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バッティングセンター

作者: gengi

 夜中のバッティングセンターは、とても静かで世界との繋がりを遮断された気分にさせられる。例えば今居る建物ごと海に放り出されたりしてさ。周りは畑だらけで街灯はないので、外は真っ暗だ。波一つない穏やかな海が広がっていても考えられなくもない。その海の先はどこまで行っても、島も船も小さい魚さえも見当たらない。それは全然嫌じゃない。世界から切り離された感覚は、僕を安心させてくれる。妄想は時間を潰す武器になる。

世間と僕は一触即発ではないけれど、付かず離れずの距離を保っていた。世間は僕に対してしれっとして冷たいし、僕自身も世間というものに近付こうとしない。ここでいう世間は社会に参加してアクティブに楽しむという意味だ。仕事に恋に運動に家族を愛すということ。それが全然違和感がないことだ。

 僕から過大に世間を面倒なものにしてることはわかりきってた。例えば自分の評価とかドロドロの世間体とか、女にモテないというよりは呆れてて終わること、ゴミ出しの曜日がなんで決まっているのとか、家で大声で歌っていたら隣人から怒られたり、足の引っ張り合いばかりしてる国会中継やら、地球温暖化だとか民族紛争に見て見ぬ振りする奴らにうんざりする。わかりあえないのは僕としても辛い。だが仕方のないことだと諦めるしかない。たった一人の戦争を仕掛ける勇気がないだけだ。それでいて僕は頑固だった。

 思考の停止、プラスチック箱の中には山盛りの野球ボールたち。金属バットで散々打たれてきた年季の入った汚れ。それを磨かなきゃいけないが、磨きたくない僕の抵抗。仕事が始まったばかりなのにな。隣にいるのは兄貴の啓司。いつも兄貴をいうのが面倒で兄と略す。

「啓司兄、もし朝になったらバッティングセンターそのものが消えてたらどうする。ここにだけ超小規模な隕石が落ちて来たりさ、スカッドミサイルが落ちて来たり、パラレルワールドが起きて、過去が変えられて存在そのものが消えてなくなったりさ。よくハリウッド映画みたいにあるような」

「我が哀れな弟、介二。明日までに全てのボールを磨いといてくれよ。それと掃除もだ。今日の朝店に来たらゴミは散乱してるし、バッドは元の場所に収められてなかった。でもエアコンの冷房とバッティングマシーンの電源はちゃんと切ってあった、そこは評価するよ。あれが点けっぱなしだと電気代も馬鹿にならないから」

「茶化さないで、答えてくれたらやるよ」

「それなら転職活動をすぐ始めなきゃな。トラック運転手か宅配ドライバーにすると思う。じゃあ頼んだぞ。それと伸びずた髪を切ってこいよ。暑苦しくてかなわない。毛を刈り損ねた羊みたいになってるぞ。あと服装も軽装すぎる。一応接客業なんだからな。今日は帰ってから風呂の掃除をしなきゃならん」

 確かに髪は伸び放題で、暑苦しくて仕方ない。それに服装はドラえもんのTシャツに黒いハーフパンツだ。おまけに靴はクロックス。返す言葉がない。もう少し抵抗できると思ってたんだけどな。それにしても我が兄である啓司は善き人だけど、最近は面白みがないっていうか、ユーモアさえも成長と共に手から羽ばたいて消えてしまった。きちんとアイロンがけした白い半袖シャツを着てこれまたシワひとつないスラックスをはいてる。おまけに黒光りした革靴。どこかの営業マンじゃないんだから。小さい頃は冗談ばっかり言って、お笑い番組が好きで、ゲラゲラ何時間も笑っている男だったのに。それとも僕があまりにも変化しないだけだろうか。

 僕ら兄弟は埼玉のベッドタウン春日部で「エメラルド」というバッティングセンターを経営してる。親から受け継いだ大切な遺産だ。春日部と言っても郊外よりも南に車で約三十分、周りは稲作用の畑しかない田園地帯に、ポツンと闇夜に強い光り輝くエンターテイメント施設。夏も冬も変わらず朝十時から夜中の三時まで営業して、三百六十五日休みなし。施設は室内と室外に強化ガラスで分けられて、室外がバッティングを楽しむスペース。室外に出るドアを開けるとすぐバッターボックスがあり、その約十八メートル先にピッチングマシーン。お客様がバッティングを楽しむには、受付に一回分、五百円払ってコインを受け取り隣のバッターボックス横の箱にチャリンとコインを入れるとゲームスタート。使い古されているけど、よくメンテナンスされたピッチングマシーンから勢いよく球がバッターボックスに放たれる。野球未経験者は敬遠しがちだけど、そこは心配しないでもらいたい。八台のピッチングマシーンがあるけど、百三十キロから際も遅い八十キロまで台ごと球速を選べるので安心だ。何なら僕が優しく指導しても構わない。今では見る影もないだろうが、これでも野球小僧だったので、球を前に飛ばすくらいには出来る。今まで一人も指導したことはないけど。誰も頼みに来ないんだ。

松井秀喜のような豪快なスイングで、いくら飛ばしても大丈夫。頑丈な網が空を覆ってるので絡め取られる。うまく球を当て続ければ、心地いい衝撃と金属音を聞くこともできる。年甲斐もなく金属バットを振りすぎて汗かき水分を失っても平気だ。室内には自販機だってある。品ぞろえは悪いけど。金属バットを振るのが馬鹿らしくなったら、昔のゲームセンターにあった百円で遊べるアーケードゲームまで揃えてる。僕は暇な時、従業員という特権を使って、無料で画像の荒い悪魔城ドラキュラをプレイしてる。でも赤い悪魔にいつも倒される。骨にされるんだ。それもいつも同じところで。

 開店前の朝早くから夕方までは兄貴の啓司が担当する。デブでメガネをかけてるいかにもオタクタイプ。だけど社交的で、何事も積極的な性格なのに、それでいて意外に堅実な男。会計や光熱費の管理、ピッチングマシーンの調整など、何でこなせる。ちゃんとスリムな奥さんだっているんだ。能面みたいな顔をしてるのが残念だけど。ちなみに僕はこの女に嫌われてる。なぜなら僕も嫌っているから。能面ってなんだか気持ち悪いじゃないか。

 夕方から夜の三時までは僕が担当してる。啓司兄は遅くても夜の八時には帰ってしまう。三十五年ローンで建てた一戸建てで待つ奥様が、精力のつく手料理を作って帰りを待っている。どうやら第二子を作ろうと企んでいるらしい。すでに可愛らしいまん丸とした顔の男の子がいるっていうのに、兄弟がいる方がいいからって。精力をつけ過ぎて啓司兄がこれ以上太って行くのは複雑な心境だ。昔を知る可愛らしい子供時代を知る僕としては心が痛むから。僕はというと今だに料理を作ってくれる伴侶はいないので、簡単な軽食ばかりを食して終わりなので、前以上に痩せて、まるで減量中のボクサーのようになってる。ボクシングを知らない力士徹だ。

世間とは平行線をたどっていたが、完全にそっぽを向いてるわけじゃない。こうやってバッティングセンターに来て、形だけでも働いてる。半ば強制的だけどね。兄貴とは対照的で、ろくにすっぽ動かない。受付のカウンターに備えられた銅像と間違えられても、バカらしいが諦めるよ。ピッチングマシンが動かないので何とかしてくれと言われても、僕じゃわからないと断る。それでお客様が怒られても、僕はデヘっと笑うだけだ。こいつに何を言ってもしょうがないという諦めが、僕をかろうじて救う。バカにされてもけなされても、僕には響かない。届くまでは、密度の濃いコンクリートを詰めた壁が携わってる。このサービス大国日本では考えられないのかもしれない。こんな店員がいたら僕だって悪夢だと思うよ、精神的におかしいわけでもないし、特別な障害があるわけではない。周りか見ると何を考えてるのかわからないんだろう。一つだけ言えることは、何も考えてない。

客がいない夜はカウンターに陣取り、小説を読み漁っていた。それも時代小説で、司馬遼太郎ばかりだ。歴史の隠れた偉人に思いを馳せる。他人の人生をあっという間に味わえるのは贅沢で、少し自分が自分じゃなくなる感覚。他人の思想が僕を汚れから浚う。でも家に帰る頃には本来の怠け者の僕に戻っているのが残念。

断っておくけど、平凡で楽な仕事だと思われてるなら困る。暇で死にそうな時間を過ごせるのかの耐久力が必要だ。それにガラの悪いお客様の対応しなくちゃいけない。特に週末の夜は、ろくな人たちは集まらない。柄が悪くて、目つきもひどい。

 元野球部で、まだ有り余る力の使い所を間違えてる奴ら。ビックスクーターで何台も乗り付け、染め方が均等じゃない荒い金髪で、散々たむろしてデカイ態度で悪態をつき、中身がない会話をして、バッテングゲームを一回だけして堂々と帰っていく。そういう奴らと渡り合えるのは、僕のような男はうってつけなのだ。いかつい男に睨まれてもどやされても、嫌だな思うだけで、平然としてる。仕事を通して、感情をわざと疎区にしていた。その方が都合がいい。どうしょうもない場所だなんて思わないでくれ、そんな奴らもそのうち淘汰される。仕事や恋愛、結婚に忙しくなるからだ。そして恋人と家族と本当のエンターテイメント施設に行ってしまう。だから僕はそういうやんちゃなやつらでさえ愛おしく思うんだ。どんなに最悪な奴でも。

 そういう気まぐれな客だけでは経営はままならない。この店が続いてるのはしっかりとした固定の常連さんがいるからだ。昼間の客のことは知らない。僕はほとんど夜の住人だから。僕に分かることは夜に来る常連さんだけだ。

 例えば、日本が誇る野球人イチローに憧れる賢治くん。イチローの少年秘話で毎日バッティングセンターで特打していたという話に感化され、同じような過程を経たら、偉大な野球人になれると本気で信じてる。熱心な親が子供をほとんど毎日連れて百球打ちにくる。手は豆だらけで涙ぐましい努力を続けるが、バッテングを毎日観察してる身としては、才能の芽はない。少しでも可能性があればいいんだけど、全くないんだ。成長の跡が見当たらない。ボールが前に飛ばない。親父さんは近くの昔からある安くて鮮度がいいと評判の八百屋、野球少年はその息子。八百屋の息子のくせに肉ばかり食って小太りになってる。

 火曜と木曜と土曜に来る中込さんは、この施設では一番早い百三十キロのボールをライナーで返していく。惚れ惚れするバッドの振り方だ。何でも元高校球児でその頃は名を馳せた。奥さんがフィットネスクラブでエクササイズダンスに参加する日だけ来店する。奥さんの家に居候マスオさん状態で、妻がいないと家に居ずらいらしい。加工食品の班長をして立派な人だけど、どこかいつもよそよそしい。妻の実家は仲が良くて団結してるので、居場所作りが大変なんだと僕に愚痴を言う。幸せの代償はいつも少し辛い。気の毒に思う。

 きわめつけは山田くん。この青年は大学受験に失敗して、希望の獣医学部がある大学に行けなかったのが運命が狂ってしまった。学びたくもない経済学なんて学んでも長続きするわけない。退学して近くのスーパーで品出しの仕事をしてる。どんな経緯かわからないが、毎日バックネットに備え付けてある地表二十メートル古びたボームラン板にあてることに執念を燃やしていた。その看板にあった時の魔の抜けた、おめでとうござますという音声アナウンス。僕はその声を聞くと唾を地面に吐きかけたい衝動にかられるが、山田くんは唯一恍惚とした表情を浮かべるのだ。突然空から美しい天使が舞い降りてきたような感じだ。普段は全く喋らないが、ホームランを当てた後はうるさいくらいに饒舌になった。もちろん相手は僕だけど。この人もどこか不憫でならない。

 勤務時間ラスト深夜一時間前は人がいない方が圧倒的だ。まともに昼間の仕事してる人には当たり前かもしれない。だって深夜二時だもの。夢の中さ。きっと悪意のない奇妙な夢をみんな見てる間、僕は一人ぼっちで遠くを見つめてる。そこは完璧な世界には及ばないけど、あの切り離された感覚に浸れる。今日も至って平和だった。勝手に自販機に補充する予定だった緩いコーラを一気飲みほす。ぬるいコーラほど不味いものはないが、わざと大きい音でゲップする心地いい終わりの優越。

 三時ぴったりに店のシャッターを閉めてアパートに帰る。これも親が残してくれたアパートだ。春になるとツバメが小さいベランダに巣を毎年作りにくるアパート。風が通らないので、夏はサウナのようになるアパート。秋になると前の道路に植えてある木から柿が大量に取れるアパート。駐車場は日当たりが悪くて冬は氷がいつまでも解けない。それでもここには温かみがある。だって僕を守ってくれる、温もりを与えてくれる。大切な遺産だ。当初はオシャレな今は塗装は禿げて古臭い不気味な場所になってしまったけど。

 今の季節は夏で、昼間は気絶しそうなくらい暑かったけど、夜中の三時ともなると半袖だと少し冷える。通販で買った安くないマウンテンバイクで帰宅する。夏でも空気が綺麗なので田園地帯だと星がはっきりと観測できる。たまにだけど、最後の輝きを放つ瞬間を拝める時がある。死ぬ流れ星じゃなくて、その星自体が輝いてるのが一番観察できる。それが際も際立つのが夜中の三時ごろだった。あの光は何百光年の時を経てこの地球に届いて、それを当たり前のように肉眼で観測きる奇跡。だって今現在、あの光り輝く星は消えているかもしれないんだから。

 空を見上げながら帰る。それほど難しいことじゃない。長年走ってきた歩道をどう間違えるんだ。田んぼの真ん中にあるエメラルドから春日部駅寄りのアパートまでの約八キロの距離。どこが凹んでどこに亀裂が走ってるか、草が生い茂っているか、交通量が多いの道路など、僕の体にホクロが何個あるのかより答えられるだろう。橋の上を走ってるときだった。上ばかりを見ていたから、肌が青白い女が立っていたのはすぐにわからなかった。そこは田園が終わり、住宅が増えてくる境目にあるとても小さな橋だ。何お変哲も無い、ただ通り過ぎるためだけにある橋。名前さえあるのか疑わしい。ぶつかりそうになって慌てて避けた。僕の怠けてはいるけど、高い運動神経と反射神経がなければ避けられなかったかもしれない。見知らぬ女性と一緒に暗い川の中へ。それじゃ誰も笑ってくれないだろう。むしろ僕が叩かれる。もしかしたら啓司兄貴が小さい記念碑くらいは作ってくれるかもしれない。大馬鹿野郎ってさ。

 彼女はマウンテンバイクでスレスレで避けても、特に驚きもしないし、何も感じていないようだ。こちらからごめんなさいと謝ってところで無反応。ただひたすら橋の上から遠くを眺めてる。僕も同じところを眺める。眼前は平野でどこまでも見渡せるはずだが、そこは真っ暗な暗闇しか見当たらない。下には底の浅い川が流れるばかり。街灯の頼りないオレンジ色の下なのではっきりしたことは言えないが、印象はとても若い。白い肌に張りがある。少女ではないが、女にはなり切ってない。ナイキのキャップをかぶり、服装は半袖の白いシャツと丈のあったジーパンをはいていた。靴はナイキのスニーカーだった。僕は無視された動揺を表に出さないように、カッコつけてその場を立ち去った。それもかなり早く。おかげで汗がたんまり出たよ。全く若い奴はこれだから嫌になるんだ。

 アパートに帰ってから、冷や汗をシャワーで流す、簡単な軽食を食べて寝るてはずなんだけど、さっきの女がどうにも気になった。無視されたことがじゃない。いや、確かに無視されたことは堪えたけど、それだけじゃない。あの遠くを眺めるぼんやりした感情のない目。人間で一番大切な感情を失ってしまった目をしてる。何も感じない。たとえ自分が消えてしまっても何も思わない。嫌な思い出を壺の中に入れて、きつく蓋をして僕の思考の奥深くに押し込めて、もう二度と出てこないようにしている。でもそれをきつく締め続けているのは気を遣うしんどい。なぜそんなことが分かるんだと考えるが、少し前の鏡に映った僕に覚えがある。ああいう目をしていることが一番怖いんだ。

 もう朝の四時近くて、新聞の配達のおじさんが決められた順序でポストに新聞をテキパキといれていく。みんなが活動を始めようとしてる、その前に布団に入るには絶好のチャンスだ。まだ外は静かだし、薄暗い。だけど居ても立っても居られない。衝動的に外に飛び出した。

 マウンテンバイクの三つある一番大きいギアに変えて、ペダルを重くしてスピードを上げる。夢中でペダルを漕いだけど、薄暗い中で途中色々な幻想をみた。道端に座る両親。田園で野球をするエメラルドの常連たち動転してたんだと思う。後悔するのは嫌だった。

 川に反射する光のきらめきは何ともいいがたく綺麗だ。例えその下が、どんなに濁っていても。その女はまだ橋にしぶとく、地蔵のように動いてない。さっきとは打って変わって凛として、そこに存在するだけで華やかになる百合の花のようだ。僕の声は上ずって、一オクターブ高かくなっていた。

「もし早まった考えをしてるなら、どうか話を聞いてほしい」

 その女は冷ややかな眼で僕を見た。何だか晒し者になった気分だ。二人しかいないのに。そしてまた視線をそらす。珍しく僕はめげない。

「同じ考えを持っていた時期があった。生きていても辛らいし、災厄がいっぺんに襲ってくる時期ってある。そういう時は砂嵐にあってるみたいで、目の前が真っ暗になるよね。混乱して自分の命でさえ軽くなる。でも君はさ、この世界いでただ一人、変えが効かない存在なんだよ。この世界が終わるわけじゃないんだ。それに辛くて死にそうな時期っていうのは、それほど長くは続かない。本当だよ」 

