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episode.3

水曜の夜に、りっちゃんは私を呼び出した。


りっちゃんは私の唯一の友達だった。中学、高校、大学、全部一緒で、いつも二人で過ごしていた。

アオイと出会うまではりっちゃんが一番尊い存在だった。



「春に結婚してね。でも旦那が転職繰り返してる人でお金なくって。式はしなかったの。でも流行ってるじゃない?ナシ婚だっけ。私もそういうの、かっこいいなあって思って。でね、帆波に一番に言いたかったんだけど、実はね、赤ちゃんがいるんだ。」



一度携帯電話を買うと二年契約ですと言われているのに五年も六年も使ってしまう。モノモチがいいんだと自負していた。


アオイと電話をする以外、あまり用途がないから、それほど傷むこともないし、なにより今の機種が私はお気に入りだった。


久しぶりに開いてみると、りっちゃんは他の友達に囲まれながら楽しく過ごしていた。

インターネットの世界って一体何なのだろう。どうしてこんなにも簡単に、“友情”めいたものをつくってしまうのだろう。

お母さんになったりっちゃんにとって、私は一番尊い存在ではなくなってしまっていた。もしかしたら、もっとうんとずっと前からだったのかもしれないが、私はそれを意識することがなく、りっちゃんとの二人だけの世界で過ごしていた。



「帆波は結婚しないの?由佳ちゃんも香織も、さっちゃんも、今一緒に妊婦さんしてるの。楽しいよ?私も、帆波と一緒に子育てしたいなあ。あ、でもごめん。帆波は仕事がんばってるもんね。ごめんね、ついついぼけちゃって。」



どうして由佳ちゃんと香織とさっちゃんと、わたしが同じ線上にいるのだろう。りっちゃんは一体どうしてしまったんだろう。

私も子供ができれば、元通りりっちゃんの一番になれるのだろうか。

これまでふたりぼっちでつくってきた友情はもう子供がいないとだめなんだろうか。甘いんだろうか。

いつまでもずっと変わらないで、尊くいたいと思うのは甘いんだろうか。甘いんだろうか。



 

珍しくアオイは帰ってこなかった。私が電話をしたからだ。

私の方から、それも怒った口調で電話をしたからだ。


アオイはいつだって私の理想だった。アオイが私の理想でいてくれるためにはもっともっと平穏でいるべきなのに。

茶色がかった優しい目に映る自分が幸せそうに見えるのは、とっても平穏でいるからなのに、私は怒った口調で彼に電話をしてしまった。



じっとりと汗をかいて、夜中に目が覚めた。隣にはアオイが寝息を立てて眠っていた。

ああよかった。夢だった。深夜の歌番組に桂あつ子が出ていて、慌てて電源を切った。アオイは気づいていないのか録画しないで寝てしまった。


私は少しだけほっとした。カーテンを開けると、低い黒い空が星もなくのっぺりと広がっていた。



珍しく風邪をひいてしまったのか、会社を休んでしまった。ほんの微熱だったのに休むなんて自己嫌悪で気分が悪くなった。何回も何回もトイレに行かないとならなかった。

でも、微熱がずっと続いているのはよくないと、アオイは一緒に会社を休んでくれた。



大きな総合病院で、はじめは内科の列に並んだ。

そのあと、アオイとたくさん話した気がするけれど、なぜだろうか。私は記憶を塗りつぶしてしまったみたいに、その時のことを考えるとぐっと頭が痛くなって、息が苦しくなって、だらだらと汗をかいて、いろんな音が突き刺さるように迫ってきてしまうようになっていた。


雑踏の中にいて、とても眠い夢を見るように、目を開けていられないほど、反射した光で焦げてしまうほど。

 



アオイが土曜の仕事に出かけた後、一人でホームセンターに行った。白いスカートはおろしたてだった。

このところ、不思議な夢を見る。何回寝ても、起きても、カレンダーが土曜と日曜なのだ。

不思議なのでアオイに聞いてみたら、帆波は夢を見てるんだよ、と私を抱きしめながら鈴みたいな声で笑っていた。



前にアオイが話しかけた店員さんがいたので、車の傷けしスプレーの場所を聞いた。親切に教えてくれた。

いい人だった。やや浅黒い肌をしていて、黒いつやつやの髪を丸くカットして、手にはマメがたくさんあって、背がとても高かった。


この人にも家族がいるのだろうか。好きな人ができて、プロポーズをして、親のところに挨拶に行って、みんなに祝福されて、結婚式をして新婚旅行に行って、子供ができて、育てて…。

そんな途方もないようなことを、何段もある階段を上るようなことを、日常生活のままで、涼しい顔のままで、やってのけたのだろうか?

すごいと思った。限りなく途方もない。りっちゃんも、階段のすごく上の方から私を見降ろして手を振っていた。

私のルールにないから、いつもみたいに見ないふりをしたということでなく、単純にすごくすごくうらやましくて、でもその階段が途方もなくて、上っていく気力が、どんなにがんばっても沸きそうになかった。

 



アオイを待っている間に、少し眠ってしまって、その間に雨が降ってきていた。


このところ突然、こんな風に大雨が降ってしまう。

急に襲いかかるみたいに。

有無を言わせず連れて行かれてしまうみたいに。


梅雨だから仕方ないんだよ、アオイはいつもそう言った。



玄関にはアオイの水色の傘がぶら下がっていた。次の瞬間に、反射的に私は家の前の坂を下りていた。水色の傘と家の鍵だけを持って。


携帯を忘れたことに気付いたのはもっとずっとずっと後のことみたいだった。



大通りに出ると、ヘッドライトが反射して焦げてしまいそうなほどだった。

雑踏の中で眠くなる夢を思い出していた。


刺さるようなヘッドライトと雨の音。人の声がしないのにものすごい音量とスピードが私に迫ってくる。


たった今日一日、ホームセンターにしか行かなかったせいでこんなにも世界は進んでしまうのだろうか。

どうしてみんなこんな速さについていけるのだろうか。不思議と眠くなっていた。グレーのスウェットには雨のシミが幾つもついていた。



ふと気づくと一台のタクシーが坂を上っていくのが見えた。


ほんの二秒ほどだった。車内にはアオイと桂あつ子がいた。桂あつ子は白い水玉のビキニを着ていて、アオイにぴったりと張りついていた。



玄関には見たことのないビニール傘がぶら下がっていた。ドアを開けようとしたけれど、中から鈴のようなころころとした声が二つ聞こえてきて、私は濡れたドアノブを掴んだまま動けなくなってしまった。



その日は夢の中で二重まぶたに整形をした。クリニックを出たときに、アオイがすぐに私を抱きしめてくれた。今まで見たことのないような笑顔をしていた。



目が覚めるとアオイは隣に寝ていなかった。リビングには桂あつ子が着ていた水玉のビキニが落ちていた。


ずしん。頭が重くなって、息もできなかった。脚がすーっと冷たくなって、床を見ると血が滲んでいた。


とにかく落ち着こう。落ち着こう。水を入れようとしたコップを落として割ってしまった。


カーテンからは、少しずつ光が差し込んでいた。

アオイの声がする方へと歩いていく。鈴のような声が相変わらず二つ聞こえる。



次の瞬間、私は昼間ホームセンターで買ったばかりの缶切りを持っていた。


アオイと桂あつ子は子犬が遊んでいるみたいに、声も出さずに床に寝転がって、動かなくなっていた。

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