睡れる世界の明朝より
睡れる世界の明朝より
〈鉄の遺跡〉には死がうずくまっていると人々は噂した。死んで土に還った人々の魂は鉄に引き寄せられて囚われ、地下に広がる牢獄で彷徨うのだと。しかし老人はそうは考えていないようだった。何しろ彼の家は土地の者が不気味がって誰も近寄ろうとしない遺跡の真隣にあって、何十年と住み続けることで呪いの類いなど存在しないことを長年に亘って証明し続けているのだから。
しかし遺跡を眺めて暮らす老人の目的は別にあった。
早朝。目を覚まして暖炉の中で燻る火種に薪をくべてやった後、湯が沸くまでの間小屋の周りを散歩するのが彼の日課だった。内海の端緒となる切り立った崖の上に佇む地下遺跡の入り口は長年の海風に晒されて赤く錆びつき、薄く薄く剥がれて散っていく。まるで枯れた木の葉が舞い落ちるかのように。その寒々とした景色は一年を通して冬のよう。今日のように曇った日は特に。
それでも時の経過に従って風化しているのは外気に直接触れる入り口のみである。梯子を下りて一度密閉された空間に入れば、そこには数千年あるいは数万年前の遺物が当時のまま息衝いている。そのことを知る者はこの村では老人ただ一人。
太古の暗闇へと続く穴を眺めて思いを馳せるうちに、暖炉にかけた沸缶が彼を現実に引き戻す。家へ戻っていつも通りの朝食の支度をする。沸缶はとっくに沸騰して放置されたことを責めるように唸っていた。
「ヴィルケさん、いるんでしょう」
戸板を叩く軽い音。扉の向こうで若い男の声が彼を呼んだ。牧童のフォリクに違いない。年齢相応の腰痛に苦しむ老人のために毎週生薬を届けてくれる。今日はその曜日だ。だが、こんな朝早くに来たことは今まで一度もない。
「……まだ寝てるのかな」
「どうしたフォリク、こんな朝っぱらに」
訝しむ老人の皺の寄った表情があまりにも迷惑そうに見えて、若者は委縮した。
「いや、別に何も怒ってない。元々こういう顔なだけだ。……薬を届けに来てくれたんだろう?」
「ええ、それもあります」
合財鞄から磨り潰した薬液の瓶を取り出しながら、若者は話した。受け取った瓶からほのかに香辛料の香りが漏れる。
「来週、成人儀礼があるでしょう。僕も参加することになったんです。急な話ですけど」
若者の顔は一言、老人の心からの「おめでとう」の言葉を待ち受けていた。老人もそのことには気づきつつも、しかしその顔には苦々しい表情が浮かんだ。
「君はもっと学を積むべきだ」
「そう言ってくれるのはヴィルケさんだけです」
「成人の印を受ける意味を分かってるのか、誰かきちんと説明してくれたのか」
「鱗羊を誘導するのも結構頭を使うんですよ。僕の毎日の仕事はヴィルケさんが思ってるほど単純じゃない」
「そりゃそうだろうが……」
穏やかだった若者の声にわずかに苛立ちが混じったことで老人は口をつぐんだ。そして静かに告げる。
「成人の印を授かったら、立派に大人の仲間入りだ。学校は卒業して、これと決めた職に勤しむことになる」
「そう。それから結婚も。ちゃんと理解してますよ。両親がそれを望んでる」
「君自身は?」と老人が口を開きかけたところで若者は矢継ぎ早に言った。
「印をヴィルケさんに描いてもらいたいんです。今日はそれをお願いしたくて」
「だが、それは……」
思いがけない言葉に、返事に窮した。前例がない。20年以上前に長老の座を降りた自分が、そんなことをしてしまって果たして良いのか。だが無下に断るのもさすがに気後れした。
「……当日までに練習しておこう。何しろ久しぶりだからな」
「ありがとうございます。それじゃあ、僕はこれで……あ、ちゃんと薬飲んでくださいよ。当日になって腰が痛むとか言って欠席しないでくださいね?」
「分かった、分かった」
来た時よりは明るい顔で出て行こうとする若者を呼び止めて、老人は言った。
「フォリク……おめでとう」