「朝日が昇る姿は私に勇気をくれる。その水のきらめきは私に安らぎを満たす。そんなとこかな。朝からうるさいんだけど」

 僕の頑張って絞り出した言葉の数々を、その女は一蹴した。面目は丸潰れで顔から火が出るほど恥ずかしかった。行動することで後悔するなら、ずっと部屋の中に閉じこもってる方がどれほど得かわからない。でも気になっちゃったんだから仕方ないよな。

「将来有望で可愛げな私の命を救うには、少し説得力に足りないけど、私が変えがたい存在だってことは納得した。じゃあね」

 その女は僕をあざ笑うかのように颯爽と去る。狐につままれた気分だ。。肌が異様に白くてツヤと弾力がある、それに肩までかかる髪が本当に黒くてしなやかだ。明るい今ならわかる。無邪気な天使と崇める女神とのちょうど中間。そんな微妙なバランスの時期だ。とても同じ人間とは思えない。刺激のない毎日だが、乱され侵入されていくのがわかった。その攻防は熾烈を極めるはずだったけど、付かず離れずの攻防は呆気なく崩れた。これはうだうだ考えている場合ではないって、世間に媚を売っても構わない、行動しろと細胞が命令を下したんだ。

「僕は介二っていうんだけど。この先を三キロほど行った場所に昔懐かしのバッキングセンターで働いてるんだ。よかったら今度立ち寄ってよ」

 その子は首を傾げる。このバカなお人好しは何を言ってるんだと考えてる。僕は見えなくなるまで見守った。車の交通量が増して、橋がガタンと揺れる。その揺れを感じながら朝日を今まで味わったことのない神聖な気分になれた。排気ガスと濁った水面の出すヘドロ匂いが混ざり合うのは正直胸糞悪かったが、それさえも許せる。こう言ったらなんだけど、初めて春日部のソープランドに行った朝を思い出した。世間と距離はこのころからおかしくなっていく。

 起きると啓司兄が上から覗いていた。その顔の距離十センチ。なぜ僕の居住スペースに勝手に乗り込んでるんだと、最初に考えたが、なんてことない、帰ってきたら鍵もかけずにそのまま布団に潜り込んだのだ。僕は寝起きが弱い。頭が痛くなったり、腹が痛くなったり、腹が減ったり大変なのに。啓司兄の脂ぎった顔と大きな目と青い髭を眺めるのは寝起きには悪い。よく結婚できたなとけなしたくなる。

「体たらくな弟、介二。仕事に来ないわ、電話に出ないわ、今の今まで寝てるは、どういうつもりなんだい」

 顔は相変わらず近かったけど、幸いなのは息がミントの香りがしたことだ。こたつの上に置いてあったミンティアを勝手に拝借したんだろう。スマートフォンの時計を見ると夕方を過ぎて、肌寒い季節ではすでに闇が覆う午後の六時を回っていた。いやはや参ったな、目覚まし機能をオンにするのを忘れていた。僕は布団の上に正座して、かしこまっていんぎんに答えた。

「これは、何ていうのかな、正しいことをした代償っていうのかな。世界をよくしようとした結果なんだよ。それで少し張り切り過ぎただけなんだ。明日のことも忘れるくらいに。疲れ果てて、生もこんも朽ち果てたんだよね。今はいっぱい寝たから元気だけどさ」

「何だ、その言い訳は。夜な夜なヒーロー活動でもやってるのか、バットマンみたいに」

「中身はまるで違うけど、似たところはあるかもね。人々の平和を守るっていう意味では」

「それで助けられたのか」

「いや、拒絶されたよ」

「頭おかしいんじゃないのか。まあ今に始まったことじゃない。すぐに仕事場へ来てくれよ。俺はもう帰るからな」

「ちょっと待って、啓司兄がいるってことは今誰が仕事場にいるんだ」

「中込さんに少しの間店番を頼んで来たよ。二時間、五十球無料チケット三枚で話をつけて来た。本当に人のいい人だな」

「そうか、今日は木曜日か、あの人なら信頼に足りる人だから大丈夫だよ」

「何安心してるんだ。早く行け」

 鶏を小屋から追い立てるようにアパートを出された。啓司兄は大体のことには甘いが、怒ると仁王像のようになり、めちゃくちゃ怖いんだ。多分あと一分でも部屋から出るのが遅れたら、尻に強烈な蹴りが入ってたね。

アパートの外壁は相変わらずうすら汚れてる。高圧洗浄を施しても長年の生きたシミは消えないようだ。そのシミは僕の生きてきた証。このアパートは親の遺産だ。親には感謝しても仕切れない。僕は一様、大家のような仕事を兼務してた。最寄りの春日部駅まで自転車で十分でつく。独り身で都心に出るには、近くはないけど遠くもない。それでも何と言っても1LDKで、賃貸は周りのアパートよりも安かったので四部屋は常に入居者は埋まっていた。一室を占拠してる僕の方が厄介者に思われてるかもしれない。アパート所有者は啓司兄名義になっている。だが家賃収入は兄弟二人で分け合う。金で揉めるのが一番醜いからという兄弟の意見が一致した結果だ。これで若い女性が入居者でいればよかったんだけど、全員むさ苦しい男たちだった。こいつらが色々な物を壊すので、忙しい。

僕は愛車のマウンテンバイクに飛び乗った。中込さんが待ってるかと思うと、足に力が入る。一度も信号に捕まらなかったし、ペダルを漕ぐのをやめなかったし何より見事な追い風だった。向かい風でまっすぐ進むのは、いつもの三倍は疲れるし、遅くなる。最速記録を更新しただろう。その代わり着いたらほとんど息が上がって汗はダラダラ垂れて、体力がなくなっていた。

 店に着くと鼠色のいつもの使い古された作業着という格好で中込さんが暇そうにカウンターの椅子に座っていた。仕事帰りなんだろう、青い作業着は汚れていたし、少し油臭った。でもそれはいつものことだ、顔には出さない。店内にはゲームに興じる若いカップルがキャハキャハと狂ったようにはしゃいで笑っているだけだ。いつもの店内。ここでは日本経済下降や政治腐敗なんて暗い話題はない。ここはその議論をするにはのどかすぎる。その話題の方から相手にされないだけかもしれない。お前たちには相応しくないってね。

「ありがとうございます。店を頼んだのは家族以外で中込さん一人だけですよ。啓司兄が信用するんだから本物です。それだけ信頼に足りる人だと言うことですね」

「あぁ、いいてことさ。おかげでボールは打ち放題だし、店のジュースは飲み放題だ。何かあったの」

「昨日遅くまで少しヒーローの真似事をしてたら、寝過ごしちゃって」

「介二くんも結婚でもしたら、もっとちゃんとするのに。いい人いないの」

「寄ってくるのは大切なお客様しかいませんよ」

「介二くんといると安心するんだけどな。その自由さを感じるからなのかわからないけど。とにかく勿体無いよ」

「そんなこと言ってくれるのは、中込さんだけですよ」

「班長になって人をマネジメントするようになってわかったんだ。そういう人が組織に一人でもいたら、全然違うんだなって。しかもそれは天性のものでさ。介二くんはマスコット的な存在なんだよね。そこにいるだけで、あるだけで、ただそれだけで安心するんだ」

僕は頭を捻った。それってテーマパークにいる不細工なぬいぐるみのことだろうか。いつだって顔が変わらない。どれだけ苦しくても辛くても顔色ひとつ変える権利を奪われてる哀れな獣。例え中にいる人間が今の猛暑で参っていても、さも楽しそうにしなければならない。それにあれは人間じゃないから安心するんですよ。攻撃してきて、丸呑みするなんてこともありえない、それに口汚く罵ることもしない。無害だってことか。中々的を得てるじゃないか。

「僕のようなむさ苦しい男が人を呼び込むとは思えない。何かの勘違いですよ」

「勘違いなんかじゃない。この前、娘を連れて奥さんの家族と一緒にそれこそテーマパークに行ったんだ。本当は行きたくなかったんだよ。せっかくの休日に人混みの多い場所に行くなんて、考えるだけでも疲れるじゃないか。でも奥さんの家族とも今ひとつ壁があってね、少しでも仲良くなりたくてさ、朝早くから出かけたんだわ。大変だったよ。何時間も運転してやっとついたと思ったら、ちょうど連休中で人は山ほどいるし奥さんの両親は張り切って、娘はもっとはしゃいじゃってさ。気分が悪くなるだけのジェットコースターに何周もしたりしてね。嫌になって疲れ果て、立ち尽くしていると、隣に妻じゃなくてそのテーマパークの有名なマスコットがいたんだよね。でかいウサギのぬいぐるみだったけど、肩に手を置かれて励まされてるような気がしたんだ。元気を出せよ、楽しめって。そのあとすぐにマスコットはいなくなったけど、不思議と元気が出てきてさ。体調もバッチリなんだわ。あれ、この感じは覚えがあるぞってさ。ずっと考えてたんだけど、さっきこのエメラルドに来たら閃いてね。あれは介二くんだって。それから妻の家族とも前よりは距離がぐっと近づいたんだ。行ってよかった」

「そのウサギちゃんと僕は同列ということですかね。だとしたら光栄です」

「似てるところはあると思う。うまく言えないけどね」

 中込さんは少し喋りすぎたことを恥じているようで、早速無料チケットとコインを交換して、バッティングマシーンに向かった。自分専用の金属バットを取り出して一番早い百三十キロの打席に着いく。すぐに小気味好い球を金属の打撃音が聞こえる。その姿は無駄がなくて、軽やかだった。小さい頃から慣れ親しむ無駄のないフォームと瞬間的なインパクト。打ち返すボールは全て同じ放物線を描く。その線は一流の画家が描く線。蓄積された雑念をかき集めてバットから球にのせて飛ばす。確かに天には届かないかもしれない、でも僕は心の平穏を授けてくれる。十分打ち込んだ中込さんは汗をぬぐい、颯爽と帰って行く。その足取りはしっかりしていて、背筋はピンと伸びている。春日部もあんな人がいる。いつの間にか騒いでいたバカップルはいなくなっていた。最初からいなかったように。古い自動販売機の低くてうるさいコンプレッサー音だけが店の中に響いた。

 時代小説を読むのには少し浮ついてる。激動期の幕末よりも、現代の目の前のことをフォーカスしたくなった。ボールの綺麗な放物線を見た後だからだろう。触発されたのか、今年初めて金属バットを持ち打席に入った。親は僕に野球選手になって欲しかったみたいだ。啓司兄は運動神経はからきしダメで、僕はまだ見込みがあったようだけど興味がなくてね。気がついたら、サッカーに夢中になっていた。そのサッカーも結局は高校の時、練習がきつくて辞めたんだ。野球は飽きてサッカーでもつまずいた。だが例え野球を一生懸命打ち込んでも、あんな綺麗な放物線はついに描けないだろう。何をするにでもその人が表される瞬間がある。バッティングはある程度経験者でしかわからないけど、打球に誠実さが表れている。

 五十球終えて、脇の筋肉がピクピクと張っている。明日は筋肉痛だぞと覚悟した。流石に座りっぱなしで、通勤でペダルを漕ぐだけじゃ運動不足なことは明確だ。少しお腹も出て来たし。僕も来年は三十路だから新陳代謝が少しずつ低下していく。死に向かっているということか。自分の死を考えると辛いと同時に、不思議とほんの少しだけ救われる気がする。

そこで強化ガラス越しに室内の方を見るとカウンターに昨日見た女の子が座っている。服装は昨日と似ていたが、胸にはDEFIANTという文字がプリントされてるシャツだけが違った。まさか本当に来るなんて。望んだことが本当になると受け入れられない自分がいる。

「ここは店員がゲームをやって、お客様をないがしろにする最低な店なんだね。本当にがっかりするし、どうしてここが潰れないのか不思議に思う」

「春日部七不思議ってやつだよ。どうしても潰れない店ってね」

「そんなでたらめどうでもいい。今の黙っててあげるから、あの球を打つゲームやらせてよ。じゃなかったらネットの掲示板で晒す」

「脅すなよ、しょうがないな、初めての女の子は貴重だから一度くらいは無料しないと」

 僕は気前よく無料チケットを渡した。贖罪と懺悔の気持ちが渦巻いていたが、可愛らしい女の子が一人で来てくれたことに感謝を表さないと。

 女の子はまだ若い。これは前も言ったけど、蛍光灯の明るい場所でみるとまるでお人形さんだ。白くて目がまんまる、綺麗な黒色は後ろで束ねられてる。何かの間違いでリカちゃん人形が人間らしさと魂を授かった。だからどこか人間離れしてる。歴史的瞬間だよ。人型のリカちゃん人形がエンターテイメント施設エメラルドに来てくれるなんて。

「お嬢さま、一番遅いスピードで挑戦しますか」

「私の名前は、ホタル。そんな差別的な言葉で私を呼ぶんだったら、あなたを留置所にぶち込んでもいい」

 いきなり何てことを言いやがる。穏やかだけど、鋭い棘がある。その棘はかえしがあり肉に食い込んで離れないだろう。慣れ親しんだ固有名詞を使ったところで、差別だと言われても困る。ホタルという名前はどうも怪しい。

「そんなつもりはないけどさ。ちなみにどうやって留置所に入れるの」

「私が犯されそうになったって警察に言う。強姦罪ってやつで」

「そんな馬鹿な話ってないよ。辛すぎる。でもここには至る所に防犯カメラもあるし、警察だって信じようがない。それで何キロを選ぶんだ」

「もちろん百三十キロに決まってるでしょ。私が女だからって打てないって思い込んでるけど、時代錯誤もはなはだしい。私の反射神経なら楽勝」

「ちなみに野球はやったことあるの」

「あるわけないでしょ。この金属の塊にだって初めて触るし」

「申し訳ないけど当たるわけない。運動神経どうのじゃなくて、無理なんだよ」

 背が百七十ある僕よりもひと回り小さいし、体だって華奢で棒みたいだ。ホタルは金属バットを剣道の竹刀のような持ち方をして、右バッターボックスに入った。つまりは右手を下にして左手を下にしてる。それを見て、僕は気の毒に思ったくらいだ。少し哀れにも見える。野球を甘く見やがって、小娘にはいい気味さ。現実は甘くなんかない。いきなり来て打てるわけないよ。ほら、ボールが到達した後に振ってる。予想通り。

 ピッチングマシーンからボールが発射されてから、打席に到達するまでコンマ五秒しかないんだよ。いくら反射神経がいいからって、どうなるもんじゃない。反復練習なしじゃね。スイングラインがよれよれだ。基本的に力がないんだよ。物怖じしない性格っていうのも考えもんだよな。物見遊山で足を突っ込むからいけないんだ。反省するのも悪くない。野球はまだまだ男のスポーツだぜ。だってプロだって男子しかないしさ、純然たる事実だろ。

 十球当振って、球とバットの距離はまだ三十センチは空いてるよ。全く見込みはない。あの毎日来るイチローに憧れてる野球少年よりも見込みがないよ。呆れちゃうね。

 次の十球はバッターボックスに佇んで動かない。当てるのが困難なんで放棄したのかもしれない。僕は一思いに、マシーンを止めてやろうかと思った。でもホタルは全く落胆の様子はなくて、放たれたボールを観察してる。諦めた様子はさらさらない。

 次の十球はバットを本職の持ち方に変えた。間違っていることを気がついたんだろうか。スイングの軌道は安定して、スピードは増した。バットに慣れたのか、それに球が来るタイミングとバットが振られるタイミングが合ってきた。それが数を追うことに精度を上げてる。ものすごい集中力だ。可愛らしいリカちゃん人形のような中身に怪物が入ってるかもしれない。皮一枚めくったらサイのような硬い皮が現れたりして。でも表面の皮一枚が重要だったりする。特に第一印象ではね。汗が吹き出し飛び散る姿のホタルはかけなしに美しかった。

 少しくらいぎこちないくらい何だっていうんだ。ホタル頑張れ。あれ、いつ間にか応援してるぞ。ついさっきまで失敗して後悔しろと念じていたのに。どういうことだ。わからないが、バットスイングは一球ごとに心踊るんだ。僕は突然豹変する男が嫌いだったが、これからは握手してあげよう。日本シリーズのクライマックスよりもワールドシーリーズよりも、今現在目の前で行われているホタルの驚異的な追い上げを応援してしまう。最後の五球まで来たときに、球にかすった。僕は思わずファールと叫んだ。他のお客がいなくてよかった。僕の声はきっと裏声で異常なほど大きかったはずだから。

 最後の三球を待たずして、バットの芯でとらえた球は左中間に飛んだ。中込さんの綺麗な放物線とはいかなかったけど、ポテンヒットにはなり得る品物だった。僕は最大級に感動したのと、自分を恥じだ。ホタルのポテンシャルを見くびり、バカにさえしていた。それがどうだ、やってのけやがった。ヒットとこれまた大声で叫ぶ。僕は少し狂乱していた。ホタルは最後の二球は放棄した。きっと当てたことの満足感か、それとも思いバットを振り回した疲労感なのか。でもホタルは漂白されたように白くなっていた。血の気が失せてる。

「馬鹿馬鹿しいゲーム。高校野球とかで青春を捧げる意味がわかんないよ。まあ、ストレス解消にはなるかもね。汗かいちゃった。あの看板に当てたかったんだけどな」

 質の良い運動は体にいとっても良い、それがうまく言ったなら尚更だ。自販機でコーラを買って、炭酸など気にせずに一気に飲み干す。気持ちよくげっぷをした。それも私に見せつけるようにした。乙女がやる行為ではない、そもそも上品なわけない。ホタルはリカちゃんで最高かもしれないけど、やはり同時に怪物を宿してる。完璧な人間などいない。それが人を惹きつける条件だったりしてる。狼の口に自ら散歩していく気分だ。僕はそのくだらないゲームの効能と野球の才能をクロスさせて、交わる地点を探っていたが、全てがあやふやなってくる。

