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episode.8

「佐倉帆波さん、ようやく目が覚めた?」



ひどい頭痛で目が覚めた。汗ばんだ額に髪が張りついてた。

ぐっと覗き込んだ顔はひどく笑顔だったが、黄色く濁った歯からどうしても目を話すことはできなかった。



中学二年生の時、無人改札の向こう側で手を振っているツトムさんに会った。

汗が噴き出して止まらなかった。


気づいたらセーラー服はどこにもなくって、私は水玉のビキニを着ていた。九歳の時に着ていたものにそっくりのデザインだった。


タグにはキッズと書いてあった。私は背が低かったし、胸もCカップで大きくなかったから、キッズの水着でも全然問題はなかった。

ツトムさんが焚くシャッターの光に焦げてしまいそうになった。

毛むくじゃらの手が私を這いまわって、久しぶりに脚の間をぬるく伝う感覚がしていた。

 



病院のベッドの上で、私は目を覚ました。

七月だった。梅雨が明けるにはまだ早いのに、風はもうカラッとしていて、どことなくセミが鳴いているような気がした。



アオイは泣いていた。

思い返してみれば、アオイは雨の日なのに傘もささずに出掛けて行ってしまったことをひどく悔いているようだった。


私は携帯も持たずに家を出てしまったのだけれど、いつのまにか二週間も会社を休んでしまっていた。十三針も頭を縫って、四十四度まで熱が出たそうだった。



何も覚えていないのだから、アオイがそんなにも泣く理由がよくわからなかった。膝をさするとちくっとした痛みが走った。看護師さんたちはみんな泣いていた。



アオイは帰り道、一言も話してくれなかった。ただぐっと手を握り締めて、私を引っ張った。


ごみ箱の中には赤ちゃんの肌着や小さなタオルや、名づけの本なんかがぼろぼろになって入っていた。

かわいい、そう思って嬉しくなった。


家に置いたままにしていた携帯にりっちゃんからのメッセージが入っていた。


二週間も前の日付だったから私は焦ってしまった。

りっちゃんは私と一緒に妊婦さんができると言ってとても喜んでいた。


なんのことかよくわからなかったけれど、りっちゃんの嬉しそうな文章を、私は久しぶりに見た。嬉しくて指でなぞった。アオイに報告しなきゃと思って立ち上がろうとしたけれどうまくできなかった。

ああそうだった、しばらく安静にしないといけないんだった。アオイに怒られてしまうところだった。


肘掛椅子に座ったまま天井を見上げた。アオイがすすり泣いている声がしたけれど、アオイがどこにいるのかよく見えなかった。雑踏の中でなんだか眠いような感じを思い出していた。



その次の日にママが会いに来てくれた。ママもひどく泣いていた。アオイとママはリビングで話しているみたいだった。

私は何だか焦っていた。りっちゃんからまた電話があったけれど、取ったらアオイに怒られるような気がしてできなかった。




アオイはいつでも尊かった。

そんなアオイが好きだった。

アオイは私だけのものだった。


アオイの、鈴を転がしたような甘い声が大好きだった。もっと聴いていたいと思っても、私から電話をするのはできなかった。

柔らかい髪に触れていたかった。アオイの特別になりたいと思った。アオイに、思いつくかぎり全部のことを話した。アオイに私を知ってもらいたいと思った。アオイと二人だけの宇宙にいたいと思った。



けれど私は九歳の時のことを、どうしても思い出すことができなかった。ママはここの記憶は塗りつぶしてしまったんだよといった。


四年生になった時に、家族みんなで引越しをした。パパはお仕事を変えた。お正月はそれから三人で過ごすことになった。お年玉も一万円だけになった。私はとても不思議だったけれど、うんと満足していた。

