ほしいもの
毎日いろいろな事があって楽しかったり驚いたりの連続だったけれど、思い返して数えてみれば結婚式の日から数か月が経とうとしていた。
早いものだ。
でもキャロンがエルフリートを避けているおかげでエルフリートとは碌に会話もしておらず、エルフリートと結婚した事実など無かったか、もしくは遥か遠い昔の事のように感じる。
「ふんふふーんふんふん、ふふーん」
この日もキャロンはご機嫌に歌いながら、飾られている鎧や盾を拭いていた。
広くて立派なこの屋敷を磨くのは楽しい。
高級なベッドのおかげか毎日よく眠れているし、体も軽い。
虫獣の肉も想像の百倍美味しいし、こんなに満足な量を食べたことは今までなかったから、毎日満足感で溢れている。
ポプリという愉快な友達もできたし、ボルト爺という茶飲み友達もできたし、厨房のオメロンとアレキスとも仲良くしてもらっている。こんなに楽しいことはない。
キャロンは今日も元気いっぱいだ。
「ふんふるるんふるるーん」
日もとっぷり暮れた頃、キャロン作詞作曲の鼻歌を歌っていたら、ギイイと遠くで音が聞こえた。
これは玄関の大きな扉が開く音だ。キャロンは「あっ」と言って顔を上げた。
エルフリートが無事に任務から帰ってきたようだった。
キャロンはそそくさと立ち上がり、姿を見せないように自室に駆け込んだ。
おかえりなさいと言えればいいのだが、キャロンはくさいと嫌がられているから、やっぱり自重するべきだと思ってしてしまう。
一応ポプリに言われてスキンケアを毎朝晩頑張って時々化粧もしてもらっているけれど、いくら不細工が和らいだとはいえ、やっぱりエルフリートの前に出る勇気は出ない。
そんな訳で、夜帰ってきたエルフリートを避けるようにキャロンが部屋でしばらくじっとしていると、扉のノック音が響いた。
コンコン。
やっぱりキャロンの部屋の扉がノックされているようだった。
キャロンは使用人たちの間で、引き籠りの人間だと思われているから、ほとんどが無干渉を貫いている。
そんなキャロンに、誰が何の用だろう。
「はいー……」
恐る恐る返事をすると、扉の向こうの人物は淡々とした声でエルフリートと名乗った。
「えっ」
思いもよらぬ人物に思わず驚きの声が出てしまう。
(エルフリート様が、何故でしょう?でもとりあえず、出なきゃいけないですよね……)
この服で?
キャロンは掃除終わりで汚い作業着のままの自分を、まじまじと見つめた。
今日は廊下に飾られている大きな鎧や重い盾を裏までピカピカにしたのだが、何も考えずに床に膝をついて拭いたり、壁と盾の狭い隙間に入って埃を取ったりしていたので、いつにもまして汚い。
この姿で出て行けばキャロンは結婚式の日よりも更にくさくて、エルフリートに嫌な思いをさせてしまうのではないだろうか。
「あの、なんでしょうか」
扉の取っ手をぎゅっと握り、キャロンはそのまま扉越しに返事をした。
顔を見せないのは失礼だが、キャロンはくさいと嫌な思いをさせてしまう事をより恐れて、扉を開けないという選択をしたのだ。
扉を開けろと怒られるようなら、お風呂に入って着替えさせてもらってからでもいいかと尋ねようと頭の中で算段をつけていたが、扉の向こうのエルフリートはキャロンの無礼を咎める気は特になさそうだった。
「君に伝え忘れていたことがある」
「あ、はい……」
ごくり。
エルフリートは先ほどと同様淡々とした口調だが、わざわざ部屋まで来るくらいだから何か大切な伝え忘れの連絡事項なのだろう。
この屋敷から出て行けとか?
広い部屋は勿体ないから納屋で寝ろとか?
エルフリートは優しいけれど、とうとうキャロンのくささに我慢が出来なくなったとか?