 ホタルは一方的に、たわいのない話をした。ほんとんど韓流のアイドルグループと、知らないアメリカのティーンに人気の歌手のことを僕に熱心に進めた。僕がさっきのバッティングに感動したという間は挟めなかった。また夜明けを見たいのだという。夜道を一人では危ないんじゃないかと諭したが、私は夜の精霊なのと子供でも言わない冗談を言って、エメラルドを去った。外は月が出てる。

 閉店を終えて、初めて会った橋の上で、昨夜と同じようにもしかしているんじゃないだろうかと期待したが、そこには誰もいなかった。月の光が揺れて複雑に絡み合う水をただ静かに照らしてる。少しがっかりしたが、その流れる水の音に身をゆらゆらと任せて、残響が耳の奥底でこびり付いた。泳いだ後の耳の中に残った水のように。その日はちゃんと目覚ましを入れた。

 馬鹿みたいに暑い光線を発してせせ笑う太陽。寝ても覚めても耳元で鳴り止まないバッティングの金属音。自分の頭の中だけで繰り広げられる歴史スペクタクル。明けては暮れる同じルーティンの繰り返し。繰り返すだけの毎日に嫌気がさす。時代小説を読んでも身が入らない、もちろん受付の仕事はいつものことだけど身に入らない、美味しいステーキを食べに言っても駄目、映画のナイトショーを見ても駄目、アダルトビデを何本も借りてきて早送りで見ても気持ちが入らない。


 立て続けにホームランを告げる拍子抜けする電子音が流れる。元あった開店当時からある音声を啓司兄が改めてリミックスして作り出した、唾を吐きかけたくなるような福音。時間は夜の十二時近くで、今日は水曜日、小雨が降り続く、そんな時は誰だって家の中に居たい日だ。明日に備え、ベッドに入ってもいいだろう、それがエメラルドに来るというだけで、まず常識人や普通人じゃない。落第者、意思が弱い、負け犬、社会的弱者。偏見もここまでいくと気持ちいいだろ。でもここは、特に夜中はそういう人たちのためにある。シェルターだと思って貰っても構わない。エメラルドが犯罪を水際で防いでる。だから結局は大歓迎だってことだ。そしてこんなに立て続けにホームランの看板に当たられるのは山田くんだけ。山田くんの格好はいつもねずみ色の上下スエットだった。いつも同じ服を着ているねと尋ねたら、何着も同じスエットを揃えてると答えた。世界の著名な成功者たちは、毎日同じ服を着るという話を聞いて実践してるんだと豪語した。何でも服を選択する労力を避けて、本来使うべき仕事上での選択するエネルギーのために、取っておくんだと大きめのトーンで熱弁された。何もスエットじゃなくてもいいんじゃないか。伸ばし放題の髪は後ろでゴムで束ねて、髭も剃ってないので細長い顔は下半分は毛むくじゃら髭面で、まるで野武士のようだ。それに激しくバッティングをした後なので、野生的で精悍さが増してる。女の子が見たら嫌厭するかもしれない。僕が警察官なら職質をかけるか迷うような男だ。それでも大切なお客様だし、ここではヒーローだ。

「介二さん、立て続けに当てちゃったよ。確率的には一割近くまで上がってきたな。努力は人を裏切らない」

「山田くんは春日部のホームラン王になれるよ」

「はは、トロフィー貰えますかね」

「トロフィーどころか埼玉県知事から表彰状を貰えるレベルだよ。ただこの素晴らしさを知らない。一度でも山田くんのバッティングを見たら文句なんて言えないはずだよ」

「時々思う、もう俺も来年で二十五歳になるから。コンビニのバイトで貯めた金で、世界のバッティングをして回って見たいってさ」

 バッティングだけで世界を回るなんて、聞いたことない。野球をするならともかく、世界を股にかける職人のようなものだろうか。世界にもバッティングセンターはあるんだろうか。たかだか百三十キロスピードボールを打てたからって、誰がその素晴らしさをわかってくれるんだろうか。エメラルドの常連と僕と啓司兄しかいない。そりゃ、山田さんの見つめる未来が、見事に成就して欲くれたら僕だって嬉しいさ。考えられる限り可能性はゼロに近いが、全くのゼロじゃない。だって私のように惚れ惚れとその放物線の美しさを理解してくれる人もいる。その可能性に賭けもいい。ワクワクするし、体が高揚する。そうさ、世界の偉人たちはその可能性の壁を打ち破ってきたじゃないか。僕が第一号のファンになっても構わない。

「それほんとに最高だね。絶対に応援するよ」

「応援されるとは思ってなかったな。止めてほしくて介二さんに言ったのに。そんなば馬鹿な事はやめろってさ。きっと別の時間軸でなら可能だったかもしれないよ。パラレルワールドのような世界でさ。でも今の俺はほとんど全てを受験に捧げてきたから。浪人生活で一番堪えるのが何かわかりますか。彼女や友達や金がないのは仕方ない、損失が補いえない膨大で貴重な時間をう知ってる事なんです。受験勉強している間に人生の根幹を揺るがすような出来事に出会えたかもしれないって。例えば蜘蛛に刺されて体が変異してスーパーヒーローになるとか、世界を根幹を覆すようなスマートフォンのような文明の機器を発明するとか。考えられない事ですけど。それが頭によぎると、いても立ってもいられないときがある。足の先がムズムズする感覚っていうのかな。でも大学に受かれば全てが報われるはずです」

 山田くんの気持ちの飛び火するように心変わりする様は、正直言って胸糞悪かった。あの応援してあげようという健気な心を返して欲しい。バッティングセンターの受付なんて、損な役割だと思う。山田くんはまだ打ち足りないのか、幸福の余韻はもう過ぎ去ってしまったのか、またピッチングマシーンに足を向けた。僕は慌てて呼び止めた。それはエメラルドでは反逆罪に処される罰だ。ゲームを楽しむ前に邪魔されるのが一番ムカつく。それに利益にも反する。それでも質問しなければならない事があったのだ。本当はなぜ大学に受からないのかという足りない脳みそに聞きたかった。でもそれは堪えないと。この空間にいる間は、少なくとも、お客様の忠実なしもべだ。メンテナンスや接客の能力は足りないけど、そう心がけてる。心がけって大切だよ。

「あの光り輝くホームラン看板に当てるにはコツとか聞きたいんだ。この仕事をしてると、ゲームをしなくなる。興味をなくそうと意識的に切り離して、今じゃ完全に忘れてしまったんだ。だから教えてよ」

「必要がないものに、知恵を貸すのは間違ってますよ。エメラルドの従業員があの板に当てる必要はないじゃないですか。そもそも僕はあなたがここで働いてる必要性が見受けられない。それこそさっき言った時間の喪失だと思うけど」

 山田くんは怒っている。目は座り、地声は低い。その姿は髭面が相まってゾクゾクする狂気を纏っていた。大学生なんて勿体無い。アウトサイダーの仕事をさせたら、活躍できる。報われない世を恨んだ卑屈な顔して、金属バット持って、債務者の家に乗り込んでいく。または敵対的暴力集団の事務所に単独で乗り込む。きっとあのホームランを当てた後の恍惚とした表情ができるのに。

「カッカしないでくれよ。女の子にアドバイスためなんだ。その子が可愛いのなんのって。アドバイスでどうにななるかもしれない」

「そういうこと。全くゲスな話です。受験に受かるまで彼女を作るのを遠慮してる僕の身にもなってほしいな」

「何と言っても、山田くんが一番上手いからね」

 褒めるとまんざらでもない顔して、少し照れてた。一番という響きを気に入ったらしい。能天気な性格は天性だろう。じゃなかったら何年も受験を続けるわけないから

「フォームなんて二の次です。それはプロのやる事ですから。来る球をよく見極めて当てる角度を意識して、力の限りバットを振り抜くんです。あとは運任せだけど」

「そうだよね、そのまま伝えるよ。ありがとう。やっぱり山田くんは最高だね」

「そう言ってくれるのは介二さんだ。あぁ、言わないで去ろうとしたんだけど、介二さんには伝えときます。言いづらいんですけど」

「どうしたの、好きなだけ言ってよ。この店のホームランアーティストなんだからさ」

「来れそうもないんです。受験が近いんで、今年こそ失敗はしたくないんから。これ以上親に迷惑かけれない。予備校の費用だってバカにならないから。だから受かるまでは来ません。微分積分も完全にマスターするし、英語の接続詞もマスターする。だから来ることができないんです。ここはいつも僕を静かに迎え入れてくれた大切な場所ですよ」

 山田くんは震える声で話終えると、堰を切ったように泣き出した。大人にしてはみっともない泣き方だった。デパートで子供がおもちゃを買ってもらえなくて、いじけて泣いてるような。無様な涙を見て、気がついたら僕も泣いていた。共有された哀愁の思い出、彼がここまで腕を上げるために血の滲むような努力を知っている。場違いな男が目げすに懸命にバットを振り続けるのが、目に焼き付いてる。それは砂漠の中で目印もなくオアシスを探すようなものだ。彼はそのやっと見つけたエメラルドのオアシスさえも放棄しようとしてる。一時しのぎではなく、本当のオアシスを見つけるために、その逃避もやめるという。無性に寂しくて悲しかった。山田くんは目を腫らしながら、バッターボックスに立ち、涙を振りほどくようにバットを振った。


山田くんは有言実行で本当に来なかった。その他の常連もすっかり鳴りを潜めてる。九月はみんな忙しいのだろうか。そんなはずないけど、他にやる事が山ほどあるんだろう。優勢順位は必ずしも高くはないだろうから。くそ、来なきゃ来ないで、寂しいと感じるのは僕が傲慢だからか。いつかはみんなここから去って行く。それを理解していても、実際訪れると頭をもたれる。この虚しさを押し返す術を知らない。バッティングマシーンがボールを放つ音だけが鳴るこのエメラルドの空間にいると、自分のちっぽけな存在と巨大な世間との距離は永遠に縮まらない。少しは氷解したかと思ったんだけど。せめてふらっとホタルが来てくれたら。

僕は隙あればホタルをどこかで探している。いつもよりマウンテンバイクの通勤速度を緩める。出会った橋の真ん中でしばらく待って見たりしたが、収穫はなし。街灯に死にかけ蛾が一匹が何ども光めがけて飛んでいくのが見れた。厚いガラスに弾き返されるのに。僕も似てる。まるでそれを最初から自分が傷つくのを望んでるように飛び込んでいく。自分でも女に対してはさっぱりしていたと勘違いしていた、ストーカー気質ってことかな。ただ単にホタルが特異で男どもを全員もれなく虜にするのかもしれない。鱗粉を巻かれてかんんたんに理性が麻痺する。僕も山田くんのように現実的で本当のオアシスを探したほうが良いのだろうか。仕事帰りの橋の上で五分くらいかな、暗闇の見えないものを必死に見ようとしてる。

 それから少しばかり日が過ぎた。何度か死にかけたほどの猛暑はやっと後ずさりして、昼間でも空気が少しひんやりと冷える。季節は移りかわり、通勤上に植えられた青々としたイチョウの木は、その色を黄色く脱色を始めてる。夏に盛り上がりを活発に活動していた様々な虫や植物たちは、ひっそりと消えてしまう。店仕舞いをして、みんな何処か安全な所に移動したのか、それとも次世代に託して土に帰ったのか。生地がしっかりしたレインパーカーを着込むようになる。天気も安定してる自転車で走るにはうってつけの季節だ。この暑さと寒さの中間地点は僕を興奮させる。ペダルを漕いで、どこまでも行けそうな気がする。仕事が終わり、アパートに帰る際にどこまでもマウンテンバイクで走っている自分がいる。仕事は大して動いてないし、頭も使ってないけど、精神的には疲れてる。だからこそなんだと思うけど、自由を感じられる唯一の時間を満喫したいがために、アパートを遠回りして帰ってしまう。嫌なことを全て忘れるために激走する。

 僕はそういう風にわざと遠回りするのが好きなんだと思う。欠点は遠回りし過ぎて、目的地を忘れることだ。

最初からエメラルドで働いていたわけじゃない。都内の理系大学を卒業して、メーカー下請けの設計エンジニアだった。人生は順調だったし、受付で働いてる彼女までゲットする豪華なオマケまで付いていた。それが手痛いミスをして、会社に数千万の損害を与えた。車のパーツの寸法を数センチ間違えただけだが、既に何千個とパーツは作られて後になって分かったからだ。その代償は人生を狂わすには十分だった。大企業なら色々な人に平謝りして、土下座だけで済んだのかもしれない。でも中小企業の資本金が低い下請け企業には結構の痛手だった。決算に悪く響く親会社が乗り込んできて、大粛清が始まる。それで僕の居場所は無くなっていった。面と向かっては言わなかったが、早く辞めろという視線は常にあった。針の筵で、誰一人助け舟は出そうとしてくれなかった。窓際に行く手前で辞めた。会社を辞めたら、足並みを揃えるように、受付の彼女も僕を捨てた。使えなくなった電池を燃えないゴミにポイと捨てるようなものだ。無職の男と関わってる暇など一秒もないと、言わんばかりだ。都落ちするように実家の春日部に戻ってきたのは三年前の四月だ。その頃のことはよく思い出せない。記憶がすっぽり抜けてしまっている。両親や啓司兄は厄介者と見てるが、僕のことを暖かく見守ってくれる。

 季節を追うごとに風が冷たくなってきて、いつかの間の輝かしいサイクリング期間が終わろうとしている。その日は激しい秋の雨まで降って、自転車での通勤には最悪な組み合わせだった。レインパーカーでは防ぎきれない雨だ。いたるところから水が浸入してくる。狂犬病の犬とエイズに侵された猿が一緒にやって来たような最悪な気分だ。そんな日に限ってホタルは夜の十二時に現れた。その時は最近頻繁に来る若いサラリーマンがバットを持って、ボールを相手に暴れまわっていた。すでに僕は密かに会計処理を進めていたので、客が入って来るのを感じ取った時は、内診舌打ちした。

 ホタルが現れた時は、店にパッと晴れ間が覗いたけど、すぐに雲が覆った。彼氏らしき男が後からついてきたからだ。そういうことかよ。全くいたいけな三十歳の男の気持ちを弄びやがって。勝手にリカちゃんに思いを寄せていた残念な男かもしれないけど、いきなりこんな時間に来ることないじゃないか。いろいろ考えが巡ったが、しかし僕だって傷つくことを経験してきた。絶望は僕にとっていわば信用ならない友達だ。強烈な電気が走る一撃でさえ、僕は平常を装った。全く受付の仕事なんて損な役割だよ。

 ホタルは僕に一瞥もせず、彼氏らしき男とも終始誰とも視線を合わせない。あなたが人と目を合わせると石にでもなるっていうのか。良い加減にしろっての。彼氏らしき男は無地のシャツの上に、汚れ一つない黒革のジャケットとデニムパンツをオシャレに着こなす。胸ポケットには余計なカルバンクラインのサングラスが挟まっていた。切れたら怖そうな狂気な目をしてるのはすぐわかった。ここで働いているとわかることがある。こういう男に女は弱い。オシャレで刺激的で生気がみなぎる男には大抵の女は無条件で惹きつけられる。楽しいだろうし頼もしい。ただその彼氏は妙に浮かれていた。心ここに在らず。突然のサプライズに喜びを隠しきれないようだ。僕の方は散歩の途中で犬の乾燥した糞を踏んだ気分なんだけどな。

 彼氏が乱暴に二回ゲーム分の金を払ってメダルに交換した。選んだのはやはり百三十キロのピッチングマシンだった。側から見ると嫌味なくらいお似合いだ。オシャレな情報雑誌に載ってるカップル。彼らのような存在が理想を創作している。でもそれはあくまで誇張されたもので、理想ばかりに追い立てられる、現実はどこか歪で欠けてる。持つ者と持たざる者とも比較は意識しなくてもじわじわと晒し出される。彼らは人生を楽しんでる。それを祝えない僕は馬鹿なんだろう。馬鹿で結構だけどね。

 彼氏のバッティングは燦々たるもので見ちゃいられない。服をうまく来こなすのには長けても、運動神経はないようだ。イチローに憧れてる少年の方が十分見込みはある。それだけで少し心の平穏は訪れる。ざまーみろって思っちゃいけないことは店員の立場から暗黙のルール何だけど、心の中で簡単なガッツポーズをしたことは確かだ。

 前回のようなホタルの奇跡は起きない。一球も当たらなかった。大恥もいいところだけど、さすがに僕は彼氏に同情の念を抱いた。可哀想に。だって好きな女の前で無様な姿を晒すのは、どんなにかっこよくて金持ちの男でも耐えられないから。

 彼氏はいた堪れないようで恥ずかしそうだった。そこをどけて満を辞しての、ホタルが打席についた。これまでとは間違いなく一線を画す他を圧倒するオーラを放ってる。近寄りがたくて、尊くて、信じたくなる何か。金属バットの重量を支えるのは見るからにしんどそうだったけれど。

 奇跡はどこにも起きるわけない。でも目の前で起きてることはなんだ。僕らのテリトリーにはいない種族。選ばれた人が披露する動作。凡人にはたどり着けぬ境地。ロトシックスを目をつぶって数字を記入して、それが普通に当たってしまう。不公平だよな。

