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夏跡

作者: 雅晟

 太陽、太陽、太陽。八月も下旬、高二の夏休みも佳境に入ったこの時期に僕は陽子を連れ出してきて良かったと思った。都会にいてはまず考えられないほどの暑さ――太陽と僕らの一対一の対峙。クーラーの元、青白い顔をして勉強を黙々と続けていた僕にとってはこの年初めて全身で夏を受け止めた。噴き出る様に溢れ出る汗の雫が背中を伝ってお尻へ流れていくことすら新鮮で心地よかった。


 なぜ急に旅行に出たのかは今一つ覚えていない。勉強から逃げたかっただけかもしれないし、海に行きたかっただけなのかもしれない。ただ心の内の暗雲に一筋の光が差し込んだ。


 駅に着いたのは丁度昼頃、太陽は陽炎をまき散らしていた。かつての活気を失った昭和の温泉街はその街並みをシャッター街へと変えていた。その赤黒く錆びついた波板は見る者の心に孤独感を植え付ける。現地の老人が一人か二人、その真っ黒に染みついたしわだらけの顔に当たる日光を睨むように目を細めながら歩く姿が見られた。

「水買おうよ、水。干からびちゃうよ」

 そう言うと長い電車旅に疲れた素振りもみせずに、青のワンピースに白い帽子を被った陽子は自分の荷物を駅のロータリーに置いて足早にコンビニへと駆けていった。パタパタと彼女の履くビーチサンダルが出す音を耳にしながら僕は放り投げられた荷物を持って彼女の後を追いかけた。


 陽子と正式に付き合い始めたのは今年の夏の始め。今更とも思えるほどの遅い告白で晴れて正式なカップルとなった。十二年来の友人かつ恋人。お互いに意識し始めたのは中学生のころからだったと思う。勿論、ハグもしたし月並にキスもした。容姿も性格も個人的にはドンピシャ、志望大学に志望学部まで一緒とくるから、高校から付き合って十年目に結婚しましたなんて話を聞くと自分達も満更じゃないなとも思う。


 飲み物と小腹を満たす食べ物を適当に買った僕らは目的地である僕の別荘に向かって歩き出した。陽子を連れて行ったのは初めてなのに陽子は「冒険、冒険」とか言いながら僕より前をずんずんと歩いていく。別荘までは海岸線沿いに気の遠くなるほど歩いていかなければならないのだが今回は陽子と他愛のない話をする事によって幾分短いような気がした。

 はっとした。この海岸線を歩いたのは記憶に遠くて、目の前の事実が瞬時に呑み込めなかったからだ。あまりの暑さに空ろになりながら下を向いて歩いていると突然僕の影が大きくなって、その影がその瞬間の内に海の方へと消えていった。トンビだ。なにかと思って上を見上げると燦然と輝く太陽の前に一匹のトンビがゆっくりと旋回しながら飛んでいた。トンビの狙いは陽子が片手に持っていたサンドイッチだった。

「陽子さ、そのサンドイッチ早く食べちゃうか隠すかしないとトンビに狙われているよ」

そう僕が言うと陽子はぼんやりと海を眺めていたその視線を僕に移した。

「じゃあ一層このサンドイッチあげちゃおうかな」

 これだから陽子には惚れ惚れとする。僕には全く持って考えもしなかった事をさらりと言ってくる。

「別に良いんじゃない。どうやってあげるの?」

 こういう時には決まってつれない顔をしてワザと冷淡にみせる。そしてじっくりと陽子の一挙手一投足に注目する。

 陽子はサンドイッチ目がけて滑空してくるトンビ相手に闘牛士さながらに間一髪の所でそのサンドイッチを空高く投げた。トンビの方も動揺した素振りをみせずにグイッと翼の方向を変えて見事サンドイッチを鉤爪のように湾曲した嘴でキャッチした。僕の小意地の悪い予想ではトンビは急な出来事に反応できずにサンドイッチはそのまま溶岩の様に黒くごつごつとしたアスファルトの上に落下するとあったので、その意外な連携プレーに僕は驚きを隠せなかった。