〈鉄の遺跡〉はここの他にも各地に点在しているらしい。いずれも広大で、解き明かせない謎を秘めていて、そしてどれひとつとして探検し尽くされたものがない。一説には〈鉄の遺跡〉は地下に広がる死の世界への入り口であり、全て繋がっていて、我々が住む世界よりも遥かに広いとまで言われている。しかし、一体誰が言い出したのだ。探検され尽くしていないということで言えば、生ける者たちの世界だって同じではないか…
内心でそんな悪態を吐きながら潜った先で老人は、燈會の灯りを頼りにここ数か月間の研究の成果を試していた。
遺跡内部に有機的に張り巡らされた配管や配線の数々は単なる意匠ではなく、それ以上のものなのではないかと彼は考えていた。何らかの機能を持たせ、それを効率的に果たすべく設計されたのではと。きっと純粋に美を追求したのならこうはなっていない。動物の身体が生き残ってより多くの子孫を残すという至上命題の下で創られたからこそ生まれ得た機能美を持ち合わせているのとどこか似ている……そういう予感が彼を研究に駆り立てていた。
配管は気体か液体を流すために設けられている、ということは研究を始めて割合すぐに発見できた。配管内部に残存した結晶を観察すれば、それが自然に発生したものではないと簡単に分かる。しかし配線が電気を伝えるためのものであると気づいたのはほんの3ヶ月前のことだった。遺跡の更に奥にはどうやら心臓とも呼べそうな動力源があって、そこから絶えず電気が送り出されているらしい。動物の身体にも微弱な電気が走っているが、途方もなく巨大な遺跡はそれとは比べ物にならない規模の電力を消費するのだろう。地表に露出した部分から入り込んだ錆気によって毒された配線がその電力量に耐え切れず短絡を引き起こしていることを解明した老人は、まず自分が感電しないよう鱗羊のなめし革で絶縁性の作業着を手製し、すぐさま修理を試みたのだった。
〈鉄の遺跡〉は鉄のみでできている訳ではない。絶縁性の化合物で被覆された配線の中身には銅が使われており、これを繋ぎ合わせるためにわざわざ街まで出向いて買い集めなければならなかった。支払った総額は現金収入のほとんどない彼にとってはおよそ20年分にもなった。金に頓着がない質であるとは言え、何か見返りがなくては損失が惜しい。
作業を続けるうちに、とうとう最後の断線箇所を繋ぎ終えた。ふうっ、と深く息を吐いて腰を伸ばす。遺跡内部の通路は狭苦しく、集中しているとつい背中が丸まってしまう。痛む腰を労わりながら配電盤の蓋を開く。埃を払って刻まれた古代文字の羅列を指で撫でる。文字の解読は遠い昔に諦めてしまった。読もうと努力を重ねるほどに頭に文字が焼き付いて、その解読した限られた語彙のみでしか思考できなくなり始めたからだ。研究から離れるとその症状はじきに消えた。〈鉄の遺跡〉に刻まれた文字は工学的な記述に偏重していて、それはそれを造り上げた悪魔が書き表したからだと言い伝えられているが、もしかするとそれだけは正しいのかも知れない。
配電盤に並んだ6つの閾釦を順に押していく。
1つ目……成功、続いて次の閾釦に指をかける。
2つ目……失敗、入力が弾かれ1つ目と2つ目両方の閾釦が元に戻った。
3つ目……反応なし
4つ目……反応なし
5つ目……反応なし
6つ目……反応なし
暫く考え込んだ後で、老人は4~6を元に戻してもう一度1つ目の閾釦を押した。
続いて3つ目を押す……失敗。1つ目と3つ目両方の閾釦が元に戻った。
そのまま試行を繰り返す。老人が修理を施したのは恐らくこの遺跡のほんの一部に過ぎない。それなら――
1つ目の閾釦を押して、4つ目の閾釦を押した……成功。突然視界が真っ白になった。眩しさに思わず目を閉じる。
徐々に明るさに慣れると何が起きたのか理解できた。電力が復旧して照明が灯ったのだ。今まで死んだように冷たくなっていた配管も呼吸音のようなものを発している。老朽した配管から何らかの燃汽が漏れ出ている――ここにいては危険だ。
