episode.4
「佐倉帆波さん、でいいのかな?年齢は、二十七歳、職業は、っと、あ、営業さんか。暑いだろ、今年は。まだ緊張してるみたいだね。いいんだよ、ここは誰も君を責めたりしない。安全な場所だから。」
火曜だというのにあまり憂鬱な気分でなく目が覚めた。
布団から這い出して鏡を見る。最近、化粧直し用の小さな鏡を割ってしまった、みたいだった。よく思い出せないけれど。
きっと接待の時に落としたか、それとも寝ぼけて駅でカバンをぶちまけてしまった時か。
とにかく、割ってしまったのにとっても使い勝手がよかった。
これまで半分の目で少しだけ見ていた自分の顔が、そんなことをしなくても、良いように見えるようになった。
ああそうだった。二重になったんだ。二重まぶたの手術をしたのは二か月前だった。
接待でから揚げを食べても、翌日の顔が仕上がるから、私はひどくうきうきした。
桂あつ子もこんな風に簡単に仕上がる顔だったから、アオイの気持ちを捕まえることができたんだろうか。
あれからピンク色のアイシャドウを二つ買った。ひとつはモーブっぽいくすんだ色で、ちらちらとラメが入っていて濡れたように見えるもの。
もうひとつは赤っぽい、泣いたように見えるマットなもの。どちらも、前の私には手が届かなかった。
やっとこれで私は、やっと、やっと。
午後には得意先で大きな機械が二台売れた。花言葉の話ばかりするおかしなお医者さんだった。
精神科医の免許を持っていると、誇らしそうにぴかぴかの顔を上に持ち上げて笑っていた。
外来の患者さんなんて見たこともないのに、スキャンを新調するらしい。
私が知ったことではない。花言葉のおじさんが、私と話をしたいだけで二百万円も払ったとしても。
「佐倉さん、聞こえますか?佐倉さん。」
目が覚めるととっても頭が痛くって、思わず私はもう一度目を閉じた。
私は混乱していた。よくわからないままに有給をとって家にいたみたいだった。
落ち着いたら電話するようにと上司に言われたけど、私はいたって落ち着いている。
電話が切れたら、音もない時間の中で一人ぼっちになってしまった。
ドアを開けようとする私を、ぐっと家の中に押し込んで外から鍵をかけてしまう手が頭に浮かんだ。アオイはもう三日も家に帰ってこない。桂あつ子と海に出かけたっきり。
お風呂上りに何げなくテレビをつけたら、生放送の歌番組に桂あつ子が出ていた。
嘘つきだ。本当は桂あつ子は今はアオイと一緒にいて、これは録画放送なのだからテレビの世界は恐ろしいと思う。
でも、もとはといえば、私が怒って電話を掛けたことが原因だった。それでアオイは飛び出してしまった。
明日は一年と二か月の記念日だし、帰ってくるのは間違いない、間違いはないと思いながらも汗がだらだらと出て止まらなかった。
もしかしたらもうすぐテストの時期だから、アオイは忙しいのかもしれない。三年生だからそろそろ就職活動も忙しいのかもしれない。自分にそう言い聞かせることにした。
自分よりうんと若いアオイが、大学なんて楽しくて夢みたいなところにいることが私はとても憂鬱だった。食堂で、桂あつ子がアオイの隣で楽しそうにご飯を食べているのを想像して頭が痛くなっていった。
私は三歳も年上なのに彼に平穏な彼女を提供してあげられていなかった。ひどく怒ってしまった。
その日は夢にアオイが出てきた。正確にはアオイの声が出てきた。鈴を鳴らしたような声で私を呼んでいたのに私はアオイを見つけることができなかった。できなくて泣いていた。
目が覚めても、アオイは隣に寝てはいなかった。じっとりと汗をかいていた。朝だというのに、セミの鳴き声が耳に刺さって、頭の中を覆いかぶさっていた。
アオイはとっても尊かった。茶色がかった目をしていて、柔らかい髪をしていて、それでいて鈴のような声で私を呼んでくれる。
アオイはいつも素直だ。私が怒ればその通りに、私が泣いてもその通りに、私が何もかも教えてあげた。ご飯を作ることも、家にきちんと帰ることも。
二人の時間に何が必要か、私が全部教えてあげた。アオイは素晴らしい吸収力で次々とそれを飲み込んでいった。アオイは誰の手にも触れたことがなかった。美しくて、尊くて、そんなアオイが本当に好きだった。
ある日の夜、アオイの背中はじっとりと汗をかいていた。切りそろえたばかりの耳の横の髪は柔らかく、私の頬に当たった。
初めて会った夏からもう五年が過ぎようとしていた。アオイの匂いがした。私たちは、気づいたら朝になってしまっていた。一眠りして目覚めたとき、もう尊いアオイはそこにいなかった。
すっかり昼になって起きだしてみると、リビングには桂あつ子が着ていた水玉のビキニが落ちていた。
とんとんとんとんとん。二人の歩いている音だろうか。頭が重くなって息もできなかった。
水の入っていたコップを取ろうとして、落として割ってしまった。カーテンからは刺さるほどのきつい光が差し込んでいた。
アオイの声がする方へと歩いていく。鈴のような声が相変わらず二つ聞こえる。
次の瞬間、私は昼間ホームセンターで買ったばかりの缶切りを持っていた。
アオイと桂あつ子は子犬が遊んでいるみたいに、声も出さずに床に寝転がって、動かなくなっていた。
もう一度目を閉じてみると、夜だった。私は恐る恐るリビングに行った。水玉のビキニは落ちていなかった。ああよかった。夢か。
でも部屋のドアをすべて開け放ってもアオイはいなかった。私は途方に暮れていた。