だがエルフリートが次に発した言葉は、キャロンの想像とは全く別のものだった。
「何か欲しいものがあればメイドに伝えて買ってもらってくれ」
「え」
「よくよくメイドに聞いてみれば、君はエプロンをくれと言った切り何も言わないらしいな。獣人の国で買い物などしたくないと言うのなら無理強いはしないが、私は君が必要なものはこちらで賄うのは義務だと思っていると伝えに来た」
「えっ」
キャロンは扉にべたりと張り付いて聞き耳を立て、エルフリートの思いがけない言葉に驚いていた。
「あの、今、欲しい物とおっしゃいましたか?」
「ああ」
「私の、欲しいものでいいのでしょうか」
「ああ」
「えっと、買ってもらえるのですか?」
「そうだ」
「い、いいんですか?」
「ああ。最低限の生活を保障するのは普通の事だ。ドレスや装飾品も、常識の範囲内であれば構わない」
(ほんとうに買ってもらえる……、私が?それ、ふ、普通の事なんでしょうか)
キャロンはへなへなと床に崩れ落ちた。
ドキドキと心臓が音を立てる。
欲しいものを買ってもらったことなど、今までの人生で殆ど無かった。
エイルの持っているような綺麗なドレスが欲しいと思っても、キャロンは結婚式の日まで何も与えられなかった。
ちょっと丈夫な紙が欲しいと思っても、エイルは取り合ってくれなかった。
綺麗な色の絵の具が欲しいと思っても、そう主張することすらできなかった。
そればかりか、キャロンが獣人の国に送られる人間として国から受け取れるはずの報償金も、どうやらエイルか叔父が受け取ってしまったようで手元にない。
なのに、エルフリートはキャロンに欲しいものを聞いてくれた。
くさいと嫌っている人間にまで気を使ってくれる。
なんて優しい人なのか。
そして、ここはなんて素晴らしい場所なのだろうか。
「あ、あの、装飾品じゃなくて紙とか、買えますか?」
「紙?ああ、紙くらいなら」
「えっと、じゃあ絵の具とかも良いのでしょうか?」
「え?ああ、問題ない」
「じゃ、じゃあ恐れ多いのですけれど、キャンバスは……」
「キャンバス?別に問題はないが」
「……!!!」
問題ない。
紙と絵の具をねだっても問題ない。
今、エルフリートは問題ないと言ってくれた。
何と言う事だろう。
こんな生活、夢にさえ見たことなかったのに。
しかし夢とはこうも突然に叶うものなのか。
「う、嬉しいです!!あの、ありがとうございます、本当に!」
「いや、ああ」
感極まったキャロンが震える声を出すと、エルフリートは扉の向こうで少し驚いたようだった。
だがすぐに元の淡々とした声色に戻り、静かに言った。
「話は以上だ」
「は、はい!」
「では失礼する」
言うが否や、コツコツコツと踵を返してエルフリートが去っていく音がした。
用件を伝え終わって去っていくエルフリートの規則正しい足音を聞きながら、扉にもたれかかるキャロンはぼんやりと夢心地で天井を見上げていた。
(ずっと欲しかった絵の具とキャンバス、買ってもらえるんですね……)
薄暗い部屋なのに星がキラキラ舞って、虹でもかかっているように見える。
夜なのに、目に映るものすべてが輝いているような、そんな感覚だ。
本当に幸せだ。
こんなに幸せでいいのだろうか。
キャロンが願ってから数日後、紙と絵の具と大きなキャンバスは本当に届いた。
紙は今まで触ったこともないくらい上質、絵の具の色は24色もあった。
もうキャロンの手元にある色は黒だけじゃない。
赤、青、緑、黄、それからもっとたくさん。
「う、う、嬉しいですっ……!」
キャロンは目に涙をためて、一人でベッドの上を転げまわった。
紙と絵の具、紙と絵の具、紙と絵の具。
本物だ。
これで、色のついた絵が描ける。
大きな紙に描ける。
この広いキャンバスにも自由に描ける。
色がついた絵に魔法をかけると、それは一体どんなものになるのだろう。
きっと、見たことない程綺麗だろう。
きっと、驚くほど美しいのだろう。
(とっても、とっても楽しみです……!)
