究極のひと皿
エンリックは、煮立った鍋に乾燥させた香草をぱらぱらと振りまいた。次いで岩塩の塊を取り出し、ナイフの背でがりがりと削って、少量を鍋の中に落とし込む。
木の柄杓で掬って、スープの味を確かめる。
「ちょっと薄味ですが‥‥いいでしょう」
独り言をつぶやきながら、エンリックは焚き火の中から数本の枝を引っ張り出して、火力を弱めた。
「さて、あとはイケムが何を仕留めてきてくれるかですが‥‥」
エンリックは倒木に腰を下ろすと、あたりを見回した。周囲は深い森である。腕のいい猟師でもあるイケムならば、小動物程度なら何匹でも捕らえられるはずだ。
かなり赤みを増した太陽は、その下端を森の木々に触れさせそうなところまで降りてきている。ひんやりとした風が、焚き火から白い灰を吹き散らしてゆく。
「いいですねえ、森は」
スープをぼんやりとかき混ぜながら、エンリックがつぶやく。地味な灰色のローブと、首から下げた銀色の女神像。典型的な、神官のスタイルだ。青年と呼ぶには抵抗があるが、さりとて中年と呼ぶには気の毒。そんな年頃の男である。
「待たせたな」
無愛想な一言と共に、眼光鋭い細身の青年が森の中から現れた。右手に弓、背中には矢筒。腰に下げた網袋からは、羽毛がはみ出ている。
「来た来た。本日の主菜の登場ですね」
立ち上がったエンリックは、イケムから網袋を受け取った。
「おお。雷鳥ではないですか。それも三羽も。これはご馳走だ」
さっそく、エンリックは風下で羽根をむしり始めた。
「皆は、まだ帰ってこないのか?」
隣で別の雷鳥の羽根をむしりながら、イケムが訊く。
「まだです。‥‥ということは、かなり有望ってことですね」
嬉しそうに、エンリック。
彼らの職業は探索者。‥‥古代魔導帝国時代の遺跡を探索し、有用なものを回収することを生業とする者たちである。他の三人の仲間は、遺跡があると推定される場所に先行偵察に行って留守である。もしそこが遺跡でないならば、とっくに帰ってきているはずだ。時間が掛かっているということは、じっくり調べるだけの価値がある遺跡だという証左に他ならない。
「間違いないわ。それに、荒らされた形跡もなかったし」
スープを上品にすすりながら、黒髪の女魔導師が言う。
「たぶん、帝国時代の貴族か官吏の別宅だろう。剣呑な魔導生物なんかは、いないはずだ。獣の入り込んだ跡もない。俺が活躍する場は、なさそうだな」
一応この五人組のリーダー格である大柄な戦士が、ローストした雷鳥にかぶりつきながら説明する。
「アイトールの出番がない遺跡は、いい遺跡だ」
ぼそりと、イケムが言う。
「お前は本当に戦いが嫌いだな」
にやにや笑いながら、大柄な戦士‥‥アイトールが、言う。
「無駄が嫌いなだけだ。戦わずに済めば、それにこしたことはない」
固焼きパンをかじりつつ、イケムが応じる。
「で、どのくらい有望な遺跡なんですか、シスフィーナさん」
エンリックは、黒髪の女魔導師に訊いた。
「それがねえ、結構内部は破壊されちゃってるのよ」
シスフィーナが、肩をすくめる。
古代魔導帝国は、わずか一日で滅んだと言われる。その時に発生した謎の大災害によって、数百といわれる帝国の都市はすべて壊滅した。都市以外の村落や、郊外にあった建物もその多くが破壊され、内部の調度や物品もほとんどが損なわれている。その中からまだ使えるもの、芸術的に価値のあるもの、好事家によって収集されているものなど探し出して回収するのが、探索者の仕事である。
「一応、入り口のあたりはメルに調べてもらったんだけど‥‥」
シスフィーナが、五人目の仲間‥‥金色の髪を少年のように短く刈った小柄な少女‥‥に水を向ける。
「うん。あたしだけ、ちょっと入って見たんだけどさぁ」
メルが、言う。あまり知性を感じさせない喋り方だ。
「かなり壊れてたよ。あんまり、期待しない方がいいかもね」
「そうですか」
エンリックは唸った。この五人組の財産管理も、彼の仕事である。前回の探索は、赤字であった。諸経費が、回収した物品の売却額を上回ったのである。今回はなんとか儲けをひねり出さねばならない。