「上手くとったよ、トンビも頭いいねー」

 陽子はその可愛らしい目を大きく見開きながらとても喜んでいた。失敗すると高を括っていた僕としては少し面白くなかったので澄ました顔を作りながら、「俺より頭いいんじゃない?」と嫌味を言ってみた所、陽子のツボに入ったのか思った以上に笑っていた。


 海にほど近い山の中腹あたりにある白塗りの和洋館、うちの別荘に着いた。丘の切り立った土地に広々と建っていて、その白く塗られた壁と真っ青な屋根が格別に目立っている。西洋的外見を持つこの別荘には古風な井戸がまだ残っていた。使い勝手は良いし、いまだに貯水槽に水を汲む時には使っている。

「よし、着いてから一息いれたい所だけど水だけ頑張って汲んじゃおう。俺は荷物を家の中に持っていっちゃうからさ、貯水槽のふた開けて待っててくれない?」

 こう言うと僕は自分の荷物と汗で少し湿った陽子のリュックを両腕に抱えて家の玄関の所に置いた。

 振り返って陽子の方を見ると、何やら井戸の紐の先端についた古ぼけた桶をジッと見ている。不思議に思ってしばらく見ていると陽子は近くに落ちている小枝を拾って、丁度綿あめを作るようにその桶の中をかき回しだした。

「蛇でもいるの?」

「女郎蜘蛛だよ、大きいの。今、枝で逃がしてあげるからちょっと待ってて」

 女郎蜘蛛を見たのは何年振りの事だろうか。陽子のそばに近寄って向けた視線の先にはこれ以上とない大きさの立派な女郎蜘蛛が今にもこちらを襲ってきそうな風貌を漂わせているのがみえた。異様に膨れ上がった腹に浮かぶ虎模様にも似たその柄は左右にくっきりと分かれていて、その中心には血判の様に赤黒く紋様が刻まれている。その様は完美で醜悪な女郎そのものだった。

「陽子はよくこんなのにかまっていられるね。俺だったらそのまま水に沈めるわ」

 ユスリカが砂埃のように舞い飛んでいる井戸の底の方を眺めながら僕はそう言った。だが陽子は女郎蜘蛛に気を取られていて僕の言った言葉すら耳に入ってないようだった。

 陽子によって助けられた女郎蜘蛛は日陰にそっと置かれると暫く身じろぎもしなかった。僕はこの虫の異様な形相を持ったその赤黒い腹を見たくなかったので急かすつもりで一寸その腹を指で弾いてやった。けれどその女郎蜘蛛は動かなかった。


 別荘の換気も、貯水槽も一通り全て終えた僕と陽子は念願の海に行く支度を始めた。二階にあるバルコニーから家に入り込む海の輝きは波の動きと合わさって、その白い光線がチラチラと重なる。そんなゆらりゆらりとした輝きは白い壁紙に反射して家の中全体を海中の頃合いに変えていた。

 二人しかいないこの別荘では着替える部屋を個々人で確保する事は至って容易な事だった。それでも勝手が分からない陽子は家の中であるのにも関わらずなかなか僕と離れようとしない。僕の方も冷たく突き放すのは不憫だと思い、それとなく自分の水着を持ったりして「そろそろ着替えをしようよ」という旨を暗に伝えようとしたが、それも中々に伝わらない。結局じれったくなった僕が少し陽子からは目を反らしながら、

「そろそろ水着に着替えようよ。俺はこの部屋で着替えるから陽子はそっちで着替えて」

 こう言って僕は陽子が着替える和室の襖を閉めようとしたが、なかなか閉まらない。この家も築二十年、特にこういった木製の部分にはガタがきていた。

 すると陽子が唇をわざと突き出して、ヴィーナスが胸を隠すポーズをしながら茶目っ気たっぷりに、

「英くん別に見ないでしょ? お互いそっぽ向いて着替えれば良いじゃん。信用してるからね」

と言ってウインクを僕に向けてした。陽子はしばしば男には堪らない誘惑を無意識の内にやってのける。しかもその誘惑はいつも行き過ぎないものなので僕としてもやられて悪い事は無い。「他の男にも無意識にやっているのでは?」という疑念もあるが、それを込みにしてもやって欲しいとつい思ってしまう。