 五十球のうち三球バットの芯に当てた。実際の野球だったならば、その打球の行方は間違いなく内野の守備を抜けてヒットになるだろう。前のコツをつかんだようだ。自転車に乗れたら、それからずっと乗れるようになる。あれほど難しいと感じたマニュアル車の運転だって、出来るようになるんだ。小さい頃から野球を覚えさせたら、天才野球少女がいるとなって話題になっただろう。だがそうはならなかった。でもそれでよかった。透明な美しさを持った可憐なホタルは誕生してなかっただろうから。でもそう考えたら、どれほどの人の才能が地下に埋もれているんだろうか。

 言い争ったかと思ったらしばらく沈黙、張り詰めた空気、いつの間にか風がさらに猛威を振るっている。治る様子はない。頼りない建物が風圧で微妙に揺れる。帰りはマウンテンバイクで帰るのは余りにも無謀だろうか。それよりも目の前の仕事に集中しなければ。固唾を呑んで見守るというのは、部外者からしたら心臓に悪い。ホタルが出し抜けに僕のところに近寄ってくる。何だよ巻き込むなよと考えながら近寄ってきてくれて嬉しかったりして。でもやっぱり勘弁してほしい。

「あの男しつこいの。別れよっていうのに、聞かなくてさ。本当に男らしくないんだから。最低だよ。」

 男らしい条件を探ってみたかったが、今はそんな状況じゃんかった。成る程、別れようっていう話なら、男も必死になるのはわかる。ホタルと別れなきゃいけないんだから。それは惑星と惑星の衝突を意味する。ホタルは僕に寄り付き、都合のいい時だけ頼られる。彼氏が僕に襲いかかるように挑んで来た。やっぱり変なことに巻き込まれちゃったよ。逃げても構わなかったんだけど、やっぱりカッコつけたかった。それよりもエメラルド店員としての責任。全くそんな役回りだと思う、何一ついい事なんてないんだ。迫り来る彼氏を体で遮った。

「店内での大声や暴行を行うお客様には退店をお願いたしてます。女性に危害を加えようとしてるお客様には特に」

「何だお前は、どけよ、邪魔するんじゃねーよ。二人の問題なんだよ」

 確かに二人の問題だとは思うけど、このエメラルドで問題を起こした時点で二人の問題ではない。僕も強硬な態度に出ようとしたら、すぐさま胸倉を掴まれて、ものすごい剣幕で吠えられた。土佐犬の吠え方を彷彿とさせる。普段なら見えない所まで逃げ出すのが得策なんだろうけど、僕はいつも通り平然としていた。不思議とこの店にいると、恐れが半減する。別に何も守ってくれないし、補償もしてくれないっていうのに。

怒りのベクトルを僕に変えた。怒鳴り込んでくる客は初めてではないけど、胸倉をいきなり掴まれたのは初めてだ。彼氏は胸倉を掴む力はまるで別物、捻り潰される。こんなに力があるのにボールは当てられないんだなと少しおかしかった。

「何がおかしいだよ。今すぐに笑えなくしてやろうか」

 僕はヘラヘラしていた。まるで聞いちゃいない。危険な薬をやってるジャンキーのように、あまり知り合いにはなりたいとは思わない奴だ。その彼氏も僕のまた別な危険な香りを感じ取って少したじろいだ。でもホタルがいる手前、引くに引けないんだろう。さらに胸倉を掴む力を強めた。仕方ない、振り上げた拳の下げ方は、誰かを殴れば済む話だ。愚かなプライド。繰り返される悲劇と血の革命。僕は左の奥歯が虫歯になっていて、歯医者に行かなきゃ入れ歯になるんだぞと、啓司兄に口うるさく注意されていた。

「あぁ、そうだ、殴るなら左の頬にしてください。そうしてくれるとありがたいんです。うまくいくかもしれない」

 僕の思いがいけない申し出に激昂したようだ。すぐに太い拳が左頬に飛んでくる。避けようとしたら、避けられたかもしれない。それでも避けなかったのは、僕の出来る最低限の抵抗だった。少し煽ったのも事実だし。ここは屋根が邪魔して星は輝くことはないはずだけど、その時は間違いなく眩い星が輝いていた。脳が左右に揺れて、溺れてるみたいだ。呼吸を求めて地上を目指すけど、足掻けば足掻くほど体力が奪われて死に近づく。少し涙が出た。

そんな事になっても、溺れそうになっても、少し泣いても倒れなかったのは立派だったと思う。ホタルは悲鳴をあげて、彼氏はたじろいだ。だって僕は血を吐き出してもヘラヘラしていたから。そこでまた投げやりの一発が左頬に炸裂した。舌で血の鉄分を味わったのはいつ以来か。気持ち悪くて吐きそうだ。でも今度はそれほど痛くない。生命の危機を感じて感覚が鈍くなってる。口の中はベトベトで、笑うと歯は血で真っ赤だ。その大量の血を相手の真新しい無地のシャツに思いっきりぶちまけた。汚れることを知らないはずのシャツが細菌入りの血で汚れる。彼氏は素っ頓狂な叫び声をあげた。不潔そのもので耐えられなかったのか、それとも単に血を見て怯えたのかわからない。それは歴史的な快挙だった。普段絶対見せるこのない弱みが、この手であぶり出されたから。

 その後も何度か殴られたと思う。正直あんまり記憶がないんだ。記憶がぷつりぷつりと、断続的にしか記憶にない。継ぎ接ぎだらけのフィルムのようだ。

 後から聞いた話だけど、常連さんが入って来てくれて喧嘩の仲裁してくれたようだ。僕の怪我は思ったよりも酷かったようで、結局救急車に運ばれた。担架に乗せられて救急救命士に止血された。頭に物理的衝撃が加わった後の車内で聴くサイレンは普段とは違って、篭ってどこかいびつで歪んでる。そんな時に両親のことが頭をよぎる。生命がぐっと死に近づいたからだろう。きつく蓋をしていた壺が緩んでしまったようだ。両親がどこにもいない、やりきれない思いと悔しさ。二人が僕を見守る暖かい目。エメラルドに来る客を本当に愛していた。束の間の楽しさを提供する事に誇りを持っていた。僕はどうだ。何かを誰かに提供できてるだろうか。サイレンの音とその思考が混ざり合い僕は今にも魂が抜けそうだ。その度に掻き毟るようにその魂を押しとどめる。行ってはならない、まだやる事があるんだ。殴りたい奴もごまんといるし、エメラルドの常連を見守らないといけない。それは僕に与えられた唯一無二の使命なんじゃないのか。

殴られた方の虫歯は残ったままだった。口内の肉だけが避けて血だらけになっただけ。汚い血を吐き出しただけ。

 埼玉の病衣の救急救命センターにスムーズに運ばれたまでは良かった、担当してくれたのはエジプトからの留学研修医だった。他でダンプカー同士の交通事故があったようで、そっちの方が一刻を争う重体の患者が多かった。有能な外科医たちはそっちの方にかかりっきりで出払っていた。全くついてない時はとことんついてない。

おぼつかない腕で麻酔を打たれて、震える手で裂けた眉毛と頬と口の中の裂けた箇所を縫われた。強く脳を打ったからってMRI検査もやる羽目になった。もちろん僕のシワが少ない脳みそは傷一つない。最後に左半分を包帯でぐるぐる巻きにされた。この怪我は若いエジプト人研修医に自信を与える口実を作っただけ。最後は僕に吐き気のする満面の笑みを向けたから、ここで初めて自ら暴れてやろうかと考えたが、肝心要の体力がなかった。くそったれ。

 その後、若くて疲れ切った刑事が来て、詳しく事情聴取された。何度も同じこと聴きやがって、僕が悪くないことは明白だっていうのに。税金を欠かさず納めてる、善良すぎるほど小市民なんだから。終わり頃に、僕は警察に驚くべ話をした。表情には出さなかったが、目が丸くしてたのには笑えた。暴行罪に対する被害届は出さない。口を動かすのも痛みが走るのに、これ以上話すのは得策じゃないけど、これだけは言っておかなければ。警察はそうしますと加害者に対して、警察の方でも捜査ができなくなりますがと、念をおされたが、僕は何度聞かれても同じように答えた。その代わり加害者にはもう二度と店には来ないでくれと頼んでください。死んだって奴の顔は見たくない。もう一度でも奴の顔を拝んだら、真っ先に訴えて、人生をめちゃくちゃにしてやるってね。警官は参ったなと迷惑そうだ。面倒な奴に当たったと思ったんだろう。何度か携帯電話で上司らしき人としきりに密談して、最後はしぶしぶわかりました納得してくれた。どうぞ介二さんが一日でも早くご回復するのをお祈りします、正義は執行されるべきなんですという捨て台詞を吐いて、不満そうに頭をボリボリかきながら病院を去った。少しだけ僕の融通が通って嬉しい。

 病院の中は辛気臭いし、せめてベッドは個室が良かったんだけど、値段が高いの何のってさ。保険って大切だね。四人部屋で我慢するしかない。僕以外は年寄りで死にかけの病人ばかり。硬いベットに寝かされて、死臭漂う室内に閉じ込められた。顔は膨れ上がって、包帯でくるぐる巻きにされていた。それを笑う啓司兄は悪い男だ。きっと家庭のストレスを少しでもここで発散しようとしてるんだ。まだ人のことを嘲笑できるだけの感性を持ち合わせていたのは朗報だけど。あんまりだ。奥さんに尻を蹴られて同じように入院すればいいのに。残念だよ。

「我が誇りある弟、介二よ。お前は英雄だ。店始まって以来の快挙だよ。だって一発も返さなかったんだもんな。俺だったら金属バットで奴の頭を壊れたスイカのようにしてた。それにしても愉快」

「可愛い弟がこんなになってるっていうのに、何が快挙だよ。酷い事件に巻き込まれただけで、英雄視される覚えはないけどね」

「殴り返してたら間違いなくエメラルドは、創業始まっての苦境に陥っていた。例えどれだけ介二が正しくても、良からぬ噂話は回り回って大きくなる。暴力店員がいるってね」

 啓司兄はどうやら喧嘩に巻き込まれたことに怒ってはいないようだ。それが一番のネックだったんだ。なんて言ったって、怒ると仁王像のような顔で迫ってくる。それが何時間も続くんだぜ、最後の方は息をするのも嫌になるくらいに。

「ちなみに助けてくれたお客様は誰なの。大げさかもしれないけど、命の恩人だからお礼しないと」

「あぁ、ほらいただろ、あの冴えない浪人生。最近見なかったけど、偶然あんな時間に現れた。大活躍だったみたいだぞ。大声で威嚇して、あのふざけた金髪野郎を追い出して、介二の患部を冷やして、救急車を呼んだ」

 楽しい思い出も、後から改めて事実を知ったら、拍子抜けして、がっかりする事がある。驚いたマジックのタネは東急ハンズで売ってあるという事実。あれだけ大見得切って、受かるまでエメラルドには来ませんと言ったあの山田くんが、割と近いうちに戻ってくるとはね。大した玉だよ。まだ合格通内をもらえる時期でもないだろうに。それでもやっぱり感謝しなきゃいけない。なんて言ったって命の恩人であり、エメラルドが誇るホームランアーティストに変わりはない。もう一度あのホームランを当てる軌道を思い浮かべる。それはどんなプロのホームランよりも綺麗な軌道を描く。真っ白なキャンパスにダビンチが筆を持って、一筆描きで縁を描いたのと一緒だ。誰にも真似できない山田くん独自の繊細な総合芸術。それだけでも苦痛が和らいだ。

「そうだ、一緒にいた女の子はどうなった。リカちゃん人形見たいな可愛らしい子なんだけど」

「さぁ、何も聞いてないけど、救急車で運ばれた時にはすでにいなくなってたんじゃないか。その子に何か用があるのか」

「用は山ほどあるけど、いなくなってたなら、それでいいさ。傷ついたのが自分だけでよかった。被害者は最低限に限るよ」

「馬鹿なのは頭を打ったくらいじゃ治らんらしい。被害届は出さないんだって。何を言っても治らないけど、聞かないわけにはいかない。なぜ被害届を出さないんだ。そうすれば金髪の髪を丸坊主にするくらいはできるのに。エメラルドを思いはばかっての行動なら、おかとちがいも甚だしい。遠慮などしなくていいんだよ」

「まぁ、何でだろうな、自分でもよく分かんないんだけどさ。その方がしっくり来るんだよね。でも強いて一つだけ言えば、真っ赤な血を真新しいシャツにぶちまけてやったんだ。それでもういいかなってさ。その時の悲鳴ったら聞かせてあげたかったよ。」

「殴られて慰みをかけるのは正しいのかわからないが、一番の当事者が許すと言うなら、部外者は従うしかないわな」

 少しいじけたように、肩を落として帰って行った。思い通りにならないことを受け入れる。年齢を重ねることで知る諦めの境地が必要だ。子供みたいに泣きわめければどれだけいいだろう。もっと色々な事が思い通りになれば。寛容なんて馬鹿らしい、僕は少し変わってるだけだ。


 来てほしくない冬が本格的に訪れて、すっかり寒くなった。周りの畑達は稲を刈り取られて、見るも無残な根っこの残骸だけになる。毎年この景色を見ると寒々しい気分になる。つい二、三ヶ月前には実った稲が平原に広がっていたっていうのに。一斉にコンバインが溢れてあっと今に刈ってしまう。日常的に米を食う僕だけど、この景色を見ると。日本人は米ばかりを食うから、こんなことになるんだ。今季の役割を終えて来季の活躍を願う。エメラルドの街灯に集まる虫達もどこかに消えてしまった。生命の存在が希薄になる。この季節は動物のように冬眠してしまいたいと、いつも夢想する。もしくはガチガチの防寒着を着込んで、猫のように暖かいところでじっとしていたい。そうしてシベリア寒気団の襲来をやり過ごしたい。でもそれは叶わないんだ。僕には仕事がある。

人間は冬眠もしないし、働かないと衣食住に不便する。どうしたって生活するという現実は迫ってくる。なんて不便なんだと叫びたい。侵略者から守ってくれるのは、炬燵だけなのに。それなのに包帯が取れないなか、僕はエメラルドで店番をしてるんだぜ。人使いが荒いよ。すぐに退院できたから、落ち着く自分の部屋で静かに傷が癒えるまで休んでいようと、密かに企んで居たのに。啓司兄の子供が乗用車と交通事故を起こしてしまった。一時意識不明の重体に陥ったけど、外科医の腕が良かったのか、僕の祈りが通じたのか奇跡的に意識を取り戻した。それで子供思いの啓司兄は仕事どころではなくなった。必然的に仕事の比重が僕にのしかかって来たとう事。

 甥っ子のためならば、喜んで店に出続けるさ。寒気吹き荒れる日にマウンテンバイクで走るのだってやる。ピッチングマシーンの保守も覚えた。分厚い説明書を一通り見たから、まあ大丈夫だろう。油を差して、動かなければアームを蹴り上げれば問題ないだろ。馬車馬のように働いても構わない所存だ。種馬になり損ねた欲求不満なやせ馬と呼ばれるだろう。

 エメラルドに来れば、包帯男を思いっきりからかえると口コミが広がった。犯人は大学生になり損ねた男に違いないと踏んでるが、定かじゃない。噂を聞きつけた店を知る人たちがこぞって現れた。特に若いやんちゃなグループは事件の詳細を仕切りに知りたがった。話してやる代わりに、ゲームを一回分やると言う条件にしてやった。多分、一日だけなら春日部のマスコットにもなり得ていたかもしれない。保守的な老人たちは反対するだろうけど。見世物にされるのはこりごりだ。

 事件があってから初めてイチローに憧れる少年、賢治くんがエメラルドに訪れたが、不思議そうに僕を観察してる。ニューヨークヤンキースの帽子を被り、広島カープの赤いユニホームもどきを着ている。チグハグな感じはあるけど、純粋な野球を愛する少年を注意することはできない。そのセンスを直さない親が悪いんだから。疲れていたし、口の内側の傷が塞がったので抜糸したが、下手くそな研修医のおかげで、少しだけしこりの様に膨れ上がってる。その違和感に慣れてなくて、舌でしきりに撫でていた。慣れるまで不快でしかない。

「ねえ、ボールを遠くに飛ばすにはどうすればいいの」

 このしこりをいっそ抉ってしまいたい。純粋な目は僕の心を刺すようだ。みんながみんなボールを遠くに飛ばすことに執着しやがって。世の中はどこか歪んでる。もっとやらなくちゃいけないことがいっぱいあるはずなのに。目一杯飛ばしたところで、ネットに絡め取られて飛べないんだ。一次的な満足感しか与えられない。そんなことはみんなわかりきっているのに、それでもお客様はそれを追いかける。自分にとって価値があることが他人にとっては価値がない。

「遠くに飛ばすイメージと角度を意識して、早いスイングスピードで思いっきりバットに球に当てるんだ。憎たらしい奴を思い出して叩き込むんだ」

 僕は考えとは裏腹に、山田くんから教わった技術を実演を交えて教えようとした。だが賢治くんは取り立てて感心もしてないし、真面目に聞いてない。

「何だか今のお兄ちゃんって、アンパンマンみたいだね」

 出血大サービスで問いに答えたっていうのに、何だその落ち込むような指摘は。健気な子供は時に人をどん底に突き落とす。包帯が取れたのを喜んでいた矢先にこれだ。確かに腫れは引かなくて、まん丸の顔をしてた。顎の筋肉を動かす痛みに耐えかねて今だに固形物は避けてる。イチローに憧れる少年は好奇心旺盛でいて、僕を哀れんでいる。生意気なやつだ。