「ご馳走様」
シスフィーナが、早々と食事を終えた。
「おい、まだ雷鳥が残ってるぞ」
アイトールが、木の皿を指差す。
「もうお腹いっぱいよ。良かったら、食べて」
応えながら、シスフィーナが立ち上がる。
「シス姉さん、また節食?」
メルが、訊く。途端に、シスフィーナの色白の顔がピンクに染まった。逃げるように、焚き火のそばから離れる。
「‥‥いつも思うが、お前の脳内には繊細とか気を遣うとかいう単語は存在しないんだろうな」
アイトールが、唸る。
「うん。難しい言葉は知らないよ」
雷鳥のローストをかじりながら、メル。
ほどなく、残りの四人も食事を終えた。
「さあ、食後にはやっぱり甘いもの〜」
メルが、自分の荷物から陶器の壷を取り出す。蓋を取ると、甘い匂いが広がった。
蜂蜜である。
「ん〜おいしい。‥‥食べる?」
メルが、蜂蜜がべったりとついた指をエンリックに突き出す。
「‥‥甘いものは苦手だって前から言ってるじゃないですか」
エンリックは苦笑した。
「イケムは?」
「‥‥甘いものなど食べなくても人は生きてゆける。甘味など、無駄の極みだ」
不機嫌そうな表情で、イケム。
アイトールは、薦められる前にさっさと立ち上がってしまっている。エンリック同様、左党なので甘いものは嫌いなのだ。
「シスお姉さ〜ん。蜂蜜、舐める?」
メルがシスフィーナを呼ぶ。返ってきたのは、蜂蜜すら凍りそうな冷たい視線だけだった。もちろん、そんな視線で悪びれるようなメルではない。
「こ〜んなにおいしいのに」
ぱくり、と自分の指をくわえて、メルがつぶやく。
翌早朝から、五人の探索者は遺跡の踏査を開始した。
破壊の状況は、推測通りひどいものであった。建物自体はまだしっかりしているようだが、内部は凄まじい壊れようだ。床は腐った木片や割れた陶器、ガラスの破片などで埋め尽くされている。家具の類は壊れ、あるいは砕け、使い物になるものはひとつも残っていなかった。
「まともなガラス一枚だけでも、いいんだけどねぇ」
シスフィーナが、ぼやく。ゆがみの少ないガラス板を作る技術は失われているから、比較的大きなガラスを回収できれば、それなりの価格で売れるのだ。
「どうやら、今回の探索は無駄に終わったようだな」
イケムが不機嫌そうに言う。
「どうしてお前はそこまで悲観的なんだ‥‥と言いたいところだが、今度ばかりはイケムに同調せざるを得んな」
アイトールが、腕を組む。
「困りましたねえ」
エンリックは頭を掻いた。色ガラスの破片を拾ったり、無事な彩色タイルを剥がしたりして持って帰れば、幾許かのお金には替えられるが、それでも探索中の食費すら賄えないだろう。
「ひゃっほう。み〜つけた!」
いきなり、メルが素っ頓狂な声をあげた。
「何があった?」
すかさず、アイトールが駆け寄る。
「地下室への隠し扉だよ」
メルが、短剣の鞘で床のゴミを払った。次いで短剣を抜き、刃を床に滑らせる。床の一部が、わずかに持ち上がった。
アイトールが手を貸す。床板が外れ、ひと一人通れるくらいの開口部が姿を現した。階段が、暗がりの中へと続いている。
「暗いね。シス姉さん、明かりちょうだい」
「任せて」
シスフィーナが、呪文を唱えた。魔導の明かりが、メルが手にした短剣に点る。‥‥古代魔導帝国時代ならば、子供でもできたはずの簡単な魔導である。それが今では、何年も修行したごく一部の魔導師にしか使いこなせない難しい術になっている。
「行くよっ!」
メルが、階段を降り始めた。次に戦士であるアイトールが続き、そのあとに戦士としての素養もあり、治癒の魔導を使えるエンリック、攻撃的な魔導を得意とするシスフィーナ、最後に戦士としても有能なイケムというのが、この五人組の標準的な隊列である。
暗がりの奥には何があるのか‥‥。
呪文をいつでも唱えられるように心構えるとともに、腰の短剣の柄に手を掛けながら、エンリックはアイトールの大きな背中の後に続いた。
「で、見つかったのはこれだけなのか」
アイトールが、一枚の皿をメルの手から取り上げた。