すぐさま入口へ向かって全力で走った。爆発したらひとたまりもない。地表へ繋がる梯子へ手をかけるほんの一瞬、振り返るとそれまで何も置かれていなかったはずの広間に見慣れない装置が展開していた。青白い照明の下、濁った液体で満たされた大きな硝子容器を中心にして、無数の械腕が伸びてせわしなく動いている。その神秘的な光景に身の危険も忘れて近寄っていく。もっと近くで見たい……老人の心にあるのは未知への好奇心、ただそれだけだった。
突然、首筋に鋭く冷たい痛みが走る。我に返って手を当てるとわずかに出血していた。見上げれば先端に針を仕込んだ鉄の械腕が老人を狙っているではないか。体勢低く械腕をかわしてその後は、何も考えず梯子をよじ登った。
これ以上は何も起きないとほっと息をついたのは小屋の窓から遺跡を見張ってしばらく経ってからだった。もう日が落ちて暗くなっている。あの悪魔の腕が遺跡の外まで追いかけて来るのではと気が気ではなかったが、そんなことは起きなかった。しかし、もう遺跡に降りることはできないだろう。あの住人は明らかにこちらに敵意を持っていた。もしかしたら話し合えるのではと思ったものの、すぐに彼らには耳も口もありそうにないと気づいた。
没頭できる対象を失って落胆したその日の眠りはこれまでにないほど深かった。
翌日。老人はしばらく遺跡への入り口を思い詰めた表情で眺めた後、意を決して板を取り付けて蓋をした。自分が見たものについてこれ以上何も考えるべきでないことは明白だった。その勢いで長年書き溜めた研究資料も燃やそうとした。が、それだけはどうしてもできなかった。考え込んでいるうちに誤って暖炉の火に沸缶の湯をかけてしまい、濡れて使い物にならなくなった薪を全て取り換える羽目になった。
「どれか、気に入るのがあると良いのだが」
週に一度訪れる若者に、老人は青い墨で描いた図案をいくつか見せた。鱗羊の皮の端切れに描かれたそれをフォリクが大事そうに手に取ってまじまじ眺める。その無邪気な反応に老人は少し照れてそっぽを向いた。
「どれも良いです。最長老が描いたのよりずっと良い」
「畏れ多いことを言うんじゃない」
「これ、全部入れちゃ駄目ですか」
鱗羊皮紙の端切れを身体のあちこちに沿わせて仕上がりを想像している。楽しくてたまらないと言った様子だ。
「成人の印は謙虚な者にしか与えられない。君にその資格があれば良いのだが」
「分かりましたって、ちゃんとひとつに決めますから。一旦持ち帰らせてください」
「儀礼の前日までには決めてくれないと困るぞ」
「まだ4日もあるじゃないですか。前の晩までに必ず伺います」
見送って部屋に戻ると、何をするでもなく寝台に横たわった。遺跡を封印してからずっとこの調子だ。悲しみに打ちひしがれていた20年前の彼を立ち直らせたのが、他でもなく〈鉄の遺跡〉だった。研究に没頭している間だけは気を紛らわしていられたのだ。周囲の目は同情と冷ややかさとで突き刺されるようではあったが、隠遁してしまえば気になるものではない。今はただ、あの遺跡の中であの時一体何が起きていたのか、復旧させた電気は止まってしまったのかそれともまだ稼動しているのか。それだけが気がかりになっていた……
――バリッ、バキバキッ!木が雷で裂かれたかのような凄まじい物音。老人は跳び起きた。いつの間にか眠っていたらしい。先ほどまで晴れていたはずの天気が崩れて小雨が降りそぼっている。音の正体を確かめようと外に出た。遺跡の入り口を塞いでいたはずの板が、破壊されて穴が穿たれていた。
恐る恐る近寄ってみる。板切れが弾け飛んだ様子から見て、内側から力を加えられてのものらしい。信じたくはなかった。
「どうして……今頃になって……」
〈鉄〉にとって電気は血だ。死んで眠り続けていた骸をわざわざ揺り起こしてしまった。その後悔が今更彼を襲った。
「何が起きているとしても、確かめないことには……」
老人は小屋に戻って燈會と杖を手に取ると、意を決して遺跡に入った。