「出来れば顔の一部を分けたいよ。この膨らんだ白い肉をね」

「変なの。自分の顔を差し出すなんて馬鹿のする事だよ。どんどん取られて最後には首なしでしょ。クラスの金持ちだってみんなに分け与えるなんてことしないのに」

「自己犠牲の精神ってやつで、とても尊いものだよ」

「自分でなんとかすればいいんだ」

 まだ説得を試みたかったけど、日課のピッチングマシーンに急いで走って行ってしまった。受付という仕事についていなかったら、社会が許してくれるなら、僕はあの少年の頭を小突くだろう。そして何時間でも自己犠牲の精神の素晴らしさを叩き込む。何故そこまでするのかと言うと、昔の僕に少し似てるからだ。敬意を払えない人間は相手にされにくいから。誤解を受けにくい。気づいてからではもう遅い場合が多いのだ。人間形成が固まる前に教える事ができ来たなら。

イチローに憧れてる少年の父親がふらっと近寄ってきた。確か近くの八百屋の三代目社長なんだけど、とてもそうは見えない。黒縁メガネから覗いてる目は常に正しさを求めてる。きっちり七三分けにされた髪型、背筋もシャンとして、着てる服だって汚れひとつ無い。真新しいシャツに暖かそうなカシミアのセーターを着ていた。これでネクタイをしていたら、お役所に勤めていても違和感はないだろう。仕事柄、野菜の品質だけではなくて、旬なものや、形にもこだわる。だからなのか、店が汚れていたり、ピッチングマシーンの動きが悪いと、すぐに指摘してくる。お客さんが増えるように、明るい壁紙を貼ったほうがいいとか、照明をもっと明るくしたほうがいいとか、余計でありがたいアドバイスをくれる。売り上げに一番貢献してくれる大切なお客さんなことには代わりないので、いつもより丁寧に対応しなくてはいけない。

「しかし酷くやられたね。君もいい歳なんだから、落ち着かないといけないよ」

「そう思うですけどね、女の子に助けを求められたら、いいとこ見せないとっていう変な意識が働いて。カッコつけたかったんですよね。反省してます」

「男なんて、悲しい生き物だよ。女にいいように弄ばれる。うちの奥さんなんて、最初は優しくて器量がよかったのに。最近じゃ鬼王様のようになって、使いっ走りにされるよ。さっき賢治何か言ってなかった」

「賢治くんは、淡々とバットを振ってます。いつも通りですよ」

 強化ガラス越しに見る賢治くんのバットスイングはどこか頼りなげで、振り抜いたバットごと飛んで行ってしまいそうだ。バットを振ってるのかバットに振らされてるのかわからない。今までよりも下手になってる。がっかりする。

「あの子ね、埼玉県でも有名なリトルチームの入団テスト受けたんだけど、駄目だったんだよね。偉そうな監督が賢治の体つきを見て、プレーも見てないのに落としたんだ。あんなチームに入るくらいなら、野球を辞めた方がマシだ。マラソンをやっていた方が良い。介二くんもそう思わないか」

「本当に許せないな。プレーさえ見ないで決めるなんて、何様だって話ですよ。きっとろくな采配もできない、教育だってできやしない監督ですよ。入らないで正解ですよ」

「でも賢治は入りたかったみたいでさ。そのチームにいると甲子園常連校に入りやすいみたいなんだ。グランドや防護ネットの設備環境や親御さんたちの甲斐甲斐しい援助で完璧だし。そんなチームにプレーも見られずに落とされた。親としても気落ちしてるし、賢治もああやって普段通りにいるが、動揺してる。あんな気弱なバッティングじゃなかった」

 意見に同意したまでだけど、この人は一体僕に何を期待して、何を言って欲しいんだろう。言葉にして欲しいことを紙に印刷して予め渡してくれたら苦労なんてしないのに。確かにいつもよりは情けないバッティングをしてるが、許容範囲じゃないだろうか。汚れや、照明の明かりなどは、とやかくうるさく言ってくるのに、自分の息子となると違うらしい。色眼鏡で子供を見ると、期待をかけ過ぎてしまって子供は苦しむ。実力以上のものを出せって言われても、漫画じゃないんだ、うまくいくはずない。でも全く期待がないのもこれまた辛いものだ。しばらく僕は何も答えずに賢治くんを見守った。なんの変哲もないありふれた幸せ。エメラルドには親子の絆が再確認させてくれる場。雲を取り除いてくれる便利な装置なんだ。

「また今度、違う春日部のリトルチームで入部試験があるんだ。前に受けたところよりはグレードは落ちるけど、進学する中学の部活よりはレベルは高いし、監督はまだ若いけど熱意がある。チームの雰囲気も悪くない。それに何と言っても家が近いんだ。受かるのは五分五分だと思うんだけど、どうしたらいいかな。また落ちたりしたら、親子揃って立ち直れないかもしれない」

 切実な悩みだが、賢治くんがその試験に受かるとは思えない。そもそも運動神経が良くないし、動体視力が高くない。致命的というか向いてないっていうのか。鳶が鷹になれないのと同じだ。

 適当には答えられない。しばらく黙って下を向いてどうしたものかと困っていたら、あの間の抜けたホームラン音が耳に入ってきた。久々に聴かせてもらった気がする。唾をはきかけたくなる歓喜の音。信じられない話だけど、賢治くんがあの看板位当てたんだ。そんなことは富士山が噴火するとか都内で地割れが起きて何万の人々が地底に飲み込まれるとか、そんな次元だと思い込んでたんだけど。どこか別のレーンに山田がバッティングしてないか無意識に探していたがもちろんいるわけない。棺桶に足の先を突っ込んだ暇を持て余した老人がウロウロしているだけだ。僕はその唾をはきかけたくなる音に可能性を信じてみたくなった。どんなにふざけた事実でも、一欠片の可能性でも信じる権利は誰にだってある。

 賢治くんがプレーを終えて普通を装って戻ってきた。初めて当てたホームラン看板。本当は興奮して飛び上がりたいのを必死に抑えてる。可愛げがないとはこのことだ。先に車がある外に行ってると言って、走り去った。すぐに嬉しさの叫びを感情を爆発させる、やったーという声が外から漏れてきたのは外に出たすぐ後だ。

「やって見ればいいじゃないですか。失敗したって死ぬわけじゃないんだし。仮に試験を受けないで、その翌日に巨大惑星が飛んできたら、全てが消滅するんだとしたら、あぁ受ければよかったと後悔するかもしれないし」

「そうだね、死ぬわけじゃないんだしね」

 外は小雨が降って来たのに賢治くんはまだ飛び跳ねていた。人なんて単純だよな。


 十二月になったばかりの日に、開店と同時に両目に大きな青あざをつけて、ツルツル坊主頭になったホタルの元彼氏とその父親が現れた。菓子折りと分厚い封筒を携えてる。菓子折りの中身は利根川煎餅だった。なかなか食べれない逸品だ。それに封筒が添えられていた、この封筒は横にすると立つほどに分厚い。これもめったに見ることのできない、厚顔無恥な政治家が受け取る種類の贈り物だ。僕はいつから偉くなった。

 青あざはその父親が怒りの鉄拳制裁した痕だろう。坊主頭になったのはいうまでもない、謝罪の表れか、馬鹿馬鹿しい。父親は完全にコワモテ系で白い無地のスーツを着ていて、街で会ったら目線を合わないさないように心がけるタイプの人だ。止めてくださいと頼んでるのにその父親は、どうお詫びをしていいか申し訳ありませんとしきりに謝罪してくる。おでこを擦り付けて土下座を止めようとしなかった。僕は針のむしろ。それに元彼氏もみっともないくらい泣きながら謝って来た。謝ってるのだけど、しどろもどろで何を言ってるのかわからない。今日は寒いせいか顔の縫った箇所がピクピク痙攣する。僕だって我慢の限界はあるんだ。

 僕はどこか遠くを思い浮かべた。簡単な言うと現実逃避。遠くにたどり着いたのはカリブ海の透き通ったエメラルドグリーンの海。心の原始に存在する、誰にでもあるはずの海。その浜辺で歩く一人の女。僕はその女を強く思い浮かべる。きっと全てを変えてしまうような美女だから。遠い距離を走ってやっと追いつき、声をかけるとその顔はホタルそのままだった。結局現実逃避しても、エメラルドグリーンの海でさえ、現実は追いかけてくる。空腹は避けられないし、幸せになりたい願いは消えない。体形はかなり女らしくなって、週間青年雑誌に載ってるグラビアアイドルのようになっていたけど。

 現実に目を向ける。ほんの十秒そこらの逃避じゃ、さっきと変わらない光景が続いてた。こんな事なら被害届を提出すればよかったのかな。こんな情けない奴に殴られたかと思うと、それこそ腹が立った。それに警察の伝言を聞かなかったんだろうか。サディステックな感情が、幾重にも重なり合った理性の網目から溢れてきた。この人たちは他人を不幸にする事じゃ飽き足らず、自分たちの不幸を僕に埋め合わせができないと考えてるらしい。そんな事なら最初から大暴れするんじゃないよ。

「条件は一つだけですよ、今後二度と僕の前には現れないでください。それだけが被害者でもある僕の最大にして唯一の願いです。それとこの怪しげな封筒はお持ち帰りください。これが一番困るんです」

 本当は喉から手の出るくらい欲しいものだ。もっと頑丈で性能のいいマウンテンバイクを買い換えることもできるし、家のテレビだって五十インチの大型にサイズに変えることも可能だ。西川口まで行って体がもつまで何件も風俗店をはしごしてもいい。とにかく色々な欲望を超えてまで、自尊心を守りたかった。そうしなかったら、例え豪遊したって全然楽しくないんだもの。親父さんはゆっくりと土下座の姿勢を緩めて、胡座をかいた。一気に威圧感が増す。また殴られるんじゃないだろうかと覚悟したが、そうなったらそうなったらで仕方ないじゃないかと、僕も開き直った。何度だって血反吐を吹きかけてやる。

「息子は仕事もしないで遊んで暮らしていました。それもこれも私の教育が悪かった。好きなときに好きなだけ金を与えていたのが良くなかったんです。酒を覚えて、女を覚えて、買い与えてやった車でろくでもない仲間と毎日明け方まで遊んで暮らすようになりました。息子ももう二十歳です。それで今回の事件を起こしまして、痛切に責任を感じております。介二さんが被害届は出さないということで、何てありがたいんだと思ったりしたんですが、それじゃ余りにも申し訳ない。何か私たちで出来ることはないんですか」

「どんなにドラ息子だろうと僕にとっては関係のない話です。できることと言ったら、そうですね。この店の広報活動をお願いしますよ。もちろん僕のあずかり知らないところでお願いします。なんて言っても会いたくないんで。それと報告は一斉しなくてもいいです。期間は設けません。好きなときに初めて、好きな時期にやめてもらって構いません。自由にしてもらって構いません。それで馬鹿げた罪の意識が消えるならば、それで構いません。でもこんな怪しげな封筒を持ってくるならば、あなた方を許しません。以上です。出て行ってください。この菓子折りだけ貰っておきます。この煎餅は好きなんだ」

 親子同士目を見つめあって、何かを確認しあった。課題を与えてことが、どれほどこの親子に救いを与えられたのだろう。やたらとでかい声でありがとうございましたと言って、風のように去っていった。尻の穴にバットの先端を突っ込んでやろうか。ネットに備え付けられてるホームラン看板までバットをフルスイングで飛ばして、ぶち壊したい。店を閉めて大の字になってふて寝したい。僕が寛大な心を持つのは、地球に隕石が落ちて、人間が滅亡する日まで持てないのかもしれない。落ち込んで、やけ酒を飲みたかった。怒り狂うマスコット。曇り空の北風が猛威をふるっているのか建物が揺れる。気持ちが上向きになる話題なんて一つだってない。僕は受付業務を放棄して、一番遅い八十キロのマシーンを選び、バッティングに興じた。久々に打った球は描いていたイメージとは違うけど、僕のもやもやした気持ちが球に伝わって、火の出るようなライナー性の当たりを量産した。少しだけヒーローになった気分。そうやってまた今日を超えて行く。辛い日々を勘違いして、妄想してなんとか躱していく。心の平穏はまだはるか先だ。


 何事も効果が出るには時間がかかる。英語を喋れるようになるには駅前語学教室に通って何年か集中しなければならない、殆どの仕事を初めても先輩から信用されるようになり、頼られるようになるには五年はかかる。だけど僕の考えはもう遅い。今は見えないネットにつながり、世界のどこにいても、例え砂漠の真ん中にいたとしても、ネットに繋がってさえいれば情報は共有できる。それはすぐに効果が現れた。まるで僕のライナー性の当たりのように。

 店に来る客が目に見えて増えた。何かの間違いだと思った。午前中にこんなに人を見たのはいつ以来だろう。来るはずのないオシャレなベレー帽が似合うスタイリッシュなカップル、野球なんてやったことのない華奢な若者が来るようになった。そしてゲームを楽しんでいく。それが殆ど閉店まで続くんだ。こっちは人手不足で何とか店番をやってるわけだから、いつもより二倍労働を課せられた。冗談じゃねーよ、くそったれ。よく停止する百キロマシンをケツにキックして動かした。こんな姿を啓司兄に見られたら僕のケツにキックを入れられるだろう。ピッチングマシーンが球を放りながら、夢にまで見る。だけどそんな怒りも一日が終わると、やりきった歓喜が、静かな波のように染み渡る。健全なお店のあり方が突然やって来たようだ。

 近くで何かのイベントがあったのかもしれない、例えば近くのスーパーが今世紀最大のセールが始まったのかもしれないし、川で溺れかけていた少年をレスキュー隊が無事に助ける姿に野次馬たちが集まったもかもしれない。興奮冷めやまぬ何割かの人たちが、流れ込んで来るだけ。そういうことがたまたま続いたのかもしれない。だから店としても売り上げが上がるので、ラッキーだなとしか思わなかった。でもそれが一週間も続くとなると、いくら呑気な介二くんでも気がつきますよ。あの親子が暗躍していることは確かだ。憎たらしい親子の事など考えたくもないが、危険に身をさらすのも悪くない気がした。僕らは何一つ変わってないのに、周りは変わっていく。

この店は年中無休で金属バットが球を弾かない日はない。二人しかいない共同経営者の啓司兄は、今年いっぱい息子と一緒にいたいと懇願された。そうしたら断れるわけないだろ。この一ヶ月毎日出勤して、一日に十五時間近く働き、日に日にやせ衰えていく。ほとんどは座っているだけとはいえ、流石にきつい。僕に必要なのは長い睡眠と良質なタンパク質。もう三時間も寝させてくれたら、この目の隈も少しは消えるのに。三百グラムのカーボンステーキを食べられれば、この体のだるさも少しは消えるのに。それなのにお客様は来るんだから、皮肉としか言いようのない。僕はエメラルドの悪夢を体現させたマスコットだ。目が釣り上がり鋭さだけが増していく。子供がみたら逃げ出すだろう。大人が見たらそっと離れるだろう。サンタが見たらきっと哀れんで、子供にあげる予定だったぬいぐるみをそっと分けてくれるかもしれない。

その日は、連続勤務何日目だったか、二週間近く休んでないはずだ。外はみぞれが降り続いてる。全く通勤でえらい目にあった。道はぬかるんでるし、沿道を走る車から水しぶきで、雨ガッパを着込んでいたが隙間から浸水した。頭にきて、真っ赤なスポーツカータイプのレクサスが、僕に泥の混じった水しぶきをかけた車を本気で追い掛けた。顔が泥だらけだ。くそ。その綺麗なドアを蹴ってボディをへこませやりたかった。レクサスはものすごい早かったので当然追いつけるわけない。

昨日と同じ白いパーカーを着ていたが、それが匂いはまだ大丈夫だ。襟のところが少し汚れてるだけ。本当は着てくる予定じゃなかったんだ。朝起きたら、出発していなくちゃいけない時間だった。お得意の寝坊。時間がなくてタンスから洋服を取り出すのも面倒で、転がってる服を着たら昨日と同じ服だった。それも少し濡れてるときた。意識は朦朧としていたが、何とか現世に思いとどまっている状態だった。その姿はさながら地縛霊だなと自嘲したようにニヤッと笑うと、お客として来ていた小さい子供が不思議な生き物を見るように首をかしげる。今度は人々をいつも元気にする笑顔を向けたが、それを見るやいなや、泣きながら走ってバッティングに興じる父親の元に走っていった。少し落胆したが、しょうがないなとも思う。僕は無精髭が頰を覆っている。忙しさにかまけて、髭を剃るのを忘れてしまった。これには同世代の若者には一定の評価がけど、小学生の先生が危険視する大人たちのリストの特徴に僕は当てはまるようだ。目が窪んで無精髭で、卑屈に笑う。

