episode.9
気づいたらベッドの上にいた。アオイは隣に寝ていなかった。
おそるおそる周りを見渡した。黄色く濁った歯も、額に張りついた白髪も、そこにはなかった。ふっと息を吐いた。
あ、と声を出してみた。よく聞こえた。だんだんと目が冴えてきて、体を起こしてみた。
アオイがどこかですすり泣いているような気がした。リビングのテレビから小さな音がした。歩き出そうとして、枕元に置いたガラスのコップを落として割ってしまった。床が水浸しなのに気づいて私は焦っていた。
「佐倉さん、調子は?」
家永さんの声がした。ひんやりとして、でも暖かい、家永さんの声。
何か返事をしたようだったけれど、夢なのか起きているのかよくわからなかった。
家永さんは突然大きな声を出して泣いた。どうしていいかよくわからなかった。
焦っていると家永さんは、ゆっくり休んでねとだけ言って電話を切ってしまった。ぷっつりと家永さんが私から離れていくような感覚になった。頭を殴られたような感覚がぐんぐん近づいてきた。
リビングのテレビからは桂あつ子の歌声がした。私は脚の間がぐんぐん冷たくなっていくのを感じていた。
割ってしまったコップを元に戻そうと思っていたら、指の間をすーっとぬるく伝う感覚があった。
時間は私が考えているよりずっとずっと速く進んでしまう。どうしてみんなついて行けるのだろう。たった二週間眠ってしまっただけで、どうしてもついていけそうになかった。私は泣いていた。
すすり泣いていたはずのアオイの声はいつの間にかしなくなっていた。
アオイはテレビの前に座っていた。桂あつ子は水玉のビキニを着て、アオイとじゃれていた。白い生地に赤やピンクや黄色や水色、緑の水玉がきれいに映えていた。
うらやましい。はっきりとした声が胃の中から出た。アオイはぎょっとしたように振り返った。他人みたいな顔をしていた。電子レンジに歪んで映った女の人の顔はひどく浮腫んでいて、目は腫れてしまっていた。かわいそうに。
いつだったか忘れた昼間に、一人でホームセンターに行った。車の傷けしスプレーは苺の形をしたボトルだった。鯖缶を開けるために買った缶切りを、いつの間にか私は握りしめていた。
アオイは驚いたような顔をして私に向かって歩いてきた。桂あつ子は笑顔のまま、小さな声で口ずさんでいた。
夏の暑い日に、恋人とかき氷を食べるという歌詞だった。気楽にへらへらと笑いながら鈴のような声で桂あつ子はアオイを呼んだ。ブルーハワイに染まった青い舌をペロッと出して。
アオイは嬉しそうな顔をして、桂あつ子の方を見た。ぷっつりと何かが切れたような気がした。傷けしスプレーがあった場所には苺のヘアスプレーがあった。アオイが何か言っているような気がしたけれど、上手く聞こえなかった。
桂あつ子は苺のヘアスプレーを壁一面に吹きかけていった。あの夏に市民プールの更衣室で嗅いだ、甘ったるい匂いがリビングに充満していった。
脚の間にすーっとぬるく伝って、次に目を開けたとき、子犬が二匹、遊んでいるように床に転がってうごかなくなっていた。ガラスの破片が山のようにキラキラと床に散らばっていた。
吉野先生のところに行ったはずだったのに、目が覚めるとまた白い壁と天井に囲まれていた。私は絶望していた。ピンクのカーテンにぐるりと囲まれて、その向こうになんだか忙しそうに人が歩いているのがよく見えた。顔がちくちくと痛んでいた。
そのうちに人影がぐっと近づいてきた。カーテンの向こうで、呼吸がとても荒かったけれど、カーテン越しに話しかけてくることも、中に入ってくることもなかった。
中学二年生の時、パパとママは離婚してしまった。私はひとりぼっちになったママを悲しませてはいけなかった。パパは今まで見たことがないような冷たい表情をしていた。
まるであの夜のアオイみたいだった。
私をかわいいと言って、私といつまでも一緒にいると言って、抱きしめてくれた時のパパの顔はもうなかった。
うそつき。ママはそう言ってガラスのコップを壁に叩きつけた。パパは無言のまま割れたガラスの破片を拾っていった。
私も手伝おうとしたけれど無表情のまま振り払われた。指の間をすーっとぬるく伝う感覚があった。私を疎ましく思っている二人がとても怖かった。
今度は、学校を休まなかった。日常生活のように、涼しい顔をしながら過ごしていなくてはならないと思った。
これ以上疎ましがられてしまっては、もうとてもじゃないけど耐えられないような、そんな気がしていた。
いつまでもいつまでも、ずっとずっと幸せが続くような、大きな笑顔をしていたくせに。
アオイもパパも冷たい、無表情になってしまった。まるで他人みたいだった。突き放したような怖い言い方をした。
私は途方に暮れていた。ドアを閉めて鍵をかけられてしまったら、もうひとりぼっちになってしまう。泣いても叫んでも、上手く声が出なくて、息なのか呻き声なのかわからなかった。
鼻先を、ツンと苺の匂いが刺していった。
「佐倉さん、バイトの子、今日からだから面倒見てあげて」
空みたいに真っ青なシャツを着た彼はまっすぐに私を見つめていた。白目は水色に透き通っていて、何も穢れたものを映したことがないような表情をしていた。
尊い、尊い。一瞬頭を殴られたような衝撃だった。
尊い。頭の中はそれでいっぱいだった。八月の暑い日に十八歳のアオイは私のところにやってきた。
高校を出たばかりだという彼はひどく心細そうに見えた。ひとりぼっちで大きな都会の街に飛び込んできた。
