻が小さく光る、片道高速伝令用の虫獣だ。
エルフリートの手の中で動かなくなったその虫獣はエルフリートの屋敷から送られて来たものだった。
メッセージは一言、恐ろしく焦った文字で書かれていた。
その内容は、キャロンが部屋にいないというものだった。
自らも防具をつけて槍を取り、次の瞬間にでも魔族との戦闘が始まろうとしているのに、エルフリートの顔からはサッと血の気が引いた。
いない?
毎日引き籠っていた筈の彼女がいない?
こんな日のこのタイミングで?
まさか。
どういうことだ。