それにしても今日はいつもより増して人が多い。どうしてこんなちっぽけな店に来るんだ。あの親子の広報活動を見積もっても、説明にならない。お客には失礼だけど、他にやることはないんだろうか。五台あるバッティングマシーンが全て埋まっていた。それも理想の家庭という題材の写真を撮っても何ら問題がない親子が楽しんでる。埼玉県の親子は定期的に、バッティングセンターに来なくてはいけないという条例でもできたんだろうか。幸福の形は様々あるけど、決して劇的ではないけど、淡い思い出に残る奇跡みたいな瞬間だ。それはだいたい後から気がつく。こんな生活がこのまま死ぬまで続くと思い込んでる。人間は楽観的事実を信じていたくなる。普遍的なものなど、どこにもない。だって両親はあっけなく亡くなったんだから。駄目だな。強制的な仕事中毒になりつつある。斜めにしか人を観察できない。誰がこんな人にしたんだ。自分でなっていったんのは重々承知だが、誰かのせいにしたい。頭がクラクラする。時々、殴られてから勝手に頭をシャウトされるみたいに揺れるんだ。強い地震が起きた地面の上に今立っている気分になる。実際には揺れてないが、そう感じる。二、三分だけど確かにそれは訪れる。そうなるとしばらく目をつぶって休むしかない。ほんの少し休めばまた元気を取り戻す。何事もなかったようにオナニーだって出来る。どこにもエロい要素がないから、今はやらないけど。くそ、全部は疲れのせいだ。全ての元凶は何だ。そうだ、あの明け方にあの橋でホタルと出会ってからだ。あの可愛らしい悪魔が僕の運命をほんの少しだけ曲げたんだ。もう会うことは叶わないだろう。それなのに思い出すたび、クスッと笑ってしまう。悔しいけどね。何年も接して来た学校の友達や、仕事をしていた元同僚のことを思い出さないのに、ホタルはそこらかしこに居る。こびりついてしばらく離れそうもない。例えばいきなり現れて、映画の話を永遠する。そして体を動かしたくなったら、その華奢な体からどうしてかバットを触れるんだと思うような、綺麗で中心が全く振れないスイングで球を打ち返す。ひと時汗をかいたら、自販機から買ったボルビックを飲んで椅子に座り、ぼんやりと太陽が沈んでいくのを眺める。その姿は神秘に包まれてる。もはや僕の中でのホタルは膨張し続ける、神々しい何かに変革を遂げている。完全に狂った悲しい男の妄想だけど、どんなに下手に焼いても牛肉のローステーキの肉汁は溢れて来る。僕の思考も止められないものわけない。

 夜の九時になるのに人の波が止まることはない。家族ずれから、カップルになった。カップルの祭典を催したつもりはないのに、どうしたわけか、とびきりお洒落をした男女が我がエンターテイメント施設を来店するんだろう。春日部のカップルはバッテングセンターを利用しないと別れてしまうというジンクスでも出来たんだろうか。

 脳みその活動は五パーセントしか動いてないだろう。必要最低限な活動能力しか動いていない。例えここで強盗が現れても僕は汚れたボールを投げつけることしかできない。ぼーっとして、時間の感覚が薄れていく。意識が遥か彼方に遠のいていくのを、一生懸命に引きとどめている。それは一進一退の戦いを続ける激しいものだ。睡眠ラインを反復横跳びしているように行ったり来たり。

断続的にお客さんが受付に来てゲームをやるためにコインと交換するのに対応したのは覚えてる。もしかしたら多めにコインを渡していたかもしれない。次瞬間には時間は十一時なっていた。まだお客さんは疎らだけどチラホラいた。中にはバッティングそっちのけでカップルが抱き合ってる。お互いがいの視野が狭いらしくて、周りの景色はないに等しいようだ。何しに来てるんだよと少しばかりの怒りを覚えた。ここは発展場じゃねーんだよと、どなりつけたかったが、そんな体力はなくて怒りで体を震わせて、鋭い目で睨む。それでもそのカップルは我関せず。僕は馬鹿らしくなって、虚脱感を覚えて、また椅子に座に深く座った。すぐに意識が遠のいていく。

次に時計を意識したのは午前一だった。その頃にはほとんど人は誰もいない。流石に眠ってしまったのかと思ったが、お会計はちゃんとしていたようだ。なくなったコインと増えてるお金が一致している。手慣れた動きを限りなく意識がなくてもこなしていた。

最後のお客様が店を出たのが午前二時三十分。最後のカップルは出ていくときはどこか険悪な雰囲気になっていた。ここに来ると本来の自分が垣間見れ流場合がある。特に野球未経験者にはうってつけだ。バッティングゲームを始めると誰にも頼れない。それは本当に小規模なサバイバルだ。人々を楽しませる施設なのにさ。

もう人が来るとは思えない。あと営業時間は三十分だし、ここでシャッターを閉めてもバチは当たらないはずだ。それでも真面目に店を開けておいた。それは僕の人生の中でも最大の成功だ。目をつぶってバットを振ったら特大ホームランを打ったのと等しいでしょ。

気がついたら、そこにはホタルいた。僕はうつらうつらで、頑張った甲斐があったのか今日はありがたい夢を見させてもらったと喜んだが、その皮膚や、髪の艶は余りにもリアルだった。その瞳は麗らかで淀んでいない。愚かな事だけど、それでもまだ夢だと信じていた。疲れ切った現世はほんのひと時でもさらばしたい。でもそれは叶わない夢だった。現実だったからだ。

「この店は、いつ来てもお客をないがしろにするんだね。三十分は目をつぶって動かないんだもの。すでに閉店時間だし」

 エアコンから暖かくて心地いい風が僕を通り抜ける。少しカビ臭かったけど、ちょうど良い温度で、眠るには完璧な環境だったんだ。睡眠ラインの境目がはっきりしなくなってきた。そこに冷たい指の感触、顔をつねられた。グリグリ回す陰湿で暴力的なもの。僕は何故だかうまく息が整えられなくて、呼吸困難になりそうだ。すぐに飛び起きたんだ。

「本当に助けてくれてなきゃ、顔にビンタ食らわしてるところだよ。早く起きろよ」

夢でもなく妄想でもなく怪物の類でもなく天使でもない。まごう事なき人間の女性だった。恥ずかしくて顔が熱くなると同時に頭は回転し始める。どうしてまたこんな時間に。もう来ないとばっかり思っていたのに。でもそれは僕が勝手に思っていただけだ。厚手の真っ赤なコートを着て、その中は真っ白な毛糸のワンピースだった。しかも薄くファンデーションを塗り目にはアイラインが入ってくっきりしてる。耳には銀のイヤリング。長い髪をイヤリングが見えるように掻き分けてる。頰の痛みを感じながら、思いついたことをそのまま口に出していた。

「パーティーにでも行ってきたの」

「あぁ、さっきまでアルバイトしてるケンタッキーフライドチキンの店員同士で飲んでたの。クラブに行った久しぶりだから面白かった」

「春日部にクラブがあったのは知らなかった。きっと死にほど楽しい場所なんだろうな」

「そんなわけないでしょ。バッティングセンターくらいしかない街なんだから。大宮まで遊びに行ったの」

「春日部にはクレヨンしんちゃんは言うまでもないけど、春日部温泉はあるし、イオンショッピングモールはあるし、利根川煎餅は美味しい。何よりバッティングセンターのエメラルドがある。言うほど何もないわけじゃない」

ムキになって娯楽施設をあげたのは、口では春日部をこき下ろしてもやっぱり頭の片隅では大切に思ってると言うことだ。だが少し大人気なかった。ホタルは途端に不機嫌になったから。目の鋭さは増して、見つめられるだけで切られたと錯覚する。それで完全に萎縮する。

「別に議論をするために、来たわけじゃないんだけど。あんなうるさい場所に何時間もいると、鼓膜がボロボロになるの。だから静かな場所に来たかったの。それにこの前のこと誤ってなかったし」

「いや、気を悪くしたなら申し訳ない。何時間でもいてくれて構わない。僕も付き合うからさ。なんて言ったってついさっきまで寝てたからピンピンしてるんだよね」

「この前はごめんなさい。巻き込むつもりはなかったの。別れるタイミングが欲しかったんだけど、中々なくてさ。あいつしつこくて。この店でなら、うまく行くかもしれないって試したんだけど、まさか暴れるなんて思ってもしなかった」

「いいさ、血を吹き出して、少しの間伝説になった。売り上げも上がったんだ。ちと客が来すぎることが問題ではあるけどね。忙しくてうたた寝するくらい」

 閉店時間が迫っていたけど、やり過ごすことにした。今のところ啓司兄はこないのだ。いわば僕が店の責任者代行なのだから、売り上げを持ち逃げする以外は大体のことは許されるはずだ。ホタルはしばらく黙って店の中をウロウロしていたが、意を決して僕に飛びついて来た。湿った汗の香りが鼻をついた。満面の笑顔の中に隠れた陰気な性の部分。僕はそのまま押し倒されて、長いキスをされた。いろいろな酒をブレンドしたような風味が口から伝わった。気持ち悪くなりそうなものだったが、その時の僕は完全に蕩けそうだ。頭が真っ白になるやつ。全くの予想外なサプライズで、心臓は最高に脈打ってる。眠気なんて一体どこにあったんだ。

「私ってお酒をとことん飲むと、セックスしたくなるの。精神的な厄介な病気かなって思ったこともあったけど、よくよく聞いてみるとそういう女の子って、結構いるんだよね。だからあんまり気にしないようにしてるんだけど。勘違いしないでね。誰とでもってわけじゃないんだから。私が認めるような男じゃなきゃ体は許さない」

 おもむろにホタルは服を脱ぎ出した。展開が早すぎる。完全に酔ってるな。

「そのお眼鏡にかなったことはありがたいけど。ここじゃ流石にまずくないかね。神聖な店内で」

「じゃあ止めてもいいの」

「認めてくれたのはどのタイミングなのかな」

「橋で声をかけてくれたときから」

「意外な答えだな。それはそうと少し時間をくれないか」

考えてる時間はない。だって女性を待たせるのは失礼だし、いつ気が変わるかもわからない。気分が乗っている間に、素早く行動しないと取り返しがつかなくなることは多々ある。女心は常に動いてるんだ。僕は腹を決めて、店内の扉に鍵をかけて、消灯のスイッチを押した。非常灯の明かりがちょうどよくてムードを盛り上げてくれる。軽くキスして丁重に服を脱がすと、脂肪という概念が消えてしまった痩せっぽちの体が現れた。それでも体からは暖かい血液が流れてる。少し暑すぎるくらいだ。ホタルは少し緊張していたが、お酒が回っているのか羞恥心が薄れて大胆だった。しばらく抱き合ってお互いの命の輝きを確かめ合う。生きているのを確かめるのは、こんな時くらいしかない。夢中になったよ。世界が加速していく音がきこえた。

セックスは久しぶりだったけど、うまくできたと思う。上に乗ったり、下から支えたり、二人の共同作業は順調だった。昨日と同じ白いパーカー下に敷いたとはいえ、店の硬い床でやったんだから大したものだ。多少の罪悪感はあったが、後悔はない。むしろその後支えになったくらいだから。

僕は何とか服を着て、半分眠っている。ホタルはさっさと服を着て、受付の椅子に座り、機嫌よく聞いたこともない明るい歌をハミングしてる。外はすでに明るくなり始めていた。また朝が始まる。寒くて地面には霜が走るほど寒い厳しい朝だ。その代わり景色が鮮明に見える。大気中の不純物が少ないからだ。普段は見えるはずのない雪で塗装した名前も知らない美しい山々。凍った土が太陽の弱々しい熱でゆっくり溶けて行く。鮮明で生き生きしていて、悲しい事なんて何もないような朝。昨日までの自分とは少しだけ違う。生まれ変わるなんて馬鹿でカルト的な思想じゃない。それが嬉しいとか悲しいとかそんなことじゃなくて、変化を素直に受け入れていくんだ。ホタルは長い歌のハミングにも飽きてきた頃、探るように僕を見つめた。起きてることを確認したんじゃない。後悔してないかを確かめたかったんだと思う。セックスしたことを。

「初めてあった朝に橋まで戻って正解だった。こんな楽しいとが起きるんだから」

「 今回は特別。タイミングと勢いって大切だよね。お酒とクラブの音楽がこ声導いたんだと思う。まあ私だってこんなことになるなんて考えもしなかった。でも男と女ってそういうことじゃない」

「理由なんてどうだっていいさ。事実が大切なんだから」

「でもさ、考えると介二があの時橋の上に来てくれなきゃ、本当に死んでたかもしれないんだ」

「あんなに暗い目をしていられるのは絶望が覆ってるからなんだ。どんな理由であれ、川の水に浸るのは汚いから、止めて正解だった」

「何で絶望がわかるの。ここで呑気に生きてる介二に何でそれがわかるの」

 何故かホタルは興奮していた。もしかしたら怒っていたのかもしれない。ももしかしたら心の中を覗かれたから。人の心の中を覗くのは危険な行為だ。でもそれをしないと本当の意味で親密になれない。

「なんとなくわかるんだ。危険な匂いがした。何としても止めなきゃいけないって。直感かな」

 ホタルは明らかに迷っていた。何かを伝えたいと強く願うのに、それをしてしまったら、もう後には戻れない。脆い砂の城を守ってるようだ。十分か二十分か、それくらいは待ったと思う。静かに喋り始めた。もう少し待ったら、重い空気に耐えられなくて、大学時代に一番かっこいいサッカー部の男は下半身の逸物の小ささに悩んでいて、海外からいつも増強剤を飲んでいたこと。そして現在ゲイバーのナンバーワンになっている話をしているという笑い話をするところだった。

「駄目、やっぱり今は話せそうにない。どうしても駄目なの。思い出そうとすると苦しくて胸が締め付けられる」

どうして楽しいセックスの後にこんなことになったのか。そもそも初めからこの辛い話をしたくてきたような節もある。だから酒を飲み、僕とセックスをした。誰にだって話したくもない過去はある。それと同時に、僅かだけど僕の話を聞いて欲しいという欲求もある。体を共有したからなのかもしれない。逡巡したが、深く目をつぶるとピカピカした白い光の点滅が現れ、それが増殖していく。僕はそれを止めようとしなかった、最後はある風景が現れた。そこでは木漏れ日の中の公園のベンチで両親が少し笑っている。ジャングルジムの天辺からの視点だ。遠く忘れていた幼少期の大切な記憶。どうして今それが出てきたのか。それが合図のような気がした。

「じゃあ僕が話していいかな」

「聞いたら罪に問われるような話じゃなきゃいいよ」

「三年前かな、死にたくなるようなショックな出来事が起きてさ。本当に沈んでしばらく絶望の淵を歩いたんだよね。当時の鏡に映った自分とホタルがたぶった。クマができて窪んだ光がない気の毒な目っていうのかな。失礼ながら、一番の理由はそれだ。今はそんな片鱗は微塵もないけど、確かに昔の自分を見たんだ」

「そのショックな事って何なの。話したくないのならいいけど」

「辛くなるかもしれないけど」

「いいよ。好きなだけ話して」

「前の仕事を辞めて、辛くて苦しい時期に実家に戻って精神的にも経済的にも支えてもらった。それで時期を見て、両親と三人で草津温泉に車で旅行に行ったんだ。いつになっても立ち直らない僕に対する慰安旅行みたいなものだった。その頃は完全に塞ぎ込んでたから。そんな親心を知りながら反発していた。旅館で些細な言い争いから始まって、最後の方はこうなったのはあんたらのせいだって喧嘩になってた。誰かのせいにしたかったんだろうな。あんたらは仕事ばかりで僕ら兄弟をほったらかしにした。何がエメラルドだ。あんなしょぼくれたバッティングセンターなんか流行りゃしないじゃないかってね。最悪だよな。それで親父から殴られてさ。殴られたのは初めてだった。起こるのは当たり前だよ。両親にとってこの店は宝物だったんだから。そんなこともわからない馬鹿者だった。でも殴った後の父親のとんでもないことをしてしまったという顔は忘れられない。大切にしてくれていたことなんて、わかりきってたのに」

「それで何が起きたの」

「頭にきてもう帰るって大口叩いて旅館を飛び出した。夜も遅かったけど、まだバスや電車は動いていたから。帰れる金くらいは持ってたし。草津駅から吾妻線の電車に乗って高崎まで行って、上越新幹線に乗って帰った。家についてから何件も携帯に着信があることがわかって、調べてみると兄貴からだった。両親の乗る車が上越自動車道で事故を起こした。僕を追って泊まる予定だった旅館を切り上げたんだ。車はダイハツの軽自動車だったから、後ろからきたダンプカーに飲み込まれるように押しつぶされて即死だった。ダンプカーの運転手は居眠りをして、押しつぶすまで気がつかなったらしい。それで」

早口で喋っていたのに僕は黙った。口角の筋肉が切れてしまったようだ。辛い思い出が蘇ってきて、身震いする。深淵の闇が嬉しそうに襲いかかってくるようだ。それから後は言葉が続かない。

「辛かったら話さなくてもいいんだよ」

「随分自分を責めたよ。これでもかってくらい自分を責めた。息をするのも辛いくらい苦しかった。悲しみの涙を流さない日はなかった。これ以上は堪えられなくて、自殺は何回も考えたさ。でもその度に兄貴が、啓司っていうんだけど、これが現れて僕を殴り飛ばして叱ってくれた。介二がいなくなったらどうすればいいんだって、掛け替えのない家族がなくなるのはもう沢山なんだと涙ながらに訴えてきてさ。こっちは鼻血と口を流血してるっていうのに。そんなことが何回か続いてさ。最後に言われたんだ。介二の方が親から可愛がってもらった。あんな事故に遭わなければ、ずっと介二のそばに居たかったはずだ。でもそれは叶わない。無念だけど、その分、お前は生きなくちゃいけないんじゃないのか。愛してもらった分を、他の誰かに返していかなくちゃいけないんじゃないのか。じゃなかったら、母親はこうも言っていた。お前ら兄弟は二人で一人前だって。二人でこそ輝く。そう言ってボロボロ泣くんだ。そんなこと言われたら、立ち上がる他になかった。つまらない話だったろ」

「そんなことない。話してくれてありがとう」

ホタルは僕に顔を押し付けて、子供のように泣いた。僕は急いで話したもんだから、疲労困憊だった。何が何だかわからない。誰かにこんな話したのは初めてだ。きつく蓋をしていた思い出を話したのに、泣かなかった。ホタルに涙を吸い取られるように、僕の目は乾いていた。