かちり。
また一つ、ピースの嵌った音が鮮明に聞こえた。
キャロンは今まで手にしたことがないような、鮮やかな色と広いキャンバスを手に入れた。
ずっと欲しかったものを手に入れた。
キャロンの中の魔力がまた少し大きくなった気がした。
……
陛下の命で結婚することになったキャロンは、結婚式の朝まで男性と遊び歩くような節操のない人間だ。
そしてガヴィンの話によれば、姉を虐める暴虐な性格で思いやりの欠片もない人間だ。
何人もと無責任に関係を持つ、まるで信用できない人間性と、唯一の姉妹さえも慈しむことができない貧しい心の持ち主。
そのキャロンに対して、残念だが嫌悪感しかない。
どうしても好きにはなれない。
エルフリートは結婚した後も、キャロンからは距離を置いていた。
そしてキャロンもそんなエルフリートが気に食わないのか、エルフリートには姿さえ見せようとしない。
同じ屋敷に住み始めて数か月は経ったが、結婚式の日以来キャロンの顔は見ていない。
エルフリートの事が嫌い過ぎるのか、この獣人の国が嫌なのか、はたまた両方か。
キャロンはずっと部屋に引き籠ったままでいる。
エルフリートはメイドにキャロンの世話を頼んでいるが、メイドもキャロンが部屋で何をしているのか知らない。
メイドは「食事は三食きっちり食べているから生きてはいるのだろうけど、扉越しに話しかけても返事はないし、必要なものはあるか聞いても無視されるし、面倒見きれません」なんてぼやいていた。
正直、離婚でもすれば双方幸せだと思う。
だがこの結婚は国から賜った褒賞であり、逃れられない義務であり、軍からの期待でもある。
離婚は万が一にも認められないだろう。
エルフリートはため息をつき、それならばこのままキャロンを放っておく訳にもいかないと考えた。
このままキャロンのことを避け続け、結婚してしまった責任から逃げ続けるのも違うと思った。
だから重い腰を上げて、先ほどメイドの代わりにキャロンに必要なものを聞いてきたのだが。
「どうでした?あの女は何を要求してきました?」
エルフリートは書斎で待ち構えていたグリシスに、開口一番そう尋ねられた。
「背中の開いた高級なドレスですか、それとも宝石まみれのネックレスですか」
「いや。紙と絵の具が欲しいと言われた」
「紙と絵の具ですか?!」
「ああ。それからキャンバス」
案の定、グリシスは驚いている。
エルフリートだって驚いた。
高価なドレスを沢山と珍しい宝石が山盛り欲しいと言われるかと思っていたからだ。
もしくは、もっと大きな部屋だとか海の見える別荘だとか。
でも、実際の彼女が欲しがったのは絵の具とキャンバス。
「なんだってそのようなものを。紙と絵の具なんてあの女、何に使う気なんですか」
「紙と絵の具だから……絵を、描くのに使うんじゃないか?」
「いやいやいやエルフリート様。あの女が絵を描くなんて文化的なことをするはずがありません。あの女は淫乱女ですよ。絵を描く暇があったら男漁りをするんじゃないですか」
「では、何のための絵の具とキャンバスだ?」
エルフリートの問いかけにグリシスはしばし唸り、それからポンと手を打った。
「エルフリート様が絵が好きなことを知って、自分も絵が好きだとアピールしてきたのではないでしょうか」
「それで彼女に何の得が?」
「好感度を上げて、エルフリート様を次のターゲットにしてやろうと企んでいるのかもしれません。あの女は狡猾な人間で男狂いの淫乱です。エルフリート様、夜這いされないように寝室はくれぐれも鍵を二重にしてくださいね」
「……」
多分、それはない。
キャロンがいくら男好きでも、エルフリートのことは嫌いなようだ。
それはエルフリートが獣人だからだろうか。それとも彼女は、単に自分に興味のない男は嫌いなのか。
理由は色々考えられるが、キャロンがエルフリートの前に姿を現すことはないというのが事実だ。
今日だってエルフリートが訪ねて行っても、扉を開ける事さえしなかった。
話の内容はともかく、態度は要件を伝えたら早く去れと言わんばかりだった。
エルフリートが最初に彼女に酷い態度をとったのだからそれに文句を言える立場ではないが、キャロンは顔を見ることさえ嫌だと言うようにエルフリートを避けている。
「……それより、先日のホールの屋根が吹き飛んだ件だが。皆が驚くべき速さで修繕してくれたんだな」
キャロンが何故紙と絵の具を欲しがったのか、答えの出ない疑問は置いておいて、エルフリートは話を変えた。
「そのようです。活躍したのはボルト爺、ポプリ、それから誰かが勝手に雇ったらしいカモシカの新人とのことです」
「カモシカの新人か……そういえば未だに会えていないが、いつ働いているんだ?」
「そうですね、皆が言うにはその新人は神出鬼没らしいんですよね。でも使用人の勤務時間は侍女長が把握していると思いますので、明日にでも聞いてみます」
「頼んだ。かなり前のことになってしまったがクロワッサンの礼も言いたいし、挨拶もできればいいと思っている」
美味しかったクロワッサンのことを思い出して、その働き者の新人に敬意を示したエルフリートは、尻尾をフサリと振って文机の前に腰掛けた。
そして書類の山の一番上にあった束に目を通し始めた。
任務終わりだが、エルフリートには書類仕事も残っている。
主に屋敷や土地関係の書類だが最近は忙しくてなかなか手をつけていなかった。
エルフリートが一人でその書類の山を捌き切るには、まだまだ時間がかかりそうだ。




