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episode.6

目が覚めると立秋だった。


桂あつ子のコンサートの日。朝から頭痛がして目が覚めた。

テレビをつけると朝の情報番組に桂あつ子が出ている。


心臓がとくんとくんと鳴った。

今なら、今なら、アオイに電話したとしても出てくれるかもしれない。そう思うと居ても立っても居られなくなった。



十八回コールして、それでも出てはくれなかった。

私はアオイを失ってしまったのだろうか?

アオイは私にとって一番尊い存在だというのに。アオイはどうして、私の電話に出てくれないのだろうか。



焦って、気づけば水を飲むために持ったコップを落として割ってしまった。


ギザギザのガラスがキラキラと床に散らばっていた。指先を伝う血が生ぬるい。

脚をすーっと伝う感覚がして、思わずしゃがみこんだけれど、他はどこも怪我をしてなどいなかった。


アオイの声が聞こえた気がした。鈴のようにころころした、少し掠れた甘い声。



「よく来たね、佐倉帆波さん。」


日曜はツトムさんの病院に行った。ツトムさんが呼んだら、私は行かないとならない。

ツトムさんは私のよき理解者だ。

ツトムさんは私の細くなった脚を褒めてくれた。シリコンを入れて二カップ大きくした胸も。筋肉治療をして引き上がったヒップも、すーっとうっすらと割れて見える腹筋も。

ツトムさんはみんなみんな褒めてくれた。きれいだよ、きれいだ、美しい。君は美しいよと。



「起きたかい?」

バスローブから毛むくじゃらの腕がのぞいていた。




アオイは髪も柔らかく、女の子みたいにすべすべした肌をしていた。


アオイというのは子供のころに一緒に遊んだ、隣の家の男の子のことだ。もう何年も会っていないけれど、元気にしているだろうか?

ツトムさんにアオイの話をしてみたら、それは良い友達だね、と繰り返し言ってくれた。何度も何度も。


ツトムさんに頭を撫でられるとずっと安心する。ツトムさんのあたたかな手が私を這いまわっていた。




シリコンバーは体内の組織に比較的近い素材で作られている。温度によって柔らかくなったり、固くなったりもできる。

保存料を使っていないから半年に一回メンテナンスが必要になるけれど、それでも入れる価値はある。これで団子鼻と平らなおでことお別れできる。


例によって吉野先生の手術は痛みがない。まるで眠っていただけみたいに思える。

眠っているだけで私はどんどん進化していく。外付けバードディスクにたくさんの美しさを保存することができる。吉野先生に出会えたおかげだ。



嬉しくて、誰彼かまわず褒めてもらいたくなって、帰り道にコンビニに寄って棚を物色した。

コンビニなんて来るのはいつぶりだろうか。吉野先生にもらったサプリのおかげで食事をとらなくても元気でいられるようになった。何を見てもおいしそうに感じない。

おいしい、とはどんな感情だろうか。



食事は無駄な行為であるとツトムさんは言った。どのみち数時間でまた空腹は訪れる。

満たしても満たしても、また欲しくなる。そこを乗り越えないと、私は今までと同じ、ツトムさんに出会う前の、何もなかった空っぽの私と同じになってしまう。



「そうだよ、佐倉帆波さん。いい子だ。すっきりとしたきれいな体型になってきたね。君の美しさを、最も引き出せているのが今なんだよ。」



ツトムさんの舌は熱さと冷たさの間にあった。ずしんとくる痛みも、空が青くなるような気がしていた。


ツトムさんはよく私を愛したがった。愛しているが故に壊したくなるんだ、と言って急に泣き出すこともあった。

ツトムさんの唐突な喜怒哀楽が、私のすべてだ。真空状態になったみたいに、ただただ満たされていく。その感覚だけは目を閉じていても何となくわかった。




「帆波?ちょっと、ほんとに帆波なの?どうしちゃったの?」


火曜にりっちゃんにばったり会った。

彼女はひどく疲れ切ったような焦ったような顔をしていた。結婚が、出産が、何かつらいのだろうか。とてもかわいそうに見えた。


一番尊いりっちゃん。ふわふわの髪をして透き通った目をして、大きな二重まぶたでゆっくりと笑うりっちゃん。いつだって私の一番尊い存在だった。ほかの友達のところに行ってしまってもずっとずっと。

心から、私はりっちゃんの味方だった。癒してあげたい。彼女の尊さを取り戻してあげたい。



「帆波どうしちゃったのよ、こんなに痩せちゃって。ほっぺたもこけちゃって、顔もなんだかどうしたの?表情がないよ。帆波らしくないよ。ねえ、聞いてるの?アオイくんは?もしかしてだけど、一緒にいないの?何か言ってよ、帆波。」



結局りっちゃんはよく言うマタニティブルーにかかっていたみたいでそこまで深刻ではなさそうだった。

いつも気を利かせて、私を心配している振りをしてくれる。りっちゃんは優しい。

でもりっちゃんが自分のことをたくさん語らなくても、りっちゃんが本当に話したいことは手に取るようにわかる。


りっちゃんの不安を、今日私は少しでも拭い去ってあげることができたんだろうか。 




一人暮らしにしてはマンションが広すぎる。

私はどうしてこんなところに住んでいるんだろう。大きなソファーなんていらないと思う。ふわふわしたラグも。


お皿だって一組で十分なのに。どうしてなんだろう。

ツトムさんに聞いてみた。黄色く濁った歯でにっと笑うだけで、ツトムさんは何も答えなかった。 

ツトムさんは私の部屋に来たことがない。いつもツトムさんが私を愛してくれるのはツトムさんの病院だった。無機質な点滴が、目の覚めるようなきれいな風景画が、真っ白な壁が、床が、あたたかなピアノの音色が、私を包み込む。