電気の供給が止まっていることはすぐに分かった。青白い照明が消えて配管の呼吸音が止んでいる。械腕もひとつ残らず停止している。杖で突っついても反撃して来ない。だが、通れたはずの通路が頑丈な鎧戸で塞がれていて行き止まりになってしまっている。確認できるのは広間の装置だけだ。諦めてそちらに目を移すと、何らかの液体に満たされていた浴槽のように大きな硝子容器が割れて破られていた。床に取り付けられた排水口に流れてわずかにしか残っていないが、割れた面には赤い血がこびりついている。
「動物か何かが迷い込んで暴れたか……そうでないとしたら……」
根拠に基づいた推測は、いずれも彼の不安を掻き消してはくれなかった。拭えない寒気だけを持ち帰って遺跡を出る。集落の方に燈會を向けてみるが、騒ぎが起きている様子はない。最初に聞いた物音は、寝ぼけていただけで今思えばそこまで大きな音ではなかったかも知れない……そうして現に何者かによって板が破られた事実に目を背けながら、気持ちを静めて小屋へ戻る。そうして扉を開けると――
扉を開けると、暖炉の前に少女が立っていた。
蛙のように不自然に湿って生気のない青白い皮膚、萎れて色の抜けた花びらのように褪色した腰まで伸びた長い毛髪、くりくりと大きいばかりでどこか焦点が合っていない意思を感じない眼球……そんなような特徴の女の子が、今しがた川から上がったばかりであるかのようにずぶ濡れの姿で暖炉の前で温まっていた。彼女が一切の衣服をまとっていないことよりも先に老人は、その顔を見て驚き青褪め、言葉を失ってしまった。
「ミュゼット……ミュゼット、なのか……?」
やっとのことで口にしたその名は、20年前に亡くした娘のものだった。しかし目の前の娘は彼の口の動きを不思議そうに見つめるばかりで応答する様子がない。
平静を失った老人が繰り返し「ミュゼット」と呼びかけていると、少女の目に光が灯った。
「うえっお、うえっお」
それが、少女が発した初めての言葉だった。
数時間の観察で、少しずつ状況が整理できてきた。
まず、少女には一切の記憶がなかった。自分の娘ではないだろうことも実の父親だった彼には分かった。永久歯が生え揃っているのに発話が困難なのは身体的な問題ではなく言葉を学ばなかったせいだろう。だがその方が恐ろしい。それでも意味こそ理解できていないものの、こちらが発した言葉には一定の興味を示している。
それから、何やら卵らしきものを大事そうに抱えている。這竜の巨大な卵よりも更に一回り大きい。天然の、本物の卵なのか機械仕掛けなのかいまいち判然としない。透明な装置に包まれていて、少女が両手で触れている部分が橙色に発光している。脆い卵を保護する役割なのだろう。もしかしたら少女の体温で温められているのかも知れない。透明な部分に時たま古代文字が浮かび上がるがすぐに消えてしまって記録も取れない。とにかくその孵器が、服さえ着ていなかった彼女の唯一の持ち物だった。
「まるで赤子だな……そう言えばさっさと風呂に入れて洗い流してしまったが、全身にこびりついていた乾いた粘膜のようなもの……。今思えば羊膜だったのかも知れない」
12,3歳に見える少女が生まれたての乳児のような状態で現れたことについて合理的に解釈しようとすると、必然的に最も考えにくい結論に辿り着く。即ち彼女は老人が起動した遺跡内部の装置で育てられ、這い出てきた……
「だが〈鉄〉は死だ……。生き物を、育てることなど……」
自分の娘の服を着せた少女を眺めながら、老人は自分の頭に湧き上がった考えを振り払った。記憶の中のミュゼットは黒い髪をしていた。いつも幸せそうで、踊るのが好きで、何より賢かった。今目の前にいるのとは別人……。そう自分に言い聞かせていなければどうにかなりそうだった。
少女の容貌は、まるで遅れて産まれてきた双子のようにミュゼットとそっくりなのだった。
翌朝。老人が目を覚ますと、寝台を譲って寝かしつけたはずの少女が長椅子に横になった彼に抱きついて熟睡していた。器用に左手のみで孵器を抱いて。きっと彼女がそうしたのだろう、老人の右手も孵器に添えられて橙色に発光している。少女の緩い口から涎が垂れて老人の紗衣がでろでろに湿っていた。
