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episode.7

女性とアオイさんは先月から一緒に暮らすようになっていた。


彼女はとても喜んで毎日ロールキャベツや餃子や、オムライスや、生姜焼きなんかを作った。


まめなひとだ。

アオイさんは毎日きちんきちんと決まった時間に帰ってきているみたいだった。そして洗い物をした後は夜の散歩。


その時間が真空状態みたいで幸せだと、日記には書いてあった。

真空状態。私もツトムさんと一緒にいるときは真空状態だ。この女性に会ってみたい。会ってみたい。



「佐倉帆波さん、まだ起きてるの?」


気づけば懐中電灯を持った、ツトムさんがベッドを囲んだピンクのカーテンを少し開けて立っていた。


反射的に、この人の日記を見られたらきっとツトムさんは怒ると思った。

怒っているツトムさんを見たことはない。ないけれど、きっとツトムさんが怒ったら私はもうきっともう…



「眠れないんだね、かわいそうに。薬は飲んだかい?」


吉野先生がくれたサプリをぶら下げて、ツトムさんは嬉しそうに笑った。冷たい水を飲んでも別段冷たいという感覚はなかった。

ツトムさんの舌は今日は熱くて熱くて体中がとろけてしまいそうだった。




もうすぐお盆だそうだ。

私の家は母と二人きりだから別にお盆なんてあえて集まったりすることはない。


そう言うとツトムさんは、ひどく取り乱した。怒ってはいないけれど、とても取り乱した。ひんやりとした舌が這いまわっていた。このところずっとツトムさんは私のベッドにいた。毛むくじゃらの手が私を満たしていく。

いつの間にか、脚の間をすーっと流れる生暖かい感覚は消えていた。




朝顔の花を、看護師さんが飾ってくれた。青紫色のきれいな花だった。


こっそりと読み進めた日記ももう少しで終わってしまう。この日記の持ち主に会いたくなった。会ってみたい。



八月四日のところに一通の便せんが挟まっていた。きれいな朝顔の柄をした和紙の便せん。封は開いていない。


差出人はアオイさんだった。

とくん。心臓が少しだけ動いたのを感じた。アオイさんの書く字はとても柔らかで、まるで女のひとの字みたいだった。




“帆波へ


急に手紙なんて書いてごめん。直接会ったらきっと君はまた泣いてしまうと思ったんだ。


今回のことはとっても悲しいし、申し訳ないと思っている。


帆波と初めて出会った時から、僕には帆波しかいなかった。僕は二十四歳だっていうのに帆波以外の女性は知らないし、これからもずっとそうだから。自信がなかったんだ。

きちんと帆波を守ってあげられるかわからないと思った。


だけどね、帆波ともっと一緒にいたい気持ちのほうが強かった。


僕は帆波といると本当に幸せなんだ。

真空状態だと思えるくらいに。


帆波はこんな僕を、子供だと言ってばかにするかもしれない。

赤ちゃんがいなくなってしまって、前みたいに僕のことを思えなくなってしまったかもしれない。


だけど、僕はこれからもう一度、帆波と一緒に歩いていきたいと思ってるんだ。傷は簡単に癒えないと思う。思うけれど、僕とこれから生きていってほしいと思ってるんだ。


起きたらもう一度話そう。冷蔵庫にワッフルを入れてあるから、今日はゆっくり休んで”