真空状態だった。ツトムさんの声しか聞こえない。私は家に帰るのが億劫だった。広すぎる部屋よりもツトムさんと二人の宇宙にいたい。いたい。




チャイムが鳴ってドアを開けると、吉野先生がいた。水色の作業着に白いソックス、キラッと白い歯をのぞかせながら。


八月の八日は水曜だった。午後を回った時に来た。私は驚いてしまった。

お医者さんってきっととてもお金持ちで何不自由ないと思っていた。何より忙しくて時間がないと思っていた。

どうして私の引っ越しを手伝ってくれるのだろう。どうしてそんなにもキラキラと笑うのだろう。



「覚えててくださったんですね。嬉しいです。時給があんまりよくないんで、掛け持ちしないとやってけなくて。お引越しされるなんて知らなかったです。さみしくなりますね、また遊びに来てくださいね。それより体調はもう大丈夫なんですか?」



くしゃくしゃの笑顔をした吉野先生はいつもよりもとびきり笑顔なのに、いつもより少しよそよそしかった。




翌日の朝には私はツトムさんの病院のベッドで目を覚ました。少しだけハーブの匂いのする白い壁。私は頭が痛いと言って、布団をかぶった。




夢には知らないおじさんが出てきた。

昔住んでいたアパート。ふと見ると膝の上には子供のように小さな掌があった。


私は水玉のビキニを着ていた。じっとりと汗ばんだ肌を這いまわっている感触があった。気づけば私は泣いていた。おじさんは少しずつ私のビキニの紐を緩めていった。


「帆波ちゃん大丈夫。帆波ちゃんはクラスのお友達よりも尊いんだよ。一等賞なんだよ。」




それから毎晩、そのおじさんは私の夢に出てきた。四日経った頃、おじさんはビキニの紐を全部ほどいてしまった。

ツトムさんに見つかったらいけない。私は反射的にそう思った。時計は夕方の四時だった。ツトムさんはまだ診療時間だ。


ほっとため息をついたと同時にぐるりと世界が回った。

真空状態になって、何も聞こえなくなって、振り返ってみるとプールにいた。

庭に置いたビニールのプール。水玉のビキニはもうどこにもなかった。おじさんの舌は熱さと冷たさの間にあった。


ふと見ると、おじさんだと思っていたのはツトムさんだった。

なあんだ、ツトムさんじゃない。甘ったれた声が喉から出そうになって、耳に届いたのはかすかなうめき声だった。息苦しさにもがく。水が顔のまわりまで来て、私は目を閉じた。

すーっと脚の間に生ぬるい血が流れる感覚が広がった。


怖い夢を見て起きて、水の入ったコップを落として割ってしまったあの日と同じ、生ぬるい血が脚の間を伝う感覚。

気持ち悪くて何度も洗った。泣きながら、ホースの水で何度も何度も洗った。




翌日の夢には中学生になった私がいた。

ツトムさんにセーラー服姿を見せてあげた。ツトムさんは本当に嬉しそうな顔をした。毛むくじゃらの手が私を這いまわっている。


次の瞬間セーラー服はどこにもなかった。ビニールプールの中でまた息苦しさに目が覚めた。

脚をさすってみても、すーっと生ぬるさが伝わる感覚が消えなかった。何度洗っても、何度叩いても、なくならなかった。



「佐倉帆波さんですか?ああよかった、つながった。今日の引っ越しの件なんですけど、お忘れ物があって。本来なら廃棄するのですが、個人情報があるような気がしたので…取りに来てもらえます?」



吉野先生の声だった。指定された住所はいつもの病院とは違った。

恐る恐る行ってみると、花の匂いのするお姉さんが受付でふんわりと笑って立ち上がった。

ほっそりと華奢なのに女性らしい丸みのある体型をしていた。ウエストは片手で掴めそうなぐらい細いのに、バストはFかGぐらいあるだろうか。大きな二重まぶたでふんわりと笑った。私はひどくうらやましかった。



封筒に入った、その忘れ物とやらは少し重くて手元が震えた。

病院に帰るとツトムさんはまだ診察中のようで誰もいなかった。ここの看護師さんはいつもとても笑顔でロボットのようだった。私に気を遣っているのだろうか。


そうだわたしが、院長と結婚するから、ツトムさんと結婚するから、今から媚を売っているのだろうか。



封筒の中身はノートだった。

表紙に押し花がついている、綺麗なノート。青紫色のパンジーだった。


誰かの日記みたいだった。それは二十六歳から二十七歳になっていく女性の日記だった。


このひとにはアオイさんという彼氏がいて、アオイさんは茶色のふわふわとした柔らかい髪をして、鈴のようにころころした少し掠れた甘い声をしているそうだ。

毎日アオイさんからの電話を待っている。アオイさんは彼女のことを、今のままでとても素敵だというのだけれど、本当は彼のタイプが自分ではないことを知っているらしい。


どうしてそんなことがわかるのだろう。私はすっかり驚いてしまった。


他人の日記なんて勝手に読んではいけないのだけれど、私はつい面白くて読んでしまった。


どうしてこれが私の手元にあるのかわからないけれど。同い年の女性の、考えていることや痛みがわかる。不思議と私はこの女性が他人とは思えなくなってしまった。

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