ここは、こんなにも透き通るような彼が、そっと飛び込んできてはいけないところだと思った。私が守らないといけない、守らないといけない。
「佐倉さんはきっとショートの方が似合うと思うんですけど、どうして髪切ってくれないんですか?似合うのに。ずっと伸ばしてるんですか?どうして?」
アオイは時に失礼で、時に芳しかった。それもこれも彼にとってはすべてが疑問形なのだ。尊いから。女性と接することについて、きっとまだ彼は何も知らない。
柔らかい茶色い髪をして、柔らかい茶色いまなざしをして、彼は何も知らないんだ。そんな考えが頭をよぎった時、ふっとビニールプールに顔まで浸かって、苦しくなったあの時の記憶がぶわっと澱のように舞い上がっていった。
私はアオイになりたい。そんな風に思った。
「大丈夫ですか?聞こえますか?」
浅黒い腕が私の抱き起した。少しだけ夏の汗の匂いがした。
アオイはこんな匂いをさせたことがない。アオイはいつだって苺の甘い匂いが好きだった。私の香水を勝手に盗んで使っていた。ぺろっと舌を出して。すべすべとした白い肌には、甘い香りがよく似合った。
私と同じ匂いを身にまとって、彼はいつも私の範囲内にいたのだった。
がっしりとした浅黒い腕はそのまま私を抱えて歩いて行った。脚が宙ぶらりんになって反射的に身を固くした。
黄色く濁った歯がまぶたの裏に張りついて仕方がなかった。雨が滴っていて、とても寒かった。角をふっと曲がった時に、揺れる脚がとても大きくぶれた。私は思わず声をあげていた。耳には呻き声にしか聞こえない。
いつだってそうだった。小さくしか声をあげることができない。九歳の頃から。
気づいたら私はぽろぽろと泣いていた。しまいにはおいおいと泣いていた。
浅黒い腕は立ち止った。まめのいっぱいある手で私の手を握り締めた。
何か言おうとするのに。何か見ようとするのに。どこに口があって、目があるのかわからなくて、私はとても焦っていた。遠くの方からサイレンの音がして、ふっと止まった。
アオイは二十歳の誕生日に、私のそばにずっといたいと言った。永遠とか、一生とか、何度も何度も言っていた。
長い時間が私は苦手だった。
けれど私はそれを受け入れた。アオイはすべすべの肌と茶色い瞳を惜しげもなくくしゃくしゃにして笑った。大きく手を広げて私を包み込もうとしたけれど、なぜだか私はそれを拒んでしまった。茶色い瞳は少しだけ濡れていた。
アオイとの時間が始まってしまった。
一度始まってしまうと、時間は全て終わりに向かってしまう。始まらなければ終わることはないのに。
長い時間が私は苦手だった。
ずっとなんて、パパが言うみたいな言葉は聞くだけでおなかが痛くなる。ああ始まってしまった、始まってしまった。少しでもふりだしに戻りたくて、私はその大きく広げた手を拒んでいた。
毎日夜の九時になると、アオイはきちんきちんと電話をくれた。学校であったこと、私が卒業して辞めた後の、本屋でのアルバイトのこと、就職してからは仕事のこと。心細いことも自慢げなことも全部全部話してくれた。
真っ青なシャツにグリーンのエプロンをつけて本を抱える彼を私はたびたび想像した。
白いシャツに紺のネクタイをきゅっと締めて忙しく頭を下げる彼を私はたびたび想像した。
アオイは少しずつ輪郭がはっきりしてきて、見上げた時の顎のラインがすっと見えるようになっていたけれど、私は見て見ぬふりをしていた。私のアオイは最初に会った時の尊いアオイのままだった。
アオイの尊い記憶を思い出すとき、いつだって季節は夏だった。
夏生まれのアオイ、初めてで会った時もセミがうるさいほどに鳴いていた。
風景が、暑さでゆらゆらと揺れる中に、透き通るような彼が静かに微笑んでいる映像があんまり尊くて、何度も何度も頭の中で再生していた。
目が覚めたような気がしたので、恐る恐る目を開けてみた。真っ白い天井が目に映る。
鼻先にツンと刺さるのは苺の匂いではなく、消毒液の冷たい匂いだった。ピンク色のカーテンの向こうに忙しく動いている脚が見える。
反射的にまた身を固くした。額に張りつくような白髪が、押し寄せるように思い出されていって、脚の間にすーっとぬるく伝う感覚がした。涙がとめどなく溢れていって、どこかで誰かが悲鳴を上げているのが聞こえた。かけていた真っ白なシーツを頭からかぶった。
アオイはどうして迎えに来てくれないんだろう。十八歳のアオイ、二十歳のアオイ、二十二歳のアオイ、二十四歳のアオイが全て私の頭の中から抜け落ちていくみたいだった。
大切に大切に取っていたのに、手を握り締めて大切に取っていたのに。いつ手のひらをあけてしまったんだろう。
ああ、なんにも残っていない。なんにも残っていないじゃない。
悲鳴はますます大きくなっていった。耳をつんざくみたいなセミの声が頭の中に張りついていった。アオイと出会う前から自慢だった、黒い長い髪はもうどこにもなかった。
ふと右手に何かが当たって、見ると苺の形のヘアスプレーだった。パパがドアを閉めて鍵をかけてしまうのを、私は必死に止めようとしてドアノブを掴んだ。パパは見たことがないような冷たい顔をしていた。
あの日、テレビの前にいたアオイと同じ表情だった。私だって、ひとりぼっちでそっといるにはこの街は少し恐ろしすぎた。
二人ともずっと、なんて言うのはずるいと思った。苺の形のヘアスプレーからはアオイの匂いがとめどなく溢れていて、充満していった。
私は焦っていた。とっても焦って、焦っていった。