 上を脱ぐと夏の暑さがまたぶり返してきた。背中全体に広がる汗がTシャツに張り付くのが分かる。それでも後ろに陽子がいるという恥ずかしさと、汗が衣服に張り付くもどかしさとが僕に手早い着替えをさせた。

 ほんの一瞬、時間にして一秒もない位、僕は陽子の背中を見た。中学まで水泳部だった陽子の背中に華奢なあどけなさは無く、面々と広がったたっぷりとした肩口には健全な色香が広がっていた。


 海は思っていたより冷たかった。冷たい分、クラゲの心配はない。お世辞にもよく整備された海水浴場とは言えないが、観光客の少なさと波の穏やかさ、そして目視できる魚の多さは気に入っている。手の込んだ海水浴場には無い静けさと原始的な海には泳ぐ者を現実の多忙さから解放させる力がある。時折沖の方に姿を見せる遊覧船の汽笛でさえも時の流れを忘れさせてくれる。

 この海水浴場の端には大きな崖がある、そのいでたちは壁と言ってもいい。本来は遊泳禁止区域ではあるが、現地の高校生がこぞってその崖から海に目がけて飛び込んでいる。高さにして五メートルはあるだろう、体勢を崩したまま着水すれば背中や首を痛める可能性は十分にあるし、ましてや足を滑らせて踏み切りに失敗すれば真下にある隆起した岩肌に全身を打ち付ける。加えて言えばその崖を海側からよじ登る事でさえ危ない。だが陽子はこういうときに限って常識を忘れる。

「英くん、英くん。折角だからあの崖から飛び込もうよ。面白そうじゃない?」

 そう言うと陽子はその巨壁に向かって一気に泳いで行ってしまった。むこうで遊んでいる高校生もこちらに気付いたのか様子を伺っている。僕は決して気乗りはしなかったが仕方なしに陽子の後を追った。

 遠くから見ても迫力を感じたが、実際に間近でみると迫力を通り越して恐怖を感じた。陽子は既に持前の明るさで現地の高校生と話しながらその崖を登っていた。

「やべー、あの子超可愛い」

「いや、でもあれ彼氏だろ」

「あーマジか。つまんな。彼氏持ちかよ」

 僕の後ろの方を泳いでいた高校生がこう言っているのが聞こえた。一見の風貌でも彼らより僕は垢抜けているし、なにしろ「陽子持ち」という優越感がなによりも大きかった。

 水しぶきが無い、綺麗な飛び込みだった。気付けば陽子は既に崖を登り切っていて見事な飛び込みまで決めたのであった。

「英くんも飛び込みなよ。気持ちいよ」

 こう人前で言われたら女の手前腹をくくらなくてはならない。それでも崖に登ろうと手をかけると日光で温まった岩の心地良さが逆に僕の恐怖を煽る。だが、一掴み一掴み登っていくにつれて募る恐怖からくる胸の高鳴りが徐々に妙な使命感と高揚を僕に与えていった。じりじりと当たる西日が僕の踏切を後押しした。

――――一瞬の静寂の内に全てが止まって見えた。

 水中から浮上するとさっきまで自分にあった異常な自信はどこかに流れ、「よくあの高さを飛び込んだな」という驚きが生まれた。

僕の飛び込みに陽子は満面の笑みを浮かべながらハイタッチをしてきた。水しぶきを散らした陽子の顔には真っ赤な西日が照り付けていた。


海から帰った僕と陽子は井戸の真水で体中の海水を洗いおとす事にした。夏と言えども井戸水は冷たく、疲労感からくる眠気を吹き飛ばすほどのものだった。しかも最初こそ足から徐々に慣らしながら海水を洗い流していたのに、悪ふざけで陽子が僕に頭から水をかけてから水かけ合戦になってしまった。

「終わり、終わり。陽子、もう疲れたからおしまい。ホントにもう水かけんなよ」

こう言って僕は井戸水が入った桶を持って構えている陽子に両手で抑える素振りを見せながら近づいた。

 僕は顔面に水を当てられた。陽子は悪戯っ子の様に素朴で少し意地の悪い笑みを浮かべながら庭の方へ逃げて行ってしまった。勢い余って鼻の中にも幾分水が入ったが僕としては全くもって腹は立たなかったし、それどころか鼻の粘膜の痛みですらうれしく思えた。なによりもこんなにも自由で無意味な時間を陽子と過ごせることがとても嬉しかった。