「帆波ちゃん、今お母さんいる?」


私は首を横に振った。

ツトムさんは後ろ手に部屋のドアを閉めた。汗ばんだ額に髪が張りついていた。にっと笑った歯は黄色く濁っていた。



「帆波ちゃんの好きなワッフル、六個も買ってきちゃったんだ。どれでも好きなの食べていいよ。」


ツトムさんは気づけば私の水着の紐を少しずつ緩めていった。ひどい頭痛がした。


水玉のビキニは小学三年生の私にはまだ早いと、ママは言っていた。だけれど欲しかった。


私は背が小さかったのに、クラスの誰よりも早く初潮を迎えた。

恥ずかしかった。中学生のお兄さんたちに声をかけられることもあった。

恥ずかしかったけれど、私は少しだけ、優越感に浸っていたのかもしれない。


一緒にブランコに乗ったり、帰り道にツツジの花なんか摘んでいるような“恋愛”はばかばかしいんだと、おままごとなんだと。


ツトムさんも言っていた。私は尊いから、誰よりも一番になれる、なれる力があるんだって。

日常生活のふりをして、涼しい顔をして、誰よりも一番になってみせることができるんだって。ひどく魅力的だった。


ワッフルはメイプル味とナッツ味がおいしかった。

脚の間をすーっと冷たい感触が走った。汗ばんだ背中に、光が当たってつやつやとした黒い長い髪が張りついていた。



目覚めてみたつもりだったのに、次の夢だった。なんで夢かわかるのかというと、寝ている私がそこにいるからだった。

続けざまに夢を見る時、長く飛行機に乗っていて、続けて映画を見るような、そんな感覚になる。

他人事のような、何か物語を見ているだけのような、そんな感覚になる。



私はアオイがいたはずのベッドのふちに座ってぼーっとしていた。隣の部屋から子犬がじゃれ合っている鳴き声がした。どたどたという足音も聞こえる。


メスとオスだろうか。子犬だけれど妙につやっぽくも聞こえた。うらやましい。素直にそう思った。


うらやましい。自分でも驚くぐらい明瞭な声でそう言った。


立ち上がった時にすーっと脚の間にぬるく伝う感覚がした。手に持っていたガラスのコップはいつのまにか床の上に散らばってキラキラとしていた。


私は声も出ないのに、子犬のじゃれる声がずっとずっと聞こえた。


次に手に持ったものは缶切りだった。ずしん。振り下ろした時の重い感覚が手に残っていた。目が覚めてみてもまだベッドの上だった。




ツトムさんはずっと会いに来なかった。私は焦っていた。もう四日目だというのに私はひとりぼっちでベッドの上にいた。


時計は四時を指していたけれど、ここは窓がないから、朝なのか夜なのか私にはわからなかった。



水玉のビキニは、白い生地に赤やピンクや黄色や水色、緑の水玉がちらちらと描いてある。


九歳の私にはひどく魅力的だった。ママは大人っぽいデザインはまだダメと言って、ピンクのひらひらがついているワンピースのデザインを買ってくれた。

肩のところにひらひらがついていて、小さなスカートも付いていた。私は背が低かったから、スカートは膝の近くまで丈がきてしまった。



「帆波ちゃん、これママには絶対内緒だからね?」


ツトムさんはワッフルの袋のほかにもうひとつ袋を持っていた。

袋のロゴを見ただけで、私はぴーんと来た。私は嬉しくなった。時計を見ると四時を指していた。

もう外は少しずつ暗くなっていたけれど、ママは今日はお友達とご飯だと言っていたし、パパはお仕事で遅くなる日だった。



「帆波ちゃん、よく似合うよ、本当に、綺麗だよ。」

ツトムさんはシャッターをたくさん切った。


フラッシュの焚けた光と音が強くて、焦げてしまいそうなほどだった。

雑踏の中で眠くなる夢みたいに、私は気が付いたらうとうとしていた。


いつのまにか水玉のビキニはなくなっていた。脚の間の、すーっとぬるく伝う感覚は何回洗っても取れそうになかった。




桂あつ子がテレビに出ていた。

白い肌と茶色い瞳、ぱっちりした二重まぶた、長い脚。鈴を転がしたような声で彼女は歌っていた。


よく聴いた歌。つけっぱなしにしたテレビから聴こえた歌。柔らかそうで、でも時に少年みたいにも見えた。


私は桂あつ子みたいになりたかった。なりたかった。



ツトムさんはママのお兄さんだった。

四十二歳でひとりぼっちだとママは言っていた。