僕ら二人は完全に外から除外されている。二人の魂はこのエメラルドの中を絡みあいながら混彷徨う。全てをさらけ出せる勇気。難題からの撤退と後退。現状維持という停滞。完全に外は明るくなっている。冬のその鋭い朝日が僕たちを包んでいく。その細やかな温もりが傷の出血を塞ぐ。自分のことを許せないのは変わらないが、重い足かせを一つ外した気分だった。僕らは前に歩むことができるということだ。ホタルも同じ気持ちだったら、嬉しいけど。だってこんなに近くで触れ合っているんだから。

 しかしこの子はどれくらい涙を出せばいいんだ。僕の服がびしょ濡れになるまで、下手をすると床に水滴が張るまで泣き続けるのかもしれない。僕はそこで溺れるだろう。綺麗な涙の海で溺れるなら、悪くない。泣きたいなら泣けばいいし、泣き続けるならそれでいい。それで気持ちが晴れるなら。時計を見ると、時間よりも日にちが二十五日になっていることに初めて気がついた。時間感覚が地つづきだったから、分からなかった。昨日はクリスマスイブだったのか。だったら全てが納得できる。女が間違いを起こすもっともな日だから。

ホタルは散々泣いて、ふっと立ち上がり、私帰るねと言って、けろっとした顔で帰ってしまった。別れの挨拶もキスもなかった。拍子抜けで、何だか僕だけが損な役回りをしている気がする。袖には大きな涙の染み。店の扉に鍵をかけ、暖房をあげて非常用の毛布一枚を羽織り、外から見えない受付のカウンターの後ろで横になった

 よく安いドラマである、ハンカチにクロロホルムを染み込ませたものを、口に当てると意識を失うのに似ていたと思う。それは今ままでにない眠りで、どこにも行かないし、別の惑星にもいかない、自分の空間からは一切出ない、ただ安らぎを求めた眠りだった。


 額に痛みを覚えて、ゆっくりと瞼を開いた。喉はガラガラだし床が硬いので背中のあちこち痛いし、体は死んだように冷たい。慰め程度の毛布が一枚だけじゃ十二月の寒さは耐えきれん。暖房のおかげで何とか生き延びた。目の前には、仁王立ちした啓司兄がいた。これで何度めだろう。きっとこれからも何度も、同じように起こされるんだろう。兄弟の呪いみたいなものだな。これは本人に言えない。だってお尻にキックを食らうのは御免だから。ああ見えて、人をおもいっきり蹴るんだから。その時は額にデコピンで起こされた。

「中込さんから連絡があって来たら、これだよ。ここに泊まったのか、それも開店時間を過ぎてまで寝てるなんて、救いようのない奴だ」

店の入り口を見ると、中込さんが親指を立てて笑顔を向けてる。また中込さんに助けられたようだ。僕も調子に乗って親指を立てて返す。春日部の困った人を助けて回っているのかも。隣には初めて見る幼い子供がいた。親の足にしがみつき、僕を明らかに怖がっている。頭がまだ重い、時計を見ると十時三十分だった。

「今日は何曜日」

「日曜のクリスマスだよ、だから子供を連れて遊びに来てくださったのに、なんてざまだ。まだ昨日の売り上げを数えてもいないじゃないか。お客様は待ってるんだぞ」

「中込さんが来てくれて本当によかった」

 僕はむくっと起き上がり、まっすぐ中込さんに向かい、深いお辞儀をして感謝を述べた。まだ幼い子供には優しく握手をした。子供はおどおどしていたが、僕の手から体温が伝わり、少し笑った。中込さんは終始にこやかで、子供と一緒に遊べることが純粋に嬉しいようだ。それを見て僕も顔が綻ぶ。きっと兄貴もどこかの陰から見守る両親も顔がほころぶだろう。思い出の片隅にでもいいから、この楽しかった思い出を脳の深淵まで流し込んでいて欲しい。そうしたら僕も仕事をしている意味はあるだろう。

 

何事もなかったように兄弟で仕事に励んだ。啓司兄も僕の醜態をそれ以上責めなかったし、久しぶりの仕事で少しばかり生き生きしていた。長いこと店を休んでいたので僕に対して申し訳ないという心情があったことは確かだ。油まみれになってピッチングマシーンと格闘する啓司兄は様になっている。やっぱり可愛い我が子と一緒にいる時間も大切だが、仕事も大切な時間だということだ。おかげで、動きが遅いピッチングマシーンが生き返った。その日も死ぬほどお客さんが来てくれて、少しうんざりしたが、相変わらず僕は受付だけだったし、中込さん以外でも父親と子供の戯れを見ていると飽きなかった。昨日は見ているのも嫌だったのに。とにかく仕事の精が出るよになった。全ての汚くなったボールを丁寧に磨いて行く。新品とはいかなくても、バットで当てると白い球が飛んでいくのがわかるくらいには磨いた。骨の折れる仕事だったけど、心地い労働だった。昨日までとは違う一日。充実したっていったら大げさだけど、心の隙間にピューっと隙間風が差し込んでいたのに、その隙間にパテでコンクリートなようなものを埋め込んだ。それを埋め込んでくれたのはホタルであり、僕であり、兄貴であり、お客様であり、このエメラルドだろう。余裕ができたのだと思う。閉店までぶっ続けで働いたけど、眠くならない。お客は途絶える事はない。売り上げはうなぎのぼりだった。

「何をニコニコしてるんだ。気持ち悪いぞ。働き過ぎて、頭がおかしくなっちまったか」

「啓司兄、人がやる気になってるのに、何てこと言うんだい。いたってまともだよ。やっぱりクリスマスは素晴らしいね」

「明日から俺も働くよ。息子もだいぶ良くなったから。介二だけじゃ心許ないからな。しかしうちの店ってこんなに人が来るような店だっけ」

「奇跡はどこにだって起きるものだよ。どん底を見たんだから、これくらいの幸福は多めに見てもらえるさ」

「それもそうだな。それにしても介二の袖、すごい汚れてるぞ。シミが広がってる」

確かにパーカーの袖には薄くて黄色いシミが広がっていた。これは手強いシミで、クリーニング屋に持っていっても嫌厭されるだろう。だがこの涙なのか、嗚咽のよだれなのかわからない液体が乾燥して、出来上がった地図は何がっても消しちゃいけないシミのような気がした。こんな宝を捨てるわけない。

「そういえば、ここ来る途中、可愛らしい女を見なかったか。リカちゃん人形のような女」

「見てないよ。いたらすぐに伝えてるだろうから。ここに来た時に微かに栗の匂いがしたんだよね。まあ杞憂ならいいんだけど。もし神聖な仕事場を汚すのは絶対に許さないからな」

何もしてないのなら、こんな汚い店のどこが神聖な仕事場だよと突っ込んだところだが、冷や汗が流れた。勘付かれてるって事。まさかそんなことってあるのか。全てを見透かされているような気がする。感の鋭い男だ。そのままなんとか乗り切ったが、忘れていた疲れが一気に体に流れ込んできた。体がだるくて、このままもう一泊してしまうかもしれない。今日こそは自分のアパートに帰りたい。だって二日間風呂に入っていなかったから。試しに服の襟を鼻に近ずけると、微かにラム酒の匂いがした。


啓司兄が復帰して年を越してからは、客の足は通常通りになった。全くいつも通りだ。期間限定のセールみたいなものだったようだ。その代わり去年よりも同じ時期と比べたら、三割は売上がアップした。啓司兄はホクホク顔で、子供におもちゃを買ってあげられると浮かれていた。クリスマスと暮がいっぺんに来た。そうなると店全体の雰囲気が良くなったような気がした。もちろん前から居心地は悪くなかったが、空気がやわらかい。全ては終わりよければすべてよしということで、僕が散々殴られた事は、そういった良きことに吹き飛ばされてしまった。きっと今頃月の裏側まで飛ばされているだろう。どいつもこいつも楽しそうな顔しやがって、心配されると突き放して、ほっとかれると心配して欲しくなる。全く面倒な性格だ。

ホタルは週に二、三回エメラルドに遊びに来るようになった。ホタル本人はバッティングゲームをしに来てると言い張るが、ほとんどは僕と話してる。たわいも無い会話がほとんだったが、芸能の話、特に演技の話になると熱量がアップした。顔がほてり、唾を飛ばし、自分の思いのはけを僕にぶつける。そんなに好きなら、自分が演じて見たらどうだと問うと、いつも黙ってしまう。その困った顔が可愛らしくて、僕はわざと聞いてしまうんだ。

セックスはエメラルドでするのは止めた。仕事の後、一緒に僕のアパートに行き、そこで昼近くまで甘いひと時を過ごす。おかげで部屋を隅々まで掃除して、ベッドメイキングがうまくなった。肝心のセックスはまるでお互いを貪り合うように抱き合う。どう猛な肉食獣同士が、絡み合って食べ合う荒々しいものだ。大人しそうな二人がベッドに入ると豹変する。いつだって、一生懸命でお互いがの汗と隠部から発せられる生々しい香りが混ざり、息をするのも忘れるくらい。起きたら二人で締め切った部屋から漏れてくる光の粒子をぼんやりと眺めるんだ。そういう日々を過ごして、ホタルが僕の部屋に訳無く出入りするのに慣れてきた頃、ぼんやりとしたホタルが僕に聞いた。行為をした後に眠れるというのが、セックスのいいところなんだけどな。

「もし起きたら私たちが知り合ったことも、抱き合ったことも、あのエメラルドも消えてなくなっちゃうとしたら、介二どうする」

何処かの誰かが喋った言葉たち。その言葉を丸めて、火薬を詰め込み、大砲で宇宙に打ち上げたはずだったのに、月を一周して戻ってきた気分だ。流石に何も用意してないよ。僕は眠ったふりをして、答えを誤魔化した。それでもホタルの追求は止むことはなかった。仕方ない。

「なんで今そのことを答えなくちゃいけないんだ」

「今のうちに聞かなくちゃ、箱積みにされた問題が積み上がっていって、それがいつかは崩れて私を埋める。見渡す限りの箱済みにされた箱が並んでるの。そんなの嫌でしょ。だから少しずつ減らしてるの」

「現実からの飛躍が必要だから答えずらいな。何をいっても嘘っぱちに聞こえてしまうだろうし。実はさ、最近だけど、兄貴に聞いたことあるんだ。同じ様な質問。エメラルドがなくなったらどうするって。同じ様にしつこく質問して、困らせた。まさか同じ様に質問されるとは思わなかったな。兄貴はすぐに転職活動をするって言ってたけど。夢も希望もない話だ。あぁ、僕のことだよね。そうだな、何度考えても、まあ不本意ながらっていうのか、あんなに嫌なのに、悔しいっていうか、それでも同じ場所で同じ様に働きたいんだよね。ただ広い空き地になっていたら、また一から始めるかな」

「一から始めるってどうやって始めるの。機材やお金もないのに」

「そしたら、まずはバッティングピッチャーでもやって金を貯める。これでも野球少年だった。腕は鈍ってるけど、イチローに憧れてる少年達には通用すると思うんだ」

「分かった。私もう寝るね」

しつこく聞いてくるから一生懸命になって喋ったけど、そっけなかった。ホタルは肝心なことは何も話してくれなかった。でも話してると本当になんでも話してしまうところがある。僕だけが損をしている様な気がするが、嫌な気がしないのは僕でさえも他人に話さすことで、少し救われてるからだろう。

三月中旬、生命の泉がふつふつと湧き上がる季節。厳しい冬は過ぎ去った。冬め、ざまー見やがれ。僕たちは耐え切った。やっと熊が穴ぐらから這い出てくる。街路樹にはハナミズキの花が白くささやかに街を彩る。厳しい冬を越えて、これからはいいことしかないはずだと錯覚させる季節に、ホタルはアメリカに留学すると告げられた。ガランとしている店内で、今度上映されている動物ドキュメンタリー映画の内容を説明された後、突然告げてきた。だからと言って僕は狼狽しなかった。何となく彼女が遠くに行ってしまうのは、言葉に出さずとも感じ取れていた。アメリカ生活様式に異様に詳しかったし、映画で出てきたロケ地を訪れたいと願っていたし、海外で一人暮らしができればどれだけいいだろうという憧れを隠そうとしなかったから。起こって当たり前の事象。でも実際この耳で聴くと、ノストラダムス大予言が当たった気分だ。

最初から決まっていたような気がした。留学もセックスも、あのバカみたいな忙しさも殴られた痛みも。僕だけが知らないふりをしている。本当は気が付いてるのに。

それも一週間後だという。本当は早く言いたかったんだけど、言い出せなかったんだとさ。やけに早いじゃないか。留学に驚きはないけど、会えなくなると考えるだけで、やっぱり死ぬほど苦しい。胸が張り裂けちゃうくらい辛い。床に転がりながら、のたうちまわりたいくらいだ。でも僕はあまり考えないようにして、平静を装った。男の三割はプライドで出来上がってる。特に好きな女の子の前では。それに泣いて止めたってその決断を覆すことは難しそうだ。

「留学して何をしたいの」

「ハリウッドで芝居を教えてる学校に行くの。入学するのは夏になるけどね。あっちは夏から入学が始まるから。半年間はネイティブ英語を磨かないといけないの」

「ハリウッド女優になる決心はついたってことか。映画の話ばっかりしてるしね」

「私もそれは考えたけど、つまらないでしょ。クリエイティブな方が私には合ってる。監督になるんだ」

「はは、こいつは驚いた。だから映画を語るのが、監督側の視点だったのか。私ならあのシーンはこうするのにってさ」

「絶対バカにしないでよ。私なりに悩んで決めたことなんだから。でもどうしてもそれしか考えつかなった。だってつまらない映画ばかり見せられたんじゃ世界が不幸になるだけじゃない。だから私が作って世界を救うのよ」

「絶対バカにしない。むしろ誇りに思うよ。それにホタルが苦悩してるのを知ってるからさ。行く前から聞くのもおかしな話だけど、帰ってくる予定とかあるの」

「映画監督になってからね。でもそれだって、帰ってきたい時に帰ってくる。だって私は自由だから」

「留学費用は大丈夫なのか。金が掛かるだろ」

「私の親って結構金持ちなのよ。このエメラルドの売り上げほど稼いではないだろうけど、小さい貿易会社の取締役なんだからそこそこのお金はあるの。それに質素な生活してるし、私だってアルバイトして貯めたんだから。そんな心配をして、私に援助してくれるつもりだったの」

「援助して恩を売ろうと思ってさ」

「キモい、ロリコン親父みたい」

「じゃあしばらく会えないな」

「介二と離れるのは辛い。でもしょうがないのよ。こうするしかないの」

休暇が必要だと感じた。腹の底から、疲れが溜まっているのがわかるし、精神だって参ってる。すぐに啓司兄に連絡して、明日から三日間休みたいと申し込んだ。怒ってくるだろうと予想していたが、すんなり了承してくれた。なんで怒んないんだと問いただしたら、「介二にとって必要だと思うからだ」確かにそうだ、何を遠慮する必要があるんだろう。ホタルは僕の行動に戸惑ったままだった。

「草津温泉って好き」

「温泉は大好き」


 僕にしては行動が迅速だった。次の日にレンタカーを借りて、群馬の草津まで出発したら、昼頃には着いていた。とても快晴で、空が青くて近い。風は生暖かく、草木は緑の葉を伸ばし始める。最高の旅行日だった。運転は疲れたが、隣にホタルがいるから楽しい。ホタルはウキウキしていた。僕はそれ以上にウキウキしてる。どこかに遠出するというのは、久しぶりのようだった。それはもちろん僕だって同じだ。遠出をするなんて、最悪なことが起きた日以来だ。レンタカーはもちろんぶつかっても簡単に飛ばされる軽自動車じゃない。安定のプリウスだ。しかも燃費もいい。

あの頃と草津温泉の景色は変わっていない。消したい記憶ほど鮮明に覚えているものだ。違うのは雪がなくなっているということ。取り巻く硫黄の匂いは鼻を突くのは変わっていない。

予約の取れたのはこぢんまりとした古い旅館だ。草津温泉と言っても、その一番外れにあって周りは木々に囲まれてる。面から見る趣は決して最高とは言えない。もっと草津温泉の中心街の立派な旅館の方がよかったんだけど、急には予約が取れなかった。最初は失敗したと後悔したが、二階建てにあるこの建物では一番品の良い部屋に泊まれたのは来たのは運が良かった。平日だから僕ら以外に客がいない。旅館の人が行ってしまうと、物音一つしないもの。それはそれでどうなんだろ。それも二日間もね。働き手不足も相待って気のいい老夫婦が経営しているようだ。食事もまずまずだし、何と言っても露天風呂が最高で、草津温泉特有の白くて濁った湯に浸かって肌がすべすべになるの特別な気分になる。

 僕らが何をしていたかというと、観光もせずに飽きもせずセックスを繰り返した。老夫婦だって呆れるだろう。僕もホタルもそれを望んでいた。多分ね。最後の方はうんざりしていた可能性も否定できないけど。とにかく体力の続く限り求め合い。温もりを確かめ合う。こう言っちゃなんだけど、僕とホタルは相性が良かったんだ。そして硫黄臭い温泉に浸かるのだ。おかげでお互い肌はすべすべで触れているだけで気持ちいい。だから僕の腰は壊れなかった。体を温めて、コリをほぐしてから臨んだから。発情期の猿より酷いかもしれない。

 二日目の旅行最後の夜に僕は果てた。細いホタルはまだまだけろっとしていたけどね。これではしばらく筋肉痛になるだろう。腰は張ってるし、足は痙攣してる。僕自身がマウンテンバイクの通勤だけの運動じゃカバーしきれない。ホタルは浴衣を羽織り静かに窓際に近寄って、飽くことなく星空を見つめていた。春日部の汚れている空で決して観察することのできない綺麗な星たち。点と線を結べば、確かに図鑑で載っていた星座にたどり着く。どこかおとぎ話のようで信じられずにいたので、素直に感動した。