 西日が陰った時分に裏山の方で鳴く蜩の音が聞こえた。


 伊豆の夜はビル群に囲まれた都会と違って開放的で涼しい。山側から吹く風は全身を吹き抜ける清涼感を持っている。僕たちは折角の機会なので夜の散歩をする事にした。

空を見上げれば半球体に広がっているかのようにみえる程の多くの星が輝き、連立する石垣をみればヤモリや蜘蛛がひしめき合っているのが分かる。この光景を前に二人して魅了されていたが、同時に僕は月明かりの下の陽子に陶酔していた。

 陽子の肌の白さは月のそれに似ている。無論、日中でも彼女の白さは他と比べて目を見張るものがあるが彼女の真価はこの夜に発揮される。太陽とは異なる微弱な月明かりは彼女の肌を照らすのみならず彼女自身がもつ翡翠の様な内包の輝きを引き出す。すると日中には表面的にのみ白く見えるに留まっていた彼女の肌はおぼろげながら内側からもその白さを郭大する。

 気付けば海岸まで来てしまった。遠い湾の反対側にある繁華街の光がまぶしい。

「英くんさ、夜光虫って知ってる?」

「夜光虫? なにそれ、虫?」

 夜光虫は海にいるプランクトンで物理的刺激を与えると光るので夜光虫と呼ばれる。僕は知っていたがあえて知らないふりをした。

「夜光虫って海水にいるプランクトンなんだけど、水面を叩いたりすると光るの。それで、もしかしたらいるかもしれないからちょっと確かめてみようよ」

 そう言って沖の方に延びるように作られた小型船の発着場まで陽子は一人で駆けて行くと腹這いになりながら手の先にある海面を叩こうとした。

「馬鹿だなー、陽子は。石投げればいいじゃん」

こう言って僕は海岸に落ちていたのっぺりとした平らな石を海面目がけて投げた。水切りの要領で投げた石は一回、二回とバウンドしていったが夜光虫の姿は見えない。だが三回目になって丁度陽子の前辺りに着水したとたん、石が沈みゆくのと共に微かに青白い光が見えた。おそらく波打ち際にはプランクトンは集まりにくいのだろう。

「陽子、見た? 光っているの」

「見たよ。でもあんまり光らないんだね」

「まあ、なかなか難しいんじゃない? 僕らが水の中にでも入れば別かもしれないけどね」

 僕は完全に冗談のつもりだった。陽子は海岸の方に戻ってきて石を何度か投げた後に、

「やっぱり入ろうよ。夜光虫、今しか見られないかもしれないしね」

と言って陽子は海に入りだした。僕としては流石に寒い夜の海には入りたくなかったが、純粋に陽子が心配になったので仕方なく後を追うようにして海へ入っていった。

 夜光虫はどうやら陽子に味方をしていたらしい。沖に泳ぎだして幾ばくもしない内に青白い光が僕達を包んだ。手や、足で掻いたところだけが光るので差し詰め魔法でも使えるような気分になった。黒い海の中で青白く光る夜光虫と微弱な月明かりだけが陽子を照らしていて、潮騒と闇とが編みだす底の見えない恐怖感がより一層陽子の輝きを引き立てた。

 野獣の口吻とでも言おう。不甲斐なくも夜光虫に嫉妬をした自分がそこにはいた。美しく、艶やかなその陽子の肌の白さと一体化できない自分にどこか劣等感を感じていた。陽子が美しければ美しいほどに僕の心は奪われ、そして嫉妬した。泳ぐことを忘れ、半狂乱の様に陽子の唇を強引に、そして情熱的に吸い尽くした。泳ぐことを忘れた陽子と共に水中に沈んでもなお、僕は彼女を押し潰す程にきつく抱いた。


 あの後もしばらくは夜光虫を観察していたが、流石に寒いので僕と陽子は別荘に戻ってきた。僕も陽子も海には服を着たまま入ったので、仕方なく押入れから出した旅館にあるような寝間着浴衣を着る事にした。少々古い物である気がしたが生地は良いので寝心地は幾分良さそうで良かった。