地下室は狭かった。ワインかなにかの貯蔵庫に使われていたらしく、ガラスの破片だらけのその一室で、片隅に置かれていた頑丈な箱。そこに何枚もの朽ちかけた布にくるまれて、大事そうに保管されていたのが、その皿であった。さして大きくはない。アイトールの大きな手よりも、ひとまわり大きい程度だ。
「文字が描いてある。ひょっとして、魔導文字か?」
アイトールが、多少は古代魔導文字に通じているシスフィーナとエンリックに、その皿を見せる。
「魔導文字ね。もっと明るいところで見ましょう」
皿を受け取ったシスフィーナが、階段を上る。四人は、その後に続いた。
「これは日付ね。帝国歴四百七十三年水神旬十六日。表側の縁には、それしか描いてないわ」
シスフィーナが、そう言いながらエンリックに皿を示した。
「‥‥たしかにそう描いてありますね」
「作った日付じゃないの?」
メルが、言う。
「阿呆。古代魔導帝国が滅びたのは、帝国歴四百三十九年だ。三十年以上もあとに作った皿が、遺跡から出てくるはずがないだろ」
アイトールが、突っ込む。
「四百三十七年と描き間違えたんじゃないのか?」
イケムが、推測を述べる。
「まあ、推理は後にして、裏側の文字を読んでみましょう。あれだけ大事に保管してあったのだから、ことによると魔導の品かもしれないし‥‥」
シスフィーナが、皿をひっくり返した。
「で、お前さん方の解釈は、これが間違いなく魔導の品だというんだな」
アイトールが、皿をじっくりと眺める。
「ええ。願えば究極の食べ物が出てくるそうよ」
真剣な面差しで、シスフィーナが言う。
「エンリック。あんたも同意見か?」
「ええ。皿の裏に描いてある文字を読む限りでは、そのようですね」
「本当だとすれば、凄い魔導の品だな。当時でも、貴重な品だったに違いない」
イケムが口を挟んだ。
古代魔導帝国には、多くの農民がいて、畑を耕したり家畜を飼ったりしていた。多少は魔導の助けを借りていたかも知れないが、食料は今とそれほど変わらない方法で生産されていたはずだ。魔導の力で食物を出す道具など、既知の記録には残っていない。
「試してみれば、いいじゃない」
メルが、無邪気にそう言う。
「‥‥まあ、正論ね」
シスフィーナが、皿を寄越すようにアイトールに合図した。
「わたしがやってみるけど、いい?」
皿を受け取ったシスフィーナが、残る四人を見やる。異論は出なかった。
シスフィーナが、皿を捧げ持った。眼を閉じ、祈りを捧げるかのように頭を下げる。
ぽん。
間の抜けた音と共に、皿の上に灰色の塊が現れた。
「なに、これ?」
シスフィーナが、鼻に皺を寄せる。
なんとも冴えない食物だった。大きさは、握り拳ほど。シスフィーナが指で突くと、塊がわずかに歪んだ。‥‥硬くはないようだ。
「練った壁土みたいだな」
アイトールが、的確なたとえを口にする。
「‥‥食べ物には見えませんね」
エンリックは頭を掻いた。
シスフィーナが、疑わしげに物体に鼻を寄せ‥‥眼を見開いた。
「凄くいい香り」
驚いたように言って、指で灰色の塊の五分の一くらいを千切り取る。
「おいおいおい」
男性三人が制止する前に、シスフィーナがそれを口中に納めてしまう。
「‥‥喰っちまった」
「動物実験とかしてからの方が‥‥」
「無謀すぎるぞ、シスフィーナ」
「シス姉さん、おいしい?」
メルだけが、男どもの心配をよそに、無邪気に訊く。
「おいしい。なんておいしいのかしら」
シスフィーナが、二口目を口に入れた。さらにひと口。あっというまに、皿が空になる。
「だ、大丈夫か、シスフィーナ?」
気遣わしげに、アイトールが訊く。
「大丈夫もなにも、凄くおいしいわ」
シスフィーナが応えながら、皿を再び捧げ持った。またぽんという間の抜けた音と共に、皿の上に灰色の塊が現れる。彼女は、それもすぐに平らげた。
「‥‥まさか、呪いの品ではないだろうな」
三皿目を食べ始めたシスフィーナを見ながら、イケムがぼそりと言う。
「永遠に食べ続けねばならないという呪いの品ですか? それはたぶんないと思いますが‥‥」
エンリックは頭を掻いた。シスフィーナは、四皿目もあっさりと平らげ、五皿目に取り掛かりつつある。
