⑦ゆうきの拳
別れとは新たな出会いの始まりだとよく言われる。本当にそうであろうか。その新たな出会いは別れた物と同じまたはそれ以上の価値があるのだろうか。
人と付き合う、彼氏彼女の関係になるということは、いつか訪れるかもしれない別れに対して、決してそうならないと立ち向かう勇気と後戻りができない覚悟を持つことになる。
俺は勇気と覚悟を持ち合わせていなかった。むしろ、相手の気持ちを考えているようで自分のことしか考えていない『偽善者』止まりだった。
その『偽善者』止まりな考えが、結果的に周りを傷つけてしまった。
教授がせわしく黒板に書いている文字を、ノートに写す気にはなれず、シャーペンの先を、小さな振り幅でノートに何回も何回も打ちつけている。今日で夏休み前最後の授業であるにもかかわらず、一人だけふてくされた顔で授業を受けている。しおりと別れてから4日ほどだったが、ゆうきもあやかもそのことに関して知っている様子はなく、ゆうきは相変わらずおちゃらけていて、あやかは授業に出ても爆睡して帰る日々であった。しかし、今日はあやかの姿はなく、ゆうきしか見ていない。
授業のチャイムが鳴り響くと、ゆうきがいつも通りご飯に誘ってくる。二人で教室を出ようとしていた時、見慣れた顔が慌ただしく走ってきた。そして、走りながら彼女は言った。
「ねぇ? 知ってるしおりのこと?」
あやかが戸惑いと若干の怒りが混じった顔をしている。ゆうきはぽかんと思い当たることがないといった顔をしている。俺は別れたことがついにあやかに知られたと思い、下を向く。しかし、予想とは遥かに違った言葉が返ってきた。
「しおり、学校辞めるみたいなの!」
「はぁ? しおりちゃんが? 冗談きついって! 何かの間違いだろ」
ゆうきが全くあやかの言っていることを信じていない。俺も突飛な話すぎて、嘘ではないかと思っている。そう思いたい。
「私見ちゃったの。 学生課でしおりが退学の手続きしているところを。これは絶対見間違えじゃない。何よりもしおりの顔がすごい神妙な面持ちだったから… あんた何も知らなかったの?」
しばらく、黙っているとゆうきが言った。
「お前なんか知ってるだろ、話せよ」
あやかとゆうきが問い詰めてくる。ゆうきはいつもとは違うおふざけではない真剣な話し方で話している。
これはもう何も隠せない。そう、覚悟した。
「俺、しおりと別れたんだ。もしかしたらそれが原因かも」
二人の目は見れなかった。とても怖い目をしている気がしたからである。弱々しい俺の言葉を聞いたゆうきがさらに言う。
「お前それでいいのかよ」
ゆうきが言葉に力を込めるような言い方をする。
「それでいいのかって、どうすることもできないだろ、もう彼氏じゃないし」
同じくらい力を入込めて言葉を返した。すると次の瞬間、ゆうきの拳が俺の目の前に飛んできていた。
気がつくと、2、3メートル後ずさりし、頬にはかなりの熱が帯びていた。あやかが一人周りをキョロキョロし不安そうにしている。
「なにすんだよっ!」
そんな俺の言葉に全くひるむことなく、ゆうきは俺の目の前まで来て言った。
「おめーはいつもそうだ! そうやってカッコつけて、距離を置いて、本当の事も言わずに。何がしてぇんだよ、あ! 言ってみろや! しおりちゃんとケリつけた気になってんじゃねぇの? バカバカしいわ、ダッセーわ、お前」
ゆうきの声が廊下に響き渡る。学校の教室をすぐ出た廊下で起きた出来事に関係のない学生は、関わらないようにとその場を離れるそぶりをみせる。
頬の痛みからか、何も言葉を返せずに黙り込んでいると、横からあやかがその場をおさめるように言った。
「とりあえず、やり残したことや聞いておきたいことがあったら早くしないと。大学やめるのが確かなら、実家がある方へ帰っちゃうんじゃないかな?」
うまくあやかが場を鎮めてくれたけれども、三人の間に気まずい空気が流れる。その空気の中ゆうきが言う。
「俺、しおりちゃんの家訪ねてみるわ。そしたら、なんか分かるかもしれないし。本当に辞めるんだったら、今までお世話になったお礼言いたいし」
そう言ってゆうきは二人の元から離れていった。
「わたしも行くね」
あやかもゆうきの背中を追って小走りで廊下を移動する。
ただ一人誰もいない廊下でしばらく立ち止まっている。
頬の痛みは消える気配が全くない。
しおりもこんなに痛みを感じただろうか。
そして何より、いまの自分がこの世界の全員から否定されているような独特な痛みを感じている。
こんなはずじゃなかったなぁと心でため息をついたが、すでに歩く方向は決まっていた。
ここにはもういない二人の背中を追いかけるように。