苺のボトルのヘアスプレーや桃の匂いのする鉛筆、ピンクの口紅は、ごみ箱の中にぼろぼろになって入っていた。




アオイは私の特別になってくれた。

アオイが一緒に眠ってくれる時、不思議と塗りつぶした記憶がほどけていくのを感じていた。脚の間に温かい感触がしていた。

朝起きて目が覚めるとアオイは別人のようになっていた。私は焦っていた。アオイは私を抱きしめていた。尊いアオイはそこにいなかった。



あれ以来アオイは少しずつ変わっていった。茶色い柔らかい髪を触るだけでなく、アオイに触れていい時間や面積は増えていった。

塗りつぶした記憶はいつの間にか記憶ごとどこかへ行ってしまった。

脚の間にぬるく伝う感覚もどこかに行って、溶けるような熱さがぐっと内臓を掻き分けるようにして沈み込んでいった。




おなかが痛かったり、気持ちが悪かったり、酸っぱいものばかり食べたくなったり、ひどく眠かったりしたので、アオイと一緒にお医者さんに行った。

看護師さんもみんな喜んでいた。アオイは見たこともないほどの笑顔をしていた。


三日後にアオイは、ぴかぴかの白い箱を持って帰ってきた。私の人生はいつの間にかりっちゃんと少し近づいて行ったような気がしていた。




目が覚めると真っ暗だった。夢だ。

何の音もしなくて、逆にうるさいほどだった。


アオイはどこに行ってしまったんだろう。泣いていたアオイの顔がまぶたに張りついていた。顔がちくっと痛いような気がして、そっと触れた。

目があると思ったところには目がなくって、鼻があると思ったところにも何もなかった。



「佐倉帆波さん、眠れないの?」


黄色く濁った歯が目に入った。

ツトムさんだ。顔ははっきりに見えなかったけれど、私は確信していた。


とくん。心臓が強く鳴った。声を出そうにも出るのは息だけだった。何も聞こえなくていつの間にか眠くなった。まぶたの裏に、無人改札で手を振るツトムさんの姿が見えた。



テレビから桂あつ子の歌が聞こえていた。鈴を転がしたような掠れた声が耳をくすぐっていた。


桂あつ子みたいになれていたら、アオイはずっと私と一緒にいてくれたんだろうか。久しぶりに鏡を見た自分はひどく太っていた。

ママは薬の副作用だと言った。気持ちが悪くて仕方がなかった。コンタクトレンズを入れた目にはっきりと映った自分は見たこともないような醜い顔をしていた。せっかく二重まぶたにしたのに、モーブピンクのアイシャドウを塗ってますます腫れあがっていた。



私は焦っていた。アオイは喜んでくれた。二重まぶたになった私を、痩せて綺麗になった私を。抱きしめてくれた。


桂あつ子の歌は二番のサビを終えてクライマックスになろうとしていた。

アオイはいつの間にか私から離れてしまっていた。太って目も腫れてしまった私には愛情が注げなくなってしまったに違いなかった。



病院からの帰り道、私はアオイに好きといったがアオイは泣いているだけで何も言ってはくれなかった。

二週間会社を休んで寝ていた間にアオイは私ではなく、桂あつ子のところに行ってしまったんだ。胸が張り裂けそうになっていた。


無人改札の向こう側にツトムさんがいたような気がした。額に張りついた髪はほとんど白髪になっていた。にっと笑った口元に黄色く濁った歯が並んでいた。



 

ここまで考えてみたら、とてもとても悲しくて押しつぶされそうに苦しくなってしまっていた。


そうだ、アオイは私の恋人だったんだ。ごみ箱を見ると、見つかってしまった押し花の表紙のノートが、ぼろぼろになって入っていた。

アオイの字は女のひとみたいに綺麗な字だった。二週間も寝てしまっていた。

私がここへ来るために持ってきた荷物はもうどこにもなかった。時計を見ると四時を指していたが、それが朝なのか夜なのか、私にはわからなかった。



「佐倉さん、急にどうしたの?こんな時間に」


吉野先生は急に押しかけても出てくれた。吉野先生は私の引越しも手伝ってくれた。痩せるためのサプリも教えてくれた。アオイを私の元に返してくれるのは吉野先生だけなんだと、なぜだかわからないけれどそう確信していた。


吉野先生は温かいミルクを入れてくれた。はちみつ入りのミルク。夏だというのに、私はひどく震えていた。先生は煙草を吸っていた。ライターの火が暖かくて、不思議と眠いような気がしていた。



ふと、電子レンジに映った女性が目に入った。吉野先生の向かいでホットミルクを飲んでいる。髪の短い女性だった。ひどくやせ細ってしまって、頼りなく見えた。

かわいそうに。大きな瞳はおびえて見えた。顎は小さくとがっていた。とても意地が悪そうに感じた。テレビで見る桂あつ子に似ているような気もしたが、もっともっと幸せでなさそうに見えた。



吉野先生の電話を借りることができたのでアオイの番号にかけてみた。現在使われていないか、電波の届かないところにいると言われてしまった。


少しだけ愕然としていた。逆を言ってしまえば、少ししか愕然としなかった。当然だと思った。私は太って目も腫れてしまったんだから。その上赤ちゃんもいなくなってしまったんだから。



吉野先生は私の願いを聞き入れてくれそうにもなかった。目やダイエットは努力しても赤ちゃんは一人ではどうしようもない。そう言うのだった。



でも赤ちゃんを見つければアオイはきっと帰ってきてくれる。私はとても焦っていた。諦めることなんてできるわけがなかった。私の体に宿った赤ちゃんなのだから、ちゃんと探せば見つかると思っていた。


どうして叶えてくれないんだろう。吉野先生ならきっと見つけてくれると思っていたのに。ぽろぽろと泣けて来て、しまいにはおいおいと泣いていた。


アオイといた、真空状態の時間がぐんぐんと迫ってきて、私は息がうまくできなくなっていった。


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