汚れた服を着替えて少女に朝食を与えた。煮菜汁を手づかみで食べるのをやめさせて楕匙の持ち方を教え、実演して真似させた。いかにも不服そうではあったものの学習能力は高い。大げさに褒めて、これをすると喜ばれるのだと刷り込ませる。
「まったく、この歳になって子育てをすることになるとはな……」
食事の次は言葉の勉強に取りかかった。燐志庚語を扱う上で基本となる12の母音の違いを根気強く教え、並行してそれらを書き表す文字も関連づけて覚えさせる。
かつて村で子供向けに開かれた粗末な教室で教師を務めた経験のあるヴィルケは、ここで生徒としての彼女の資質に驚かされた。
少女は文字や数字に対して異様に強い関心を示した。舌の筋肉が発達していないためにそのたどたどしい発音はほとんど聞き取れないものの、学んだことを自分なりに表現することを楽しんでいるのが手に取るように分かった。中身が空っぽのまま成長してしまった彼女の脳は知識に飢えている。それが分かって老人の指導にも熱が入る。
時間を忘れて勉強に付き合っているうちに、心地良い疲れが老人を包んだ。いつの間にか日が暮れようとしていた。ひと息ついて窓からぼんやり夕焼けを眺めていると、少女が何やら孵器を指差して訴えている。
「おえ、おえう、うー、ぶー」
どうやら孵器に浮かぶ古代文字が燐祖文字の一覧表の中に見当たらないことに怒っているらしい。
「悪いが、私にも分からんよ。読める人間は他に誰もいないだろうな」
「おあお?」
「君が解明したら良い。そのための時間は君にはたっぷり残されているだろうから」
老人がそう言うと、少女は孵器を見つめて考え込んでしまった。意味が通じたのだろうか。芽吹いて間もない知性は、自分が理由も知らないまま抱えていた品物を研究対象として認識したようだった。
理解できる語彙が増えてきた数日後、老人は少女に初めての留守番を言いつけた。地下の貯蔵庫に貯えていた食糧が残りわずかとなったからだった。小屋の脇に畑があるものの、数ヶ月の間研究に没頭するうちに全て枯らしてしまい、収穫の時期に差しかかって今年の出来高が来年の種芋を残すのでせいぜいと判明した。
「いいか、私がいなくてもいつも通りの勉強をするんだ。誰かが訪ねて来ても絶対に扉を開けないこと」
「だえか?」
「私以外の誰か、だ。君でも私でもない、他の誰か」
「うー……?わかっあ」
「すぐに戻るから」
街の市場へ向かう道すがら、一歩また一歩と小屋から、遺跡から離れていくうちに老人はようやく今後のことを考える気になった。拾ってしまった以上先々のことまで心配してやる義務がある。だが村の者たちに見つかる訳にはいかない。〈鉄の遺跡〉に日がな一日入り浸っているやもめの老人が昔に亡くしたはずの娘と暮らしているとあっては混乱を引き起こさない方がおかしい。
「孤児院に入れるか……だがあそこは確か長くいられても16歳までだっただろう。あの子はどう見積もっても12歳だ。それ以上幼くは見えない。今の調子で勉強をさせて孤児院に入れてやったとして、一体どれだけいられる?そこでもし里親が決まらなかったら……」
やはり自分が、と考えかけて頭を振る。
「いや、駄目だ……まだミュゼットの顔を覚えている者が村に一人でもいる限りは……」
そんなようなことを考えていたのもあって、出先で借りた荷車を牽く足取りは重かった。慎ましやかな貯蔵庫を満杯にできる芋と根菜類、それから野菜とわずかに鱗羊の肉を数斤。それだけの荷物を牽いて緩やかな坂道を上がっていくのは関節の軋む老体には厳しかった。
やっとの思いで辿り着いた。荷車はとりあえず小屋の前に置いて、まずは休憩したい。扉を開けようと衣隠に入れた鍵を探っていると、締めたはずの錠前が開いていることに気づいた。思わず息を呑む。
「あ、お邪魔してまーす」
小屋の中ではフォリクが少女の勉強を見てやっていた。さもそうするのが当たり前であるかのように。その微笑ましい光景とは裏腹に老人は青褪めた。