 この時初めて浴衣を着た陽子を見た訳だが正直の所これだけは少し期待外れだった。世間的には夏祭りだとか花火大会だとかのイベントでの女性の浴衣姿を待ち遠しくしている人も多いようだが今一つ陽子にその姿は不向きであった。所謂浴衣と違って柄や色合いが派手でない物を着ていたからというのもあるが、なにか色々と隠れてしまいすぎていて逆に陽子の良さを引き出せていないという印象を受けた。

 陽子は一階の和室で、僕は二階の洋室で寝る事にした。手こずると思っていた和室の準備も蚊取り線香を焚き、部屋を囲うように蚊帳を張り、布団を敷き、難なく済んだ。

電気を消してさあ「おやすみ」というとき、

「痛てて、なんか日焼けしちゃったみたいなんだよね。ちょっと見てくれない」

と陽子が言った。

「日焼け? さっきまで何ともなかったじゃん」

「日焼けで赤くなるタイプの人は、時間差があるんだよ。時間差がー」

こう言うと陽子は敷布団の上に座り背中の方を僕に向けてから腰帯を少し緩めて、うなじから背中にかけて僕に見えるように浴衣の背中側を大きく開けた。陽子は海で泳いでいた時に日焼け防止のためにシャツを着ていたが、シャツとの隙間から入り込んだ太陽がその白い肌の所々を真っ赤に染め上げていた。よく見ると腕も赤くなっている。

「あー確かに焼けてるわ。じゃあそこにあるクリーム塗ってあげるからさ、取ってくれる?」

確かに僕はその時陽子の手の届く所に置いてあった日焼け用クリームを取るように言った。けれども、十秒程度待っても陽子は取ろうともしない。

「陽子、疲れてるの? じゃあ俺取るわ」

こう言って僕はクリームを取ろうと手を伸ばした。すると、陽子が突然その僕の伸ばした腕を取って後ろを振り返って僕を見た。


 一言、二言なにか言葉を交わしたかもしれない。けれどもそれ以上に、駸駸と聞こえる川のせせらぎ、幾種類もの呼び鈴の音、凄絶な潮騒、闇、そして障子を越えてでも差し込んでくる月明かり。これら全てが陽子の姿を艶美にしていた。

 浴衣によって掩蔽された陽子の身体は露わになり、完美なる石膏彫刻の様に一点の曇りもないはずの肉体に赤い烙印が押されていることに僕はひどく憤慨した。怒りと悲しみとそして嫉妬の念が僕をまた野獣へと駆り立てた。陽子の肉体を、その腑まで食い尽くす勢いで野獣の意図するままに貪りついた。だが、同時に僕はその行為の中で陽子のまだ白く輝いている部位が次第に紅潮していく事に気付いた。野獣の挙動がその冷淡な美貌に心血を注がせ、遂にはその顔までもが赤く染まり上がった陽子の身体に野獣はその息を潜めた。


 翌朝、僕の隣には陽子の姿は無く、代わりに彼女が着ていた浴衣が蝉の抜け殻の様に脱ぎ捨てられていた。前日はあれほど雛鳥の様に僕について回っていた陽子なので、少々不思議に思った。だが井戸を使う音がしたので「朝になったら貯水槽の水を変えるんだよ」と昨日自分が言った事を思い出し我ながら苦笑いをしてしまった。

 昨晩の事もあったのでやや気まずいかと思ったが取りあえずは庭に出てみて声をかける事にした。庭にはすっかり乾いた昨晩の服を着た、いつもの陽子がいた。

「陽子、おはよう。貯水槽大丈夫?」

「あ、英くんおはよう。今、栓抜くところ。大丈夫だよ」

 僕の淡い危惧とは裏腹に陽子に特に変わった様子も無かったので安心した。

 貯水槽の栓から流れ出る水の流れの中に蜩の躯が呑み込まれていくのを見た。昨日の夕食時に鳴いていた蜩だろうか。少し感慨深くなってしまった。

 その蜩の事を陽子に教えようと今一度陽子の方を見た。よく見ると昨日赤く日焼けしていた部分が茶色くこんがりとした色に変っていた。

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