「星にも寿命があって、何億年っていう年月の間に中心核の水素がなくなると、最後は大爆発するんだよね。死ぬ瞬間こそ一番輝く」

「星に興味があるんだ」

「お兄ちゃんが好きだったの。それだけは覚えてる。あの無数にある星の中にお兄ちゃんがいるかもね」

「壮大でロマンチックな考えだね」

「バカにしないでよ。本当に信じてるんだから。みんなには言わないけど。最後の言葉でね。星になって見守るってさ。馬鹿なこと言わないでよって、今更子供じみたことだけど、時間が立つとね、それでもいいかなって」

お兄ちゃんがいたことも、別の世界に行ってしまったことは初耳だ。ホタルは本当に小出しにしか情報を与えない。それがホタルの苦悩に関わっていることは確かだ。詳しく知り得ないのは、悔しくて残念だ。それでも大切なことをなんでもペラペラ喋るのもどうかと思う。例えば僕のように。

「その星になったっていうお兄ちゃんに、会ってみたかったな。きっと気があうだろう」

「会っても合わないと思うな。まるで違ったから」

「例えば介二くんとホタルさんは違うだろ。違うということが、仲良くなれないというわけじゃない。ただ一点、繋がっているものがあれば、それで十分なんだよ」

「そうかもしれないけど、誰にもわからない。永遠に会えないもの」

しばらく黙っていた。でもそれは息の詰まるものじゃない。ふわふわした暖かい空気が辺りを漂うのがわかる。心に修復できない傷ができたなら、それを抱えて覆うように、愛情を注ぐしかない。それでもこのままじゃまずいだろう。

「そうだ、どんな映画を作りたいんだ」

必要な音量で喋ったはずなのに、最初無視されたのかと思った。映画監督になりたいから留学するのに、どんな映画を作りたいかわからないのかも。

「春日部に出来損ないのエメラルドってあるでしょ。あの田んぼに囲まれた寂れたバッティングセンター。都市伝説のようで誰も信じないかもしれないけど、確かにそこにある。そこに集まる気の毒な人たち。折れて汚れた翼しか持たない。それで苦労してるのに、まだ飛びたいと願ってる。そういう人たちの話を、撮ってみたい。それはみんなのためでもあるし、私のためでもあるから。うまく言えないけど」

「それって面白いのか」

「面白いに決まってるじゃない。介二みたいな人がいっぱい出てくるんだよ。見た後に疲れるかもしれないけど、面白くないわけない」

「何だかんだバカにされてるような、貶されているような。褒められているってことでいいかな。」

「あなたことは忘れないから」

言葉が詰まった、突然の別れとも言える申し出だ。正直言葉に何も答えず、暗闇に逃げ込んだ。対峙するのが恐ろしかった。妖怪よりも、幽霊よりも。だって大切になろうとしてるものが、また手の届かない場所に行くんだから。それでも静かにホタルは星の観察をやめて、僕に静かに体を寄り添った。僕は静かに目を瞑る。気まぐれな猫が弱ってる主人に寄り添うようだ。猫だと思ったホタルは光の物体に変わり、眩く発光する。次第に厚い壁が消えていく。消えることなかった、決して逃れることも乗り越えることも不可能な壁が消えていく。壁こそは僕そのもので、根幹だと思い込んでいた。他人を通してでしか自分のことを見つけることはできない。僕はぐっすり眠れた。

帰りの車の中は楽しくて、ラジオに流れ得てくる廃れた音楽を子供の合唱のように歌った。二人とも、とっても歌が下手くそで、音程も外れてる。でも楽しかった。


ホタルがアメリアに行く一日前だった。ちゃんと明日は成田空港まで見送る覚悟はある。午前中に出発する予定なので、少し仕事に遅れてしまうが、そこは啓司兄に了承済みだ。相変わらずブツブツ言っていたがけど。成田空港に行くと言って啓司兄は何かを感づいていたようだ。一方僕は勝手に空港のゲート前で僕らが抱き合う格好を頭の中でイメージしていた。全くご迷惑な想像だけど、御誂え向きの場面だ。どこかの航空会社のキャンペーン写真にだって使えないことはない。妄想は誰にだって自由であるべきだけど、一人歩きするのは良くない。だいたいうまくいかないからだ。

 前日は別れのイベントが待っているかと思うと、ものすごく寂しいし、軽い緊張をしていたので、仕事をしながら時代小説を読んでごまかしていた。もちろん仕事中に。幕末に活躍した長州、高杉晋作の破天荒さに心ときめかせる。緊張をごまかすつもりが、結構夢中で読んだ。仕事は二の次だった。いつもそうだ。だから大切なことを見逃す。そこにイチローに憧れる少年が現れた。貰いたての全く目新しいユニホームを着て、僕に見せびらかしている。このところ毎日この格好で一人で、買ってもらった自転車で来る。胸に春日部リトルチーム名がデカデカと縫ってあるユニホームで。自慢したくて仕方ないらしい。その態度がなんだか生意気でムカつく。神様は不器用な少年にチャンスを与えて、少年はそれを逃さなかった。テストを受けて、百本に一本しかない確率を引き寄せた。金属バットに当たった球は、宇宙まで飛んでいくような、豪快なバッティングを披露した。その父親から聞いた話だから、誇張はあるだろうけど、兎にも角にも受かったんだってさ。春日部のリトルリーグに。

そんな賢治くんが手紙を僕に手渡す。封筒にはいった宛名のない手紙。これはと賢治くんを問いただす。

「昨日ここを出たら、綺麗な女の人に頼まれたんだ。必ず今日介二さんに渡してくれって」

「それってもしかして、リカちゃん人形見たいな人じゃなかった」

「リカちゃん人形っていうより、猫みたいな人だったかな。その人しつこく今日渡してってうるさかった。じゃあね、ちゃんと渡したからね。全く変な頼まれごとしちゃったな」

「ありがとう、特別にコインを贈呈しよう」

三枚のコインを手渡すと、目を輝かして嬉しそうにバッティングマシーンの方に走り寄って行く。まだまだ子供だなと和やかな気持ちのままで過ごしたいが、この手紙がそうさせてくれない。不吉な予感だ。恐る恐る封筒の中身を出すと、便箋が入っていて、綺麗な丸文字がびっしり書き込んである。僕は歴史小説を放り出して便箋を震える手で読んだ。

 明日行く予定だったけど、今日行くことに決めました。そうしないと心が鈍りそうだから。ごめんね、わがままでばかりで。だから私は今頃太平洋の雲の上にいると思う。長いこと飛行機に乗るのって嫌いなんだ。耳が痛くなるし、座席で何時間も拘束されるかと思うと気が滅入る。でもハリウッドが待ってるし、行かなきゃね。

 ずっと言わなくちゃって考えてた。私だけ秘密を伝えないのは、不公平だし卑怯だから。それを手紙で伝えるのを許してほしい。言葉で伝えようとしたんだけど、どうしても駄目だった。頭が真っ白になって言葉が消えていくの。

 私には最愛の人がいた。それは去年の夏に亡くなったお兄ちゃん。もともと小さい頃から小児病棟で生活してたような体が弱い人だった。青白くて痩せてるくせに、いつも笑顔を絶やさない人だった。体調が良くなったり、悪くなったりの繰り返しでね。気が滅入ってもおかしくないのに、めげなかった。もしかしたらこのまま生き続けるのかもしれないって、考えたりもした。だけど二年前にステージ四の膵臓癌があることわかってね。運命には抗えない。それでもしぶとく図太く生きぬてやるって腹に決めてた。それは決して揺らぐことはなった。日に日に痩せて、腕だって棒見たくなっていくっていうのによ。担当医は亡くなった後、よく生きたくらいだって言うくらいだから、相当頑張ったんだと思う。

 兄弟で結ばれるなんて、世間的におかしいかもしれない。でも私たちにとってはとても、自然で普通だった。小さい頃に弱っちいくせにいじめっ子から助けてもらった。いつもどんな時も、私を応援してくれたの。だから、兄弟のままでいるなんて出来なかった。一緒になろうって約束したのに。亡くなるまであっという間だった。今でも信じられない。どこかで生きてるんじゃないかって、本気で考えてる。認めたくないだけなんだよね。

 でもね、亡くなってから、ふと考え込んでね。病気だったから、長生きしないってわかっていたから、可哀想で不憫だから愛し合ってたのかもしれないって。頭によぎったら、ダムが崩壊して洪水になるように止まらなくなったの。一人の人間を愛す純粋な気持ちが、風船に針を刺すように消滅して行くような気がして苦しかった。あの高校入学に祝いにセイコーの時計をプレゼントしてくれた嬉しい気持ちや、私の夢を何時間も聞いてくれた心温まる気持ちも消えてしまいそうで怖かった。

他のことは考えられない。好きな映画を一日見てたって、何も頭に入って来ない。甘いショートケーキを食べても、ただのスポンジを食べてるようで、味気ない。体はここにあるんだけど、上の空。朝がきて、そのことを考えて、気がついたら夜になってる。ベッドに入っても眠れない。このままずっとこうなら、いっそ。思う詰めてるときに、介二が声をかけてくれた。救ってくれた。介二とお兄ちゃんは比べるのが馬鹿らしいほど違うけど、私の話を聞いてくれて、夢が夢で終わらせちゃいけないんだと気がつかせてくれた。私って本当に何があったって、映画が好きなんだなって確認させてくれた。夢を語らせてくれた。だからこのままじゃ駄目なんだって。それから、考えが少し変わったの。お兄ちゃんとの記憶は曖昧だけど、確かに愛し合ったんだって。それは事実で、この地球が存在するくらい確かなことじゃない。だからたとえあたしが消えたって、それは事実なんだって。

 ちなみにバッティングセンターでのホームランを打ってから体の調子がいいんだ。生理も規則正しくするようになったし。馬鹿にしてばっかりいたけど、本当に感謝してる。

わがままな私をお許しください。次に会うときは有名になってるかもね。


 別れを告げられたのと、ホタルのお兄ちゃんと愛し合っていたこと、当分会えないんだなとわかると、僕は少しばかり抜け殻になった。しばらく放心状態で、全ての考えをシャットダウンするしかない。再起動をかけた頃には、賢治くんは二回目の百三十キロに挑戦していた。しばらく頭を休めて、便箋に書いてあった内容を飲み込むように努力した。怪しいと考えもしなかった。考えても見たら、思い当たる節は山ほど落ちていた。それを拾わんかった僕は馬鹿だ。もしくは見て見ぬ振りをしていたのかもしれない。僕のお得意の技だから。改めてホタルのお兄ちゃんに会って見たかったな。きっと何時間も話せただろう。だって好きな女が一緒だったんだから。気が合わないわけない。それでも少し嫉妬している自分がいる。身を焦がすような嫉妬だ。この現世にいないのなら、敵うはずもない。伝説となったわけだ。春日部の知らないホタルを知ってるはずだから。知り得てるのは、実際表層の一部分に過ぎなかった。秘密を知るのにも一苦労だ。胸がそわそわする。この苦しい気持ちをどうすればいい。僕はどこにもいけないのに。胸を何度か叩いた。

僕は便箋を大切にポケットにしまって、外に出た。少しくらい仕事を放棄したって差し支えない。だって今の所、賢治くんしかいないし、当たりもしないバッティングゲームに夢中なんだから。全く気の抜けるくらい天気が良くて、雲は遥か彼方に雲が点々と浮かんでいるだけだ。青々とした空を眺めてると気持ちが和むね。いつもは雲で隠れてることが多いからそう考えるんだろう。気まぐれの風が吹いて、雲を吹き飛ばしてくれるから、この青い空を清々しく思える。飛行機で旅立つには打って付けの日だ。太平洋と思われる方向の空に向けて微笑んでいた。軽く手も振ったりして。こんな日の空での旅はさぞかし快適だろう。ちっぽけな窓から見える海と街はキラキラと美しくあってほしい。宇宙飛行士が地球を見て美しいと感じるように。

情けないホームラン音が鳴り響く。賢治くんがまた当てたんだ。調子に乗って、ボールを当てる技術を習得しつつある。遅いけど進歩してるんだ。いつもなら、ため息を吐くようだけど、そのときは違った。美しいバラ色の音があるとすれば、この音しか考え付かないという音律だったんだ。使い古した音程が、悲しみをバラ色に塗り替える祝音に変わる。

 近くで餌を求めて動き回る可愛い雀たち。高層ビルの屋上でたむろする鳩たち。遠い海の地平線で圧倒的な数で生き物のように動くムクドリたち。そしてそのはるか先にはジェットエンジンで飛ぶ鉄の塊。僕から時速何百キロというスピードで遠ざかって行く。トラブルメーカーで、リカちゃんのように可愛らしい女の子。涙を流す予定は全くなかったのに、涙が溢れていた。空港で抱き合うなんてドラマの影響を受けた最悪な考えだった。ホタルは僕の何歩も見えない先を見据えてる。むしろこれで良かったんだ。涙が溢れ出て、止まらなかった。賢治くんがいつの間にか隣にいた。ホームラン板に当てたもんだから、褒められに来たのかもしれない。それで僕が泣いてたから、驚いていた。

「お兄ちゃんも泣くことあるんだね」

「ロボットだとでも思ってたのか。人並みに涙腺はあるんだよ。使うか使わないかは、状況によるけど。何より恥ずかしいから我慢してるだけなんだ」

「悲しいことでもあったの」

「そうだよ、大切な人と離れたんだ」

「手紙渡さない方がよかったかな」

「そんなことないよ」

「その人とまた会える」

「会えると思うよ。保証なんてどこにもないけど。ただそう信じる」

「僕もリトルリーグのテストで受かるなんて誰も信じてなかったけど、僕だけは信じてた。だから大丈夫だと思うよ」

「ありがとう」

「じゃあ僕帰るよ。遅くなっちゃった」

まさか賢治くんに慰めてもらうとは思っても見なかったが、涙が止まったことは確かだ。涙を流すとスッキリした。この青い空を堪能するにはもってこいの心境だ。その日は思ったよりもお客さんが来なかった。僕にはありがたかった。何故なら目が腫れてたからね。


それからは平和なものだった。啓司兄は相変わらず太って行くし、その妻は相変わらず僕のことを嫌っていたし、昨日と今日の区別もつかないくらい同じような日が続いて行く。代わり映えのしない毎日を享受するのは、前に戻っただけなんだけど、僕はエメラルドに訪れる客に親切になっていた。別にこれ以上客にきて欲しいわけじゃない。忙しいのは嫌だし、相変わらずメンテナンス能力は低い。でもここにいる間だけでも、現世のしがらみを忘れてもらいたく、精進するようになっていた。きっと手紙のせいだ。ホタルの影響が大きい。まるで退屈だけどね。

 そうだ、事件らしい事件といえば一つだけある、うちのホームランアーティストである山田寛治くんが海外に留学したことだ。全くぶっ飛んだ奴だ。大学受験に挑んだ結果、念願叶って希望の大学を受かったらしい。エメラルドに来ることを止めてまで、受験勉強の必死の追い上げが効いたのかもしれない。本気になったら、何だってできる子なんだ。だってあんなに美しいバッティングを披露できるんだから。でも受かった途端、別の夢が目の前にちらついて消えない。自分が何を求めてるか熟考して、やっと気がついたようだ、改めてバッティングを通して、世界を広げたいと。親の嘆きなど、聴きに及ばず、我が道を行く。親をなんとか説得して、アメリカのアリゾナにある大学にスポーツマネジメンを学びに行くようだ。そこで学んでホームランの商業化を目指すと本気で言ってた。僕は聞いていて、感心したし、とんでもないモンスターを世に放してしまった何にせよ、あのバッティングと打球の行方、放物線が永遠とまではいかないけど、当分の間見れないのは損失だ。このエメラルドで生まれた傑作がアメリカで飛躍してくれるのは、僕にとっての歓喜だ。

勘違いしないでもらいたいのは、ホタルとは完全に終わったわけではないということだ。文明の機器が僕らを毎日繋いでくれてる。メールやスカイプで連絡を取り合っていた。ほとんどはホタルの留学での身の上話に付き合ってるだけだった。僕の話を差し込む余地はない。僕もホタルも時差の関係で話せる時間は限られていたから余計だ。そりゃ物凄いマシンガントークで、僕は頷くに終始する。こちらに来てよく聞く単語はファックだとか、セレブばかりの街でたまにぶっ飛ばしたくなるなど。まるで僕は記録係だ。アメリカのハリウッドにすぐに馴染んだようだ。お金は限りなく仕送りされてきたし、何と言っても憧れていたハリウッドの地で、映画撮影のイロハを学べるなんて、それこそ生きてるのに夢中なんだ。

空いてる時間を利用して、近くの少年野球チームのコーチをすることになった。僕がエメラルドで勝手にバッティングゲームをしていたのを、不覚にもお客に見られたのだ。それが人づてに弱小野球少年チームに伝わり、僕にオファーがあった。そんなのものには関わっている時間と余裕はないと、お断りするんだけど、僕はその話を快諾した。気候のせいか、最近の諸々の出来事が、僕を突き動かした。その一歩ということだ。今は密かに野球ノックの練習をしている。これが全然うまくいかないんだ。中込さんに頭を下げて、バッティングゲームのコインという賄賂を渡して、教えを請う。それは新たな発見の連続で、刺激になる。まだ会ったこともない野球少年たちを考えると、爽快な気分になれる。離れていた世間との距離は少しだけ氷解した。やっと僕は自分を許そうとしたのだと思う。重い一歩を前に進めたのだ。


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