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episode.1

「だから、今テレビで見てたんだけどね、EPAが大事でさ、缶詰がいいんだよ。缶詰には一番効率よく入ってるみたいで、一日に摂取するべき量の三倍ぐらい摂れるらしいんだよ。ねえ、聞いてる?帆波。」




 アオイの電話はいつだってテンションが高い。

ころころと、鈴を鳴らしたような、少し掠れた甘い声をしている。


彼は私と同じ二十四時間を過ごしていても、きっと三分の一も疲れないような、そんな体力を持っているのだと思う。

若いから。二十四歳だ。声に出すだけでキラキラして、反射して焦げてしまいそうなぐらい。




「週末どうする?行く?アウトレット。帆波の好きなパフェ食べに行こうよ。」




午後を少し回ったところで外回りに出た。車に乗り込んでふーっと息を吐く。


日除けの裏についている鏡でさりげなくアイメイクを確認する。周りの車に、自意識過剰と思われないように慎重に。


私は一重まぶただから朝の用意には無限に時間がかかる。描いても描いてもアイラインが出てこないのだから本当に嫌になる。途方もない。

朝起きたときの自分が一番嫌いだった。会社に行こうという気になるのに軽く二時間はかかる。低血圧なのだ。


信号待ちの間、横断歩道をゆっくりと歩くおばあさんを見ていると、どっと疲れが押し寄せてくる。



夏至を迎えても梅雨に入った感じがまるでしない。

気圧が低いせいか、目に映る景色の全てが苛立って見えるのに、紫陽花の青青とした蛍光色だけがぼんやりと浮き出ていた。



 帰りに寄ったスーパーでアオイの言うとおり、鯖缶を買った。

おじさんのおつまみみたい。ふふふっと笑いが込み上げる。

黄色く濁った歯がすっと頭の中を横切って、自分でも気づかないうちに消えていった。



“キャリアウーマン“なんてかっこいいものではないけれど、私は自分のことははみ出さずに自分でやれるぐらいにはしっかり働いてきたと思っていた。


それはもうがむしゃらに。


がむしゃらをやめてしまったら、私はどこに行ってしまうのか、不安だった。


子供の頃からそうだった。隙間に入り込んでしまったみたいに、私を、私らしさを発見するのはとても骨を折る作業だった。

一見おとなしいし、優等生だから疎ましがられていたのかもしれないし、本当はもっと違う理由かもしれないけれど。


大人になってから、とてもがむしゃらに働いていた。

私にはプライドがあった。たくさん勉強をして、塾にたくさん通って、いい大学に行く子も、彼氏が絶え間なくいて、たいした大学に行けなかった子も、見ないふりをしていた。


私は私のルールの中で完璧に生きている。

塾には行かなかったけれど、学校の勉強はできた。

親を困らせるようなことはほとんどしなかった。

きちんと就職もした。

何不自由なく暮らせるところで勤めている。


友達はたくさん作らない。

恋人は本当に好きな相手だけでいい。

川辺でバーベキューをしたりしようとは思わない。誰かの部屋でみんなでトランプをしながら朝を迎えるなんてまっぴらごめんだ。



そしてそんな私をとっても褒めてほしい、本当のところ、実はそう思っていたのかもしれない。



鯖缶は、蓋に引っ張るところがついているタイプのものと、そうじゃないものがあった。どちらもおいしそうに見えた。


アオイはなんて言うだろう。アオイの望んでいる私はどこにいるんだろう。



アオイは私のルールを完璧に理解してくれる。彼はとっても尊い。今まで生まれてから私と出会うまで、一体どこで何をしてきたのだろうかと思うほど、真っ白だった。


私の言うとおり、私の思うとおり、理想的な彼氏のそれに染まっていく。私は満足だった。


アオイの、鈴のようなころころした声の電話をこうして今日も待っている。



ときどきふと、雑踏のような、たくさんの音が混じったような空間にいて、とても眠いような夢を見ることがある。


たくさんの人がいて、たくさんの音が鳴って、アオイがどこにいるのかわからない。でもとっても眠いから、目を開けることも声を出すこともできない。


昨日もそうだった。時計を見るとまだ三時だった。もう七月だ。


日曜の午後アオイがうちに来た。雲が地面につきそうなほど下がっていた。


それから宅配便のおじさんも来た。むくみがとれるらしいサプリを、こっそりと頼んでみたのだ。

私のルールでは、本当はこういうミーハーなものは頼まないのだけれど、二十七歳だ。若くない、そう、“うかうか”とはしていられない。


ずっと私はアオイより若くない。アオイに初めて会った日のままの、好きになってくれた日のままの私でいたい。


鯖缶の話をするなんて、アオイはもしかすると私が太ってきたのに気づいてしまっているのだろうか。


アオイの電話を思い出す。私は焦っていた。

アオイが私の元を離れてしまう可能性はほんの少しでもすぐになくしてしまいたかった。



子犬のような目をしているアオイの柔らかな髪をそっと撫でた。


彼と出会うまでの私は一体どうやって生きていたのだろう。急にずしんと音がしたように頭が重くなった。

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