「大丈夫ですか……?えっ、あの荷車を押して来られたんですか?頼んでくれれば良かったのに」
「フォリク……お前はどうしてここに」
「成人の印を決めたので、それをお届けに。呼びかけても返事がなかったので、出かけてるのかと思って戻って来るまで待とうと思ったんです。しばらくしたらミュゼットちゃんが中に入れてくれて」
「ああ……」
「それより、この子はどうされたんですか。何も知らず、何も憶えてないみたいですけど」
「フォリク、君には真実を話そう。まず、その子はミュゼットではない」
老人は包み隠さず全てを話した。遺跡での研究、この10日間のうちに起きた異変。20年前に家族を亡くしていることも、きちんと話すのは初めてだったが彼の見込んだ若者は期待通りの反応を示してくれた。
「今の話を聞く限りでは……言い伝えの通り〈鉄の遺跡〉が死の世界と繋がっていて、亡くなってしまった女の子を甦らせたと考えたくなるんですが……そうではないのですね?」
「断じて違う。伝承は真紛に過ぎない」
元祭司候補にして元長老のヴィルケはきっぱりと答えた。
「そ、そうですか……だとしたらこの子は一体どこから来たんでしょう。何か目的があったんでしょうか」
「今のところ手がかりはないが、もっと流暢に話せるようになれば、あるいは自ずから明かしてくれるかも知れない」
二人が話しているところへ、何者かが扉を叩いた。ぎくりとして身をこわばらせる。老人は息を止めて誰が来たのかを推測したものの、思い当たる相手はいない。
敷いていた絨毯をどかして、物音を立てないよう慎重に地下の貯蔵庫の蓋を開ける。空になっていて運が良かった。指図して牧童と少女に中へ入るよう促す。
「絶対に声を出すんじゃないぞ、私が開けるまで出てくるな。分かったな?」
フォリクが怯えた表情で頷く。
蓋を閉めて敷いていた絨毯を元に戻す。そうして扉に近づく。
「誰だ」
「霰蝙焉の外交特使だ。そこの遺跡のことでお尋ねしたいことがあってね。少し宜しいかな」
老人は耳を疑った。霰蝙焉帝国だと?内海に開かれた港には世界中から船が来るが、しかし燐志庚にとって霰蝙焉は単に数ある貿易相手のうちの一国に過ぎない。ますます不可解だ。
「少し話をしたいだけだ。応じてくれるとありがたいのだがね」
流暢な燐志庚語を操る男の焦れったそうな声はそう長くは待ってくれないことを意味していた。
ゆっくり開いた扉の隙間から、神経質なまでに身嗜みを整えた紳士の姿が見えた。髭を蓄える習慣のない沿海の民族には、彼の高い社会階級を示す黒い口髭がその特徴的な鷲鼻と相まって滑稽に見えた。
「驚かせてすまない。丁度近くを通りかかったものでね。出て来てくれるか」
取り繕われた笑顔を差し向ける紳士に従って、扉を開け一歩踏み出した老人はすぐに後悔した。
外交官の後ろには帝国の憲兵が控えていた。いずれも鉄の鎧に身を固めており、顔も分からない。
老人が出た小屋の中へ2人の憲兵が立ち入り、あちこち嗅ぎ回り始めた。今はただ貯蔵庫に隠れた2人が見つからないよう祈ることしかできない。
「……内政干渉だ」
外交官を睨みつけながら老人が呟く。しかし彼はただ愉快そうに笑っただけだった。
「学のない老人とばかり思ったが、そんな言葉を知っているとは!いや失礼、だがこれは仕事じゃなく個人的な興味なんだ。この国にも〈ネクサス〉があると聞いて立ち寄ったに過ぎない」
どうやら〈鉄の遺跡〉についての話らしい。
「どうだね、この辺りの人々はあれについてどのくらい知ってる」
老人は霰蝙焉人の顔をまじまじと眺めた。この男は信用するに値しない。考えるまでもないことだ。
「我々はあれを〈鉄の遺跡〉と呼んでいる。死の世界への入り口だ。無闇に近づかないよう板で封印してあるし、実際それ以上のことは何も知らない」
「なるほど。ではあなたが遺跡の傍で暮らしている理由は?」
「私は墓守だ。土に還った死者の魂はほとんどが先祖が待つ海の彼方の国へ行けるが、そうではない者もいる……不幸なことだが。鉄に魅了されて囚われてしまうのだ。そういう者たちにとってはここが墓になる」
