幸せな記憶の始まりと終わり
×月×日
無邪気な子供だった。
幼き頃はまだ男の子と女の子で、そこには愛だの恋だの存在せず、ただのリリィとロナウドでしかない。そんな同い年の気安さからいつも二人で行動していた。
我が子爵家の庭では二つ下の小さな妹ロージーが私達の後を追い掛けるのはいつもの事で、たいてい足が縺れて芝生の上で転けるのだ。
そして置いて行かれた悲しみと転けた悔しさで途端に大泣きして、その場で動かなくなる。
私とロナウドは手を繋いでロージーのずっと先を走っていたから、後ろの方で泣き声が聞こえると立ち止まって振り返る。
「ロージー!」
「リリィ、お池の向こう側に行こうよ」
「でも、ロナウド。ロージーが泣いているわ」
「ロージーはリリィの気を引きたいのさ」
「そんな事ないわ、あんなに泣いているもの」
ロージーは甘えたがりの泣き虫で、構ってもらえないとその場でそうして動かなくなる。
そうすれば、私が心配して近寄って来ると知っているからだ。
それでも妹が可愛い私はロナウドの手を振り切って駆け寄る。今度は私の後をロナウドが追い掛ける。
ロージーは目から溢れる涙を両手の甲で懸命に拭いながらも、止まらないそれが頬をどんどん伝う。
「ロージー、もう泣かないで。私はここにいるわ」
「リリィねぇさま……」
「大好きよ、私の可愛い妹」
「わたしもリリィねぇさまがだいすき」
ロージーの涙を拭うハンカチを持っておらず、私は侍女の方を振り返る。
すると彼女はすぐさま駆け寄って、ハンカチを差し出してくれた。何も言わなくてもわかってくれる。
だが、その時にはもうロージーの涙は止まり、ハンカチは頬の涙跡を拭くのみ。
そのハンカチにはお母様が縫ってくれた刺繍が施されてある。
私と妹の物それぞれに名前のイニシャル。とても大好きなお母様の手縫いだ。
「リリィねぇさま、どこにも行かないでね」
「ロージーの側にいるわ」
それは他愛もない小さな妹のお願い。
大好きな妹の願いは何でも叶えてあげたい、そう思った。
「リリィは僕のお姫様なのに……」
「リリィねぇさまはわたしのなの!」
ロナウドが呆れ、ロージーが膨れて言い返す。
そんな、ままごとのような三人の関係はその後も続き、二年の歳月が経過した。
庭を彩る若葉の色が優しい八歳の年、私とロナウドは婚約者となった。
☆ ☆ ☆
「リリィ、気持ちの良い天気だね」
「昨日まであんなに降っていた雨はどこに行ったのかしら」
「リリィが雨ばかりでつまらない、退屈だなんて言うから逃げてしまったのかもね」
「あら、私は雨の匂いも好きよ」
「昨日は頬っぺたが膨らんでいたくせに」
「意地悪ね、ロナウド」
男爵家は実家の子爵家ほどには広くはないが、庭の薔薇は優秀な庭師のおかげで綺麗に咲き誇っている。
テラスに据えられたテーブルと椅子はその薔薇を眺める為に置かれたもので、女中が用意してくれたお茶とクッキーを味わいながらロナウドと二人、薔薇の花に残る雨粒がキラキラ輝く様を楽しんでいる。
ロナウドはもうじき学校に入学する為にこの男爵家を離れる。
私もロナウドと一緒にいたいが、男子校だ。
せいぜい婚約者として見送りながら、家庭教師に教わるのが私の務めといえるだろう。
ロナウドと婚約関係を結んで、私は男爵家に移り住んだ。もう五年になる。
妹のロージーは私の婚約を喜んでくれたが、子爵家を離れる時は泣いて縋って大変だった。
『いやだ! リリィねぇさまはずっと私といるって言ったもの!』
『ごめんね、ロージー』
小さな子供の頃なら言えた言葉がもう言えなくなる事に、妹と離れる寂しさと、ほんの少しの自由を感じた。
今後あと二、三年もすればロナウドは学校を卒業して戻って来るはず。
その時に私達は、晴れて婚約者から夫婦へと形を変えるのだ。
それまで寂しくはあっても、私も立派に花嫁修業をして男爵夫人となる努力をするつもりだ。
「もうじき、ロナウドとは離れ離れになるのね」
「三年なんてあっという間だよ」
この男爵家の庭から門を出て裏手へ回ると、その少し先に広がる深い森。
そこから時々、馬の嘶きが聞こえて来る。
「リリィ、馬に乗って森を散歩しないか?」
私もロナウドも馬に乗るのが好きだ。
もちろん彼の助けがなければ乗る事はできなくて、私を乗せて手綱を握るロナウドの息遣いがドキドキして心臓の音が早くなる。
きっとこれが初恋というものなのだろう。
「リリィ、落とされないように俺がついているからね」
「ロナウドは手綱さばきが上手いもの。安心していられるわ」
早足ではない、リズミカルな速度で森へと近づいて行く。
子供の頃ならきっと、ロージーが追い掛けても追いつかず、泣いている場面。
そんな遠い昔を思い出していると、ロナウドが速度を上げて早足で駆け出した。
「リリィ、見てごらん。あそこに鹿がいるよ」
「え、どこ?」
言われてよく見ると、確かに森の入り口辺りにいるのは鹿だ。どうやら餌を探してそこまで出て来たようだ。
この森には動物が色々いて、鹿以外も見た事がある。
「あ、ロナウド。鹿が森の中に逃げて行くわ!」
「よし!」
だが、私もロナウドも見落としていた。
昨日までの雨で地に生えた草が滑りやすくなっている事を。
一度崩れたバランスは簡単には取り戻せない事を。
一瞬、白くて小さな何かが馬の目の前を横切った気がした。
馬は驚き、嘶き声と共に前足を高く上げて混乱しているようだ。
その何かが兎だと気づいた時には私の視界はすでにロナウドを見上げている。
「リリィ!」
ロナウドが手を伸ばすのが見えた気がした。
だが、遅かった。私の身体は地に叩きつけられたのだ。
それからの事は何も覚えていない。
まさかその後、深く深く眠り続けようとは思いもしないで。
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