「ねえ、シス姉さん。節食してたんじゃなかったの?」
メルが、夢中で食べ続けているシスフィーナの袖を引く。
「あ、そうだった。でも、ぜんぜんお腹が膨れないのよね」
シスフィーナが、自分の腹部を撫でた。
「あたしにも食べさせてよ」
メルが、ねだった。
「そうね。はい」
シスフィーナが、空になった皿をメルに渡した。メルが、シスフィーナと同じように皿を捧げ持ち、念ずる。
ぽん。
皿の上に現れた物体は‥‥シスフィーナの時とそっくり同じ灰色の塊だった。
「いっただきま〜す」
メルが、ためらいの色など微塵も見せずに、灰色の塊にかじりつく。
「あま〜い! おいしい!」
「あら。おいしいけど、甘くはないわよ、それ」
シスフィーナが、言う。
「そんなことないよ。蜂蜜よりも甘いよ!」
灰色の塊をむさぼりながら、メルが言い返す。
「どういうことだ?」
アイトールが、エンリックを見た。
「‥‥念じた者によって、違う食物が出てくるのかも知れませんね」
「面白そうだな。俺もやってみよう」
イケムが、メルの手から皿を取り上げた。
ぽん。
「あれ、ずいぶんと小さいよ」
メルが指摘する。
イケムの願いに応じて皿の上に現れた塊は、オリーブの実くらいの大きさしかなかった。
「念じ方が足りないんじゃないの?」
シスフィーナが、言う。
イケムがその小さな灰色の物体を、口に放り込んだ。
「どう? おいしい?」
メルが、訊く。
「旨い。‥‥満腹した」
それだけ言って、イケムがエンリックに皿を渡す。
「どうやら、念じた者が理想とする食物が、皿に出てくるようですね」
エンリックは、言った。
「なるほどな。節食中のシスフィーナには、いくら食べても腹が膨れない食物。甘いもの好きのメルには、最高の甘味。無駄嫌いのイケムには、少量で満足できる食物か」
アイトールが、にやにやと笑う。
「さしずめわたしには‥‥」
エンリックも、皿を捧げ持って念じた。
出てきた灰色の塊を、口に含む。
肉でもない、魚でもない、芋でも野菜でもない、不思議な食感。だが、その味は‥‥。
「旨い」
そうとしか表現しようのない、複雑な味わいに、口中が満たされている。
「まさに、究極の食べ物です。さすが魔導の品だ。これは、素晴らしいお宝ですよ」
味を堪能したエンリックは、アイトールに皿を渡した。
「さあ、試してごらんなさい」
アイトールが、皿を捧げ持った。出てきた塊を、口に含む。
大男の眼に、涙が浮かんだ。二口目で、それが滝のように流れ出す。
「どうしたの? 不味いの?」
メルが、訊く。
アイトールが、首を振った。無言のまま、三口目を咀嚼する。
「‥‥あいつとは長い付き合いだが、泣いているのを初めて見たぞ」
ぼそりと、イケム。
食べ終わったアイトールが、皿をシスフィーナに渡すと、涙を拭った。
「恥ずかしいところを見せてしまったな」
「なんで泣いたの?」
メルが、訊く。
「死んだお袋が得意だったシチューの味がしたんだ。思い出したら、泣けちまった」
まだ鼻をぐずぐずといわせながら、アイトールが照れ笑いする。
「‥‥人が欲する最高の食べ物。究極のひと皿なんて、食べる人と同じ数だけあるんでしょうね、きっと」
エンリックは、微笑んだ。
「幾らで売れるかしらねえ」
大事そうに皿を抱えて歩きながら、シスフィーナが嬉しそうに訊く。
「現存する唯一の品。魔導の素養がない者でも使える。作用自体も珍しいもの。おまけに、美味が味わえるとなると‥‥最高級クラスの逸品ですからね。おそらく五十万は超えるかと‥‥」
エンリックは押さえきれない笑みをこぼしながら答えた。
五人は森の中の獣道を歩んでいた。まだ日は高い。日没前には森を抜けられるだろう。
と、いきなり真ん中を歩いていたシスフィーナが、立ち止まった。
「どうしましたか、シスフィーナさん?」
すぐ後ろを歩んでいたエンリックは、女魔導師の肩に手を掛けた。だが、その手をすり抜けるように、シスフィーナが前のめりに倒れ込む。
「あぶな〜いっ!」
叫びながらメルが突進し、シスフィーナの手からこぼれ落ちた魔導の皿が地面に落下する前にキャッチする。
