⑤煙
心臓の鼓動が速いままの状態なってどれくらい時間がたったのだろう。帰り道がこんなに長いと思ったのはいつぶりだろう。俺の目の前に座っている、男子高校生は将来どんな大人になるのだろう。小学校の先生に向いてるように見える。みんなに愛される先生に…
明らかに気が動転している。それは自分でも手に取るようにわかった。それでも、考え事をやめる気にはなれなかった。
終わりがないような線路の上を、座席にもたれながら運んでもらっている。
時間の流れは皆等しく、一通であり、電車のように止まったり、折り返したりしない。ある駅で降りて、寄り道したり、少し戻って違う駅から乗ってみたりすることは、時間の流れに反している。少し戻りたくても、どんなにその駅に重要な失くし物をしても、決して取りには行けないのだ。
――好きじゃない
その言葉を突き付けられた、白いワンピースの女の子は今どうしているのだろう。想像するだけで、悲しみと深い後悔が、ふつふつと湧き上がってくる。
どの道いつかこうなってしまうことの予想はついていた。しかし、あまりにも突然で、最低な終わり方だった。こんなシナリオを描いたつもりはなかった。
それにしてもなぜあの時、体が動かなかったのか。なぜ、2人のことを、どこからか客観視していたのか。誰があんな言葉を言い放ったのか。俺の人生の知識を、すべて注いで理解しようとしても、答えにはたどり着かない。あんな冷静さを欠いた自分は、まるで自分でないような感じだった。
「二重人格…」
急に頭に浮かんだ。突然湧いてきた可能性、それが二重人格だ。心理学で学んだことがあり、正確に言うと解離性同一性障害といわれる。解離性同一性障害は、交代人格というのがその人の中に存在するが、別人格ではなく、その人自身の「部分」が交代人格として表れているのである。つまり、1つの人格すら持てないということだ。俺がその解離性同一性障害なのかどうかは判断できない。だけど、それに近い状態だと解釈すれば、それなりに今回のことが腑に落ちる。でも、どうして…
悲しみや後悔という感情よりも、今の自分を把握しなければならないという感情が先行している。
考えているうちに家についた。帰路というのは体に染みついていて、目隠しでも帰れるのではないかと錯覚するほどである。
部屋に入る前に郵便受けに手を適当につっこむ。ろくでもない広告が溜まっている。でかでかと、おかげさまで痩せました!とか、これ一杯で超健康!みたいに書いてある広告を見ると、嫌気がさす。みんながみんな同じではないのに、これさえあれば絶対大丈夫みたいな、言い回しをしてくる。明らかに偽善者だ。誰かの為にと、うたっているけれども、結局は自分たちの為でしかない。こんな風にはなりたくないなと思った。
携帯の画面を何度つけても、しおりからのメッセージはない。謝罪のLINEを送ろうと思ったが、弁明の余地がなさすぎる。それでも何か送らなければと思い文章を考える。
「今日はごめん。なんか最近疲れていて、八つ当たりしちゃった。しおりは全然悪くないのに。本当にごめん」
送信ボタンを押した。これで何か変わるとは思えないが、ごまかすしかない。
しおりは今日のことを誰かに話すだろうか。ゆうきやあやかまでにも広まってしまうかもしれない。
少し怖くなって、気がついたら電話をかけていた。
「おーすっ! どうしたいきなり電話って? 振られたか? お?」
どきっとして、手が震えた。痛いとこついてくるな、とつくづく思う。
「ちげーよ、ばーか。明日って宿題みたいなのあったっけ?」
ゆうきが少し黙った。
「宿題? ないんじゃね? てか、お前の方が授業きとるやん。」
「ああ、そうだったね」
「そんだけか? ならまた明日な! ちゃんと遅刻せずに学校こいよ!」
いつものゆうきで安心した。相変わらずバカっぽい。きっとパンツ姿で電話しているのだろう。
「あ、まって! 最近、俺フツ―だよね?」
周囲から自分の変わった部分がないか聞いておきたかった。
「フツ―かフツ―じゃないかでいったら、超フツ―!」
全然2択になってない、とツッコミたい。
「ありがとう。お休み」
そう告げると、なんかきもいな、と言いながら電話を切られた。携帯をおいて、引き出しからタバコを取り出した。もらい物だけど、タバコは吸わないら、ずっとしまっておいた。
窓をあけ、夜空に向かってタバコを突き出す。コンビニの安いライターで火をつけた。新鮮な煙を肺のなかで循環させた。窓から煙が空に吸い込まれていく。
「まっず」
口からは白い煙で、目には透明な水で溢れかえった。