「そうか。では中に入ったことはないんだな」
「誰がそんなことをする」
今度は霰蝙焉人が老人の顔をまじまじ見つめた。塗り固めた嘘に一片の綻びでもあれば命取りになりかねない。
「良いだろう。よく分かった。突然押しかけて悪かった。我々はこれでお暇するよ、貴重な話をありがとう」
小屋を調べていた憲兵二人も男の後をついて行く。去り際、憲兵の一人が小屋に火を放った。火は床に敷かれた絨毯を伝って瞬く間に小屋を包み込んだ。
「一体何をしてる!!」
「ああ、部下には何か見つけたら私に合図するようにと伝えておいたんだ。驚かせてしまったかね。あなたが何を隠していたにせよ、私は咎め立てしない。あなた方の神が説く慈悲の心だよ」
怒りを露わにする老人を尻目に、霰蝙焉人は素知らぬ顔で答えた。彼らが待たせておいた黒い巻角馬も突然の火の手に興奮している。その優美な動物を宥めてそそくさと乗り込み、3人は港の方へとひた走った。
「何か見つけたのだな」
「鱗羊皮紙に書かれた巻物が山のように。とても全ては見きれませんでしたが、一番上にあって最近書かれたと思われるものの中にネクサスの電子神経回路に関する初歩的な研究が数点」
「何だと?」
「あの老いぼれの直筆と思われます。しかし内容そのものはどれも大したものでは……」
「研究の巧拙を案じているのではない。霰蝙焉の他にネクサスの重要性に気づいた人間がいること自体が脅威なのだ。燃やして正解だった。あの老人……自分では墓守だと言っていたが嘘だな。およそ10日前ネクサスを起動させたのはやはりあの男だ」
「今からでも引き返して捕らえますか」
「いや、これ以上は燐志庚との外交問題になる……老人が言っていた通り。家を燃やしたのは我々だが、そもそも〈ネクサス〉に立ち入るのは燐志庚では法律違反だ。自分がしていたことの意味を理解しているのなら訴えに出ることもあるまい……。我が国の領事館を通して公式の調査団を派遣する。着いたらすぐに取りかかるぞ」
霰蝙焉の非道ぶりを甘く見ていた。巻角馬に乗り込み去っていく一行に悪態を吐くと、老人はすぐさま激しく燃える小屋に飛び込んだ。黒焦げになった絨毯を蹴ってどかし、貯蔵庫を開け放つ。
「外に出るんだ!早く!」
訳も分からず暴れる少女を抱き抱えたフォリクが煙を吸って朦朧としかけるヴィルケに肩を貸す。
必死で出口を目指すフォリクの肩が突然どっと重くなる。燃え落ちた梁がヴィルケの脳天を直撃したのだ。
「しっかりしてください!」
抱えていた少女を出口の方へ投げて倒れ込んだヴィルケを背負い込む。少女は既にいない。自力で脱出したようだった。必死で歩き、2人も何とか脱出を果たす。
草地に倒れ込んで止めていた息を思いきり吸い込む。肺を膨らます度に咳が出るのも徐々に治まっていく。
「ヴィルケさん……血が……」
「私なら、大丈夫だ……ミュゼットは?」
「あの子ならここに」
フォリクが少女の手を老人の胸に当てる。少女は無邪気に笑っている。ヴィルケが死にかけていることを理解しているとは思えない。
「良かった……守れた、んだな……」
動転しているのかわずかに齟齬が見られるが、今はそんなことはどうでも良かった。
「医者を呼んで来ますから」
「いや、いい……。今更村の世話になるなど……」
「みんなあなたを尊敬してるんですよ」
フォリクの目に涙が浮かぶ。老人の両手を握って神の加護を祈った。
「それより……今から言うことを、聞いてくれ……」
牧童は頷いた。
「さっき来たのは……あれは霰蝙焉帝国の手の者だ」
「どうして……そんな奴らがここへ?」
「私が遺跡の装置を起動したことを察知したのだろう、何らかの方法で……。来るまでに10日もかかったのなら本国から送り込まれた密使なのかも知れない……」
牧童は老人の最後の言葉に耳を傾けた。
「奴らの目的が何であるにせよ、ミュゼットに危険が及ぶ……、今すぐ村を出ろ……」
「僕は村のことしか知りません。ここで匿う方が安全なのではないですか?」