「シスフィーナさん!」
エンリックは、伏した女魔導師を抱き起こした。
「どうした? 魔導か?」
先頭を歩んでいたアイトールが、駆け寄る。イケムはすでに弓に矢を番え、片膝立ちで周囲を警戒している。
「いえ、魔導の攻撃ではないですね」
シスフィーナの様子を調べながら、エンリックは告げた。青い顔色。荒い息。脂汗。むしろ、毒を盛られたときの症状に近い。
「とにかく、回復の呪文を使いましょう」
エンリックは、精神を集中した。だが、それも、メルの声に阻まれる。
「い、痛いよぉ!」
メルが、腹部を押さえてのた打ち回っている。‥‥そんな状態でも後生大事に魔導の皿を抱え込んでいるのが、彼女らしいと言えば彼女らしいが。
「‥‥魔導の食物が、毒物だったのかも知れません」
エンリックは、搾り出すように言った。‥‥そういえば、自分の腹にも、違和感のようなものが生じている。
「‥‥俺も、まずいことになった」
アイトールが、腹を押さえた。うめき声と共に、脂汗が垂れる。
「エンリック。早く回復の呪文を唱えろ! 治癒系呪文を使えるのは、お前しかいないんだ。時間を、無駄にするな!」
イケムの声が、聞こえる。
エンリックは急速に痛みを増す腹を押さえながら、自分に回復の呪文を掛けた。
‥‥効かない。
痛みは募るばかり。シスフィーナはすでに意識を失っているようだ。メルも同様に、動きを止めている。頑健が売り物のアイトールさえ、地に伏して呻いている。
「エンリック。あんただけが頼りなんだ」
比較的症状が軽いらしいイケムが、倒れ込みそうなエンリックの身体を支えてくれる。
「回復が効かないのなら治癒の呪文を使え。精神力が足りなきゃ、俺のを使え」
エンリックは痛みを堪えながら、精神を集中しようと試みた。
「‥‥死ぬかと思ったわ」
げっそりとやつれた顔で、シスフィーナ。
「で、なんだったの、あれは? 毒?」
こちらもげんなりとした表情で、メルが訊く。
「まあ、毒と言えば毒ですね。あの魔導の食物が、原因だったんですから」
毛布にくるまって横たわりながら、エンリックは答えた。
結局、エンリックは自分を含めた五人全員に治癒の呪文を唱えて、事なきを得た。足りない分の精神力は、アイトールとイケムから借りた。エンリックに精神力を吸い取られたアイトールとイケムのふたりは、半ば気絶状態で爆睡中だ。‥‥今日はここで野宿するしかあるまい。
「どうして毒だったの?」
メルが、訊く。
「‥‥やっと判ったわ。期限が切れていたのね」
シスフィーナが、ぼそっと言った。
「たぶんそうでしょうね。あの皿に描かれていた日付。あれはたぶん、保証期日みたいなものだったのでしょう」
「ほしょうきじつ?」
メルが、首をひねる。
「ほら。蒸し菓子とか買うとき、お店の人に『二日以内に食べてくださいね』とか言われるでしょ? あれよ、あれ」
シスフィーナが、説明する。
「帝国歴四百七十三年。期限を百六十年も過ぎていますからね。食べたら、お腹を壊して当然です」
エンリックは笑った。
「じゃ、この皿価値ないじゃない」
口を尖らせたメルが、魔導の皿を手にする。
「そうね。エンリックがいたからわたしたちは助かったけど、普通の人なら死んでしまったでしょうね」
シスフィーナが、呆れたように首を振る。エンリックは、微笑んだ。
「まあ、好事家には売れるかもしれませんね。二千から三千、ってとこですか。儲けが出るだけ、ありがたいと思いましょうよ」
「ねえメル。そろそろお腹空かない? 元気が残ってるなら、エンリックに何か食べさせてあげて欲しいんだけど」
シスフィーナが、言う。
「うん、いいよ」
メルが快活に言って、食事の支度を始めた。確かに、エンリックの腹も空き始めていた。精神力を速やかに回復するためにも、なにか食べてから寝た方がいい。
「できたよ、エンリック。栄養たっぷりだよ」
メルが差し出したそれは、蜂蜜をべっとりと塗りたくった固焼きパンだった。
お読みいただきありがとうございます。本作の元ネタは‥‥言うまでもなく某有名グルメマンガであります。 現在長編連載中です。よろしければご一読下さい。