episode.2
月曜なのに接待があった。
にこにこと過ごして、唐揚げやフライドポテトを頬張った。
家に帰ってどっと疲れた。今日取った塩分と油分のことを考えるとむしゃくしゃして、むしゃくしゃして、泣いてしまいそうだった。
翌朝はなかなか簡単に顔が仕上がらなかった。どれだけ描いても、何もしていない顔のようで、私は焦っていた。
今日の私は圧倒的に水準に達していない。水準に達していなくても外に出ないといけないのは限りなく究極だ。
火曜なのに憂鬱で、それもまた水準に達していないから、気づいたら木曜の夜までアオイの電話を無視したままで過ごしてしまっていた。
「異動があったんだ。っていってもね、都内のままだから。安心して。それよりもね、今住んでるところより、帆波の家の方が今度の部署に近いの。だめかなあ、一緒に住むの。そもそも僕は毎日でも帆波に会いたいと思ってるんだけど。」
七夕は今年も大雨だった。
「彦星が、織姫に会いに行くために乗るマイカーを洗車するために、雨が降るんだよ。」
アオイはそんなばかみたいな話ばかりする。鈴みたいな声でずっとそんな話をする。
柔らかい髪は光に当たると少し茶色くて、目も同じように少し茶色かった。
透き通るような白い肌はほんのりと日焼けしていて、すべすべとしてひんやりとした、少し冷たいクッションの表面みたいな、そんな触感だった。
笑うと少しだけ目元にしわが寄る。
口元には控えめな小さな白い歯が行儀よく並んでいた。
鼻は目と口を邪魔しない絶妙なサイズ感で、眉毛は生やしたままだけれどほんのりと茶色いから気にはならない。
ヒールを履かなければ目線は顎の真ん中。ヒールを履いたら手がぴったりと繋げる高さになる。
初めて会った時のアオイは空みたいに真っ青なシャツを着ていた。
すっごく尊い。そう思った。
アオイは私が今まで出会った男の人の中で最も尊かった。
きっともっと一般的に、顔が良かったりスタイルが良かったりする人はたくさんいたのだけれど、アオイは一番、尊かった。そして私にとっては尊い、という感情が何よりも大切で重要だった。
尊いアオイが私を好きになり、私の家に住むようになったことを何度も何度も自分に確認した。握りしめて確認したのだ。
「ホームセンターがね、すぐそこにできたんだって。ねえ、行ってみようよ。」
私はカレンダー通り会社が休みだ。アオイは水曜と日曜。三年と十か月の記念日は出勤だった。
夕方、汗をびっしょりとかいて帰ってきた彼は鈴のような声で私をホームセンターに誘い出した。
興味はない。けれどアオイが楽しそうに連れ出してくれるという事象にうっとりする。
彼は運転が上手だ。梅雨も明けると空はもうペンキで塗りつぶしたみたいな、のっぺりした水色になっていた。
「こっちのボルトの大きいサイズのってありますか?」
アオイはうきうきしていた。うきうきして手を繋いでいた。その日はコンビニに寄って、冷たいパスタを買って、映画を観ながら眠りについた。
真空状態みたいだった。幸せの濃度が濃くて濃くてむせ返るみたいに濃くて、何も聞こえなくなるぐらい、真空状態みたいだった。
埃っぽいビルの中を歩いていた。歩いているだけで汗をかいてしまうような、とても暑い日だった。
挨拶をして淡々と質問に答えてもらう。顔のぴかぴかしたまるいおじさんだった。黄色く濁った歯がにっと笑った。
私の中の何かが共鳴して、ぐるりと世界が回るような気がした。精神科医の免許を持っていると、おじさんは言った。
誇らしそうにぴかぴかの顔を上に持ち上げて笑っていた。
「五つの質問に答えてくれたら、君の植物タイプを占ってあげるよ。」
ぴかぴかの顔を持ち上げたまま、得意そうにおじさんは言う。
クーラーが効いていないからじわりと汗が染み出ていって、白いシャツはぴったりと肌に張りついていた。
「アーモンドの花はね、桜にそっくりなんだって。今調べてみたんだけどね。あと、花言葉は希望なんだって。なんか帆波らしくていいよね。」
アオイが桂あつ子という歌手をとても好きなことは、実は心のどこかでひっかかっていた。
普段は思うこともない。でもちょっとした衝撃でぶわっと迫ってきてしまう。急に大きな音で迫ってきてしまう。
桂あつ子は私とは正反対のタイプだ。
柔らかそうな茶色い髪、ショートカットのよく似合う、まるい小さな顔。
色白で目がぱっちりしていて手脚が長くて、鈴みたいなころころした声をしていた。
彼女の音楽性が好きなだけでルックスは好みではないと、アオイは言い張っていたけれど、アオイが私に嘘をついていること自体が、私にとっては少し憂鬱だった。
その日は、アオイが桂あつ子と一緒に海辺を散歩している夢を見た。
二人とも鈴みたいな声をして、まるで二匹の子犬がじゃれているようだった。
私はパラソルの下でただ寝転んでいた。桂あつ子はアオイのほっぺたにキスをした。私はそれを見てもただただ寝転んでいた。そのうちに桂あつ子は水着の紐を少しずつ緩めていった。
次の瞬間、私は子供の頃に暮らしていたアパートにいた。
あのままでは桂あつ子にアオイをとられてしまう。
目をぎゅっとつむると、桂あつ子は青く染まった舌をぺろっと出して、まるでからかうように私を見た。
焦りで汗が止まらなくなった。ドアが開いて、あのアーモンドの精神科医のおじさんが入ってきた。おじさんは私の水着の紐を少しずつ緩めていった。
一日一個のペースで鯖缶を食べると良いらしい。置き換えダイエットの要領だ。夜ご飯のメイン料理を鯖にするだけで、アオイの言っていた痩せるホルモンが出る成分がたくさん摂れる。おなかも膨れるし言うことはない。
特段、鯖缶を食べるようになってから痩せたようには感じないが、アオイがしてほしいことはなんだってしたい、それはそれは血眼になってしたい、と強く思う。
それよりもすごいのがネットで頼んだサプリだった、飲み始めてすぐにアオイが、肌つやがよくなったねと褒めてくれるようになったのだ。
私はとてもとても嬉しかった。外回りの時はいつも夕方にチョコを買ってしまっていたのがなくなって、ランチにイタリアンを選んでしまうこともなくなった。
もともと嫌いなんだ、脂っこいものなんて。わかりきっていたじゃない。
わかりきっていたけれど、本当に食べなくても平気だった。接待で、から揚げを食べたとしても、気分が悪くなってたくさんは食べられない。胃がむかむかするのだ。
少し強行な気もしたけれど、効果には驚いた。たかだかサプリなのに。とっても驚きだった。
この頃は好んで茎わかめばかりをおやつに食べていた。酸っぱい味がおいしくて、カロリーも低くて、私は本当に嬉しかった。
嬉しくてすぐにでもアオイに報告したかったけれど、内緒にした。
だって手の内を全部明かしてしまったらきっと彼は私の元を離れてしまう。そう思ったらずしんと頭が重くなった。