「街へ出れば大勢の人がいる……人を見極めて、その子を託せる人を探せ……私の娘を……」
フォリクの言葉は既に彼には届いていないようだった。
「安全に、帝国から遠く引き離してくれる人を……それでお前は、村へ戻って来れば良い……家督を……継ぐのだろう?結婚したい相手がいるのだろう?お前が犠牲になることはない……。私もここで待っている……ここで……ここで……」
まだ息があるうちから、老人の言葉は徐々に意味を成さないものになっていった。そうしてじきに、老人は穏やかな眠りに就いた。
牧童は慕っていた隣人のためにまだ泣いていたかった。しかし、火事が起きて村が騒がしくなっている。じきに誰か来るだろう。
「あなたが、より多くと結ばれますように」
祈りを捧げて、決心して立ち上がる
「行こう、ミュゼット。今から歩けば日暮れまでには着く。さあ、ヴィルケさんにさよならを」
「あよなあ?あよなら」
少女は大事に抱えた孵器に老人の手を触れさせても反応がないことを不思議に思っているようだった。
少女を食糧の載った荷車に載せてフォリクが押していく。
「これを売って君の服を買おう。煤けてたんじゃ怪しまれるから。宿に泊まるのにもお金は必要だし、君の保護者になる人にもいくらかお礼をあげなきゃならない」
こうして、少女の旅は始まった。誰も知らない結末へ向けて。これから先、何度となく出会いと別れを繰り返し、人の心に触れていくのだろう――
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました!ここから先は余韻をぶち壊すあとがき↓↓
この作品は『HORIZON Zero Dawn』をプレイした後に『天使のたまご』を観て着想を得ました。両方知ってる方からすれば「やっぱりそうかよ!丸パクリじゃねえか!!時間返せ!!!」って感じだと思います……ただ、以前からポストアポカリプスものは一度書いてみたいと思っていて、そうして書き始める度に設定の詰めの甘さに落胆するんですよね。頭の中がお花畑なのでシリアスな世界観を作るのに向いてないんだと思います。でも、そんなことを繰り返しながら少しずつ貯めた世界観のイメージとかを再利用していって今回まず短編として書き上げることができました。展開を急ぎ過ぎ?私も思った……。燃やしてみたら派手になるかなと思って……。本格的に長編に仕立て上げる時はまた考えるね……
何も持ってない主人公が人との出会いと別れを繰り返すことで成長していく……的な。割とこういう作品って漫画に多いですよね。私が知ってるのだと『不滅のあなたへ』ですか。すみません、アニメ途中までしか見てません。しかし第一話は最高傑作でしたねー!!わたし、(これは善い作品……)と思ってしまうともうそれが分かっただけで満足してしまって途中で観るのやめがちなんです。『僕のヒーローアカデミア』も滅茶苦茶感動して!アニメ1クール目観ただけで満足してやめちゃった…… 他にもそんな作品いっぱいある。何と言うか、わたしにとってのコンテンツって(これは果たして面白いのか……?)と思ったアヤシイものが面白いかどうかを確かめに行くことが目的になっていて。面白いか面白くないかを自分で判定することに意味を見出してるんですよね。
それはさておき。
現在、創作方面では主に『木造ロボ フドウ』続編のために資料を読み込んでおります。おおよその構想は煮詰まってきたものの、まだまだ時間がかかりそう……。
史実を基にして話を考えるということをやってると、何となく何も気にせずに自由にできるハイ ファンタジーに惹かれる気持ちがあって。今回ので少し羽を伸ばせたかな、と。しかし、何はともあれ『フドウ』2作目を書きたい。一応三部作にしようと思ってるんですが、そのまま3作目を作る気にはなれなさそうなので、『フドウ』2作目の次に書くものを模索してます。もしかしたらこれを長編にするかも。今はまだ何とも言えないんですけど。