episode.5
「佐倉さん、その後は調子どう?」
上司の家永さんは四十二歳の女性で、子供が小学校六年生と二年生、切れ長の目がすっときれいな肌の白いひとだった。
洗いざらしたリネンのシーツみたいな、低くて涼しい声をしていた。
突然、家永さんはわっと泣いてしまった。涼しい家永さんしか知らなかったから、私の許容範囲を突然超えてしまって、私はどうしたらいいのか混乱してしまって、何か気の利いたことが言えないものかと慌ててだらだらと汗をかいていた。
「あんまり無理しちゃだめよ。佐倉さん、入社してから一度もお休みしたことないでしょう?疲れがたまったんじゃないかしら。
私、部長に怒られちゃった。もっとよく見てあげなさいって。佐倉さんはしっかり者でかわいいからついつい甘えちゃったのよね。
あと五日、休んでも元気が出なかったら電話して。来れそうなら、そのまま来ていいから。」
その夜、私はあまりのことに悲鳴を上げてしまった。
何気なく見た鏡。モーブピンクのアイシャドウを塗った目元が赤く腫れあがっていた。
二重に整形したはずなのに。アオイは笑って私を抱きしめてくれたのに。
急に頭痛がして、見ると白いスカートには水玉みたいに血がついていた。
頭の中に苺の甘ったるい匂いが充満していた。
なぜ私はこんなに醜いのだろう。恐怖で恐怖でたまらなかった。
ああ明日はアオイの就職のお祝いをする日だというのに。私の目は元のひどい目のままだった。
しゃがみこんだ時、私はもう一度悲鳴を上げた。見たことがないように太く腫れあがった脚が、投げ出されるようにしてそこにあった。
触ってみてもなんの感覚もない。自分の脚ではないみたいにふてぶてしくそこにあった。
どうしよう、太った、太ったんだ。あれほど忠告をしてくれたのに、アオイは忠告をしてくれたのに、鯖缶を勧めるなんて遠慮がちに、私に忠告してくれていたのに、私は太ってしまったんだ。
汗が止まらなかった。鏡を投げて粉々に割って、やっと呼吸を取り戻した。
朝までかかってやっと、窓ガラスを全部真っ黒く塗りつぶした。
アオイが帰ってきてしまう、アオイが帰ってきてしまう。
「佐倉帆波さん、でいいのかな?年齢は、二十七歳、職業は、っと、あ、営業さんか。暑いだろ、今年は。まだ緊張してるみたいだね。
いいんだよ、ここは誰も君を責めたりしない。安全な場所だから。
君、佐倉さんを処置室に連れて行ってあげて」
夜までに何とか二重まぶたを取り戻した。
黒いタイツを買って急場をしのいだけれど、ダイエットは間に合わない。
あのサプリがあれば。そう思って慌ててインターネットを開いたけれど到着は来週になってしまう。
来週の火曜には、桂あつ子が文芸センターでコンサートをする。アオイは嬉しそうにチケットを買っていたというのに。サプリが間に合わなければ、私はいよいよ、桂あつ子にアオイを取られてしまう。
一眠りして時計を見ると夜中の三時だった。アオイは隣に寝ていない。
私は居ても立ってもいられなかった。アオイの番号を押す。着信音がリビングに響いた。
私は焦っていた。アオイからの電話があるのが当たり前なのに。もう何日経つのだろう。
翌日になって、脂肪吸引を予約することができた。扁平な顔をした看護師がリスク説明をしますといって、病室に入ってきた。
三十分はあろうかと思う、単調な説明を聞いた後、入ってきたのは吉野さんという若めのお医者さんだった。
誰かに似ていた。やや浅黒い肌をしていて、黒いつやつやの髪を丸くカットして、手にはマメがたくさんあって、背がとても高かった。
笑うとくしゃっとして、私を安心させようと冗談を言ったりもしてくれた。
花占いもしてくれて、私の植物タイプはアーモンドらしい。アーモンドは桜みたいな花をしている。
「佐倉さんだから桜みたいな花って、本当にひどいギャグだね。」
そう言うと吉野先生は、けらけらと笑った。
メスを入れたとは思えないほど軽い体で痛みもない。
触ってはだめだと言われたけど夜にこっそりと包帯の上から脚を触ってみた。すっかり余計な肉はなくなっていた。
気持ちよく眠れた。久しぶりに夢も見ないで、ゆっくりと眠ることができた。
割れた鏡でなくても、自分を見るのが怖くなくなるということが、いかに素晴らしいことか。今まで私は知らなかった。
今日は骨格の形成に行く。
あごの位置がずれていると噛み合わせや歯並びに影響するらしい。
何よりも顔はできるだけ小さいほうが、アオイの理想にあっていると思うし、ショートカットも似合うようになる。
私はうきうきしていた。それをこんなに簡単にできるなんて吉野先生はすごいと思う。
脚の包帯が取れた時、少しだけ骨がきしきしと痛んでいた。吉野先生は痛み止めの薬をくれた。
「あとこれ、本当は内緒なんだけど。これはね、EPAというホルモンが含まれているサプリなんだ。痩せる成分なんだよ、知ってるかな?
鯖とか青魚に入っているんだけど。青魚からとった成分だから体にもいいんだよ。
それに佐倉さんが悩んでいた、脂っこいものを食べたくなる気持ち、抑えられるんだ。すごいでしょう?」
人間は己の美しさに気づいていない。
テレビから流れてくる単調なナレーションがそう言っていた。
でも美しさというものは、生まれ持っているものだけでは限られている。
内蔵ハードディスクと外付けハードディスクみたいだ。生まれ持った美しさだけで勝負できるのはかなりギガ数の多いプランに入った、選ばれた人だけ。
アオイはそんな存在だった。だからこそ尊かった。桂あつ子もそうだった。
そういう人たちは、普通の人の世界の中に、まるで当たり前のような顔をして混じっているけれど、全然違った。
私もそうなりたい。アオイと同じ世界にいたい。アオイに、はやく帰ってきてほしい。
「佐倉帆波さん、最近は少し顔が晴れやかになったんじゃないかい?いいことだ。
怖がらなくてもいいんだよ。ここは君を傷つけるような人はいない。君は君のままでいいんだ。
ただちょっとだけ美しさを追加しよう。なんでも欲しいものが手に入るようになる。そうだ。その目だよ。美しい。」
ツトムさんは私のファンだという。ぴかぴかとしたまるい顔をしているおじさんだ。
私と話すとき、黄色く濁った歯をのぞかせながら嬉しそうににっと笑う。
週に一回、メンテナンスで訪問する。
うちの機械はかなりしっかりしたつくりだから、こんな頻度で訪問しなくてもいい。
けれどツトムさんが私を必要としてくれているのだから、行かないとならない。行かないとならない。