かわいそうだ。そう教わった。


パパはお仕事をものすごく頑張っているから、私が起きている間に帰ってきてくれることはあんまりなかった。


ママがいないときはツトムさんが私と晩ごはんを食べた。ツトムさんはいつだってママが呼んだら来てくれた。

一緒には暮らしていないけれどツトムさんのお部屋もちゃんとあった。


私は料理は得意でなかったけど、調理実習で作った鯖の味噌煮だけ、作ってあげたことがある。ツトムさんは舌なめずりをして喜んでいた。

ツトムさんはずっとひとりぼっちだったから私みたいな友達ができてうれしいと言った。


そのうち朝でも昼でも夜でも、ツトムさんは私が呼んだらすぐに来てくれるようになった。

お仕事は何をしているのか教えてくれなかったけれど、ママやパパよりはきっといいお仕事なんだと思った。

だっていつでも一緒にいてくれる。

いつでもそばにいて、一緒に寝てくれる。



そうだ、ツトムさんはお医者さんをしていると言っていた。

信じられないと言って笑った私に腹を立てて、お医者さんごっこをしようと言われたことがある。


私がたまに熱を出していくお医者さんとはなんだか少し違っていたけれど、上手に診察をしてくれたみたいだった。


それから具合が悪いことがあるといつもツトムさんに治してもらった。脚の間にぬるく伝う感覚にも少しずつ慣れていった。


夏だった。セミがずいぶんと鳴いていた。ツトムさんは治してくれるたびにいつも何かプレゼントをくれた。

水玉のビキニ、ピンクの口紅、赤いチェックのスカート、虹色の砂糖がいっぱいついたグミ、私と同じサイズのテディベア、桃の匂いのする鉛筆、苺のボトルのヘアスプレー。


どれもママが買ってくれないものばかりだった。でも水玉のビキニだけはいつも、ツトムさんの部屋にあった。

ママに見つかったらもう着れなくなってしまうからって、ツトムさんは言っていた。



いつも家の中で着ているだけではつまらないと私は思った。


ツトムさんが出かけているうちにクローゼットの中から、水玉のビキニを取り出した。心臓がとくんと鳴った。

ランドセルの中に入れて、見つからないように、自転車に乗った。


とくん。市民プールに人気はなかった。二年生で一番走るのがはやい谷野くんのお母さんが今日は巡回パトロールをしていた。



更衣室に入って、水玉のビキニを着た。鏡に映る自分がひどく大人びて見えた。ツトムさんの部屋の雑誌にあるお姉さんのように、お母さんが結ってくれた髪をふわふわとほどいた。

買ってもらったピンクの口紅をつけた。苺のヘアスプレーは甘ったるい香りがした。


脚の間がすーっとぬるく伝う感覚になった。五十メートルのプールはほとんど人がいなかった。水に潜ってしばらくじっとしていた。



「帆波ちゃん、あんたなんて恰好してるの!」


電話をもらったママはずっと無言だった。手を引いて歩く道のりがとてもとても遠く感じた。


水玉のビキニはそれからどこを探しても見つからなかった。


その頃ちょうどおなかが痛かったり、気持ちが悪かったり、酸っぱいものばかり食べたくなってしまったり、ひどく眠かったりすることがあって、お医者さんに行った。


ツトムさんじゃないおじさんがツトムさんとおんなじように、ベッドに私を寝かせて、冷たい機械で脚の間を診ていた。


すーっとぬるく伝う感覚はなかった。

ツトムさんの診察とは違って、周りに看護師さんがたくさんいて、みんな泣いていた。


眠って起きたらおなかはずしんとチクチクと痛んだ。ママはまた帰り道にずっと無言だった。

アスファルトに光が反射して焦げてしまいそうだった。私は学校を二週間お休みした。



ツトムさんはお正月になっても会いに来てくれなかった。

お薬を飲んだり、家族で温泉旅行に行ったりした。


ママがどうして泣いているのか、パパがどうしてお仕事をやめてしまって、ずっと家にいるのか、九歳の私には全然わからなかった。


だけど、パパやママに言えない、秘密のプレゼントもらえなくなって、私は少しだけほっとしていた。苺のヘアスプレーはある朝起きてみたらリビングの床に粉々になってキラキラと散らばっていた。

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