忠良は語る
「まず壁の話からしようか。あの白い壁の向こう側へ行くのは無理だ。実際に村役場の連中と一緒に県境の現地で確認してきた。壁と言っても、泥ぐらいの抵抗感があるものが存在しているという感じなんだが、一応、中に入る事も出来る。」
忠良がそう語ると、房江は忠良を批難する目で見つめ、感情を排した平坦な声で問いかけた。
「あなた。あんな訳のわからない物の中に、後先考えずに入りましたね?」
「いや・・・何と言「入りましたね?」・・・はい」
忠良は慌てて釈明した。
「現地に着いたら何人もの人が倒れてて、まだ中に人がいると言うから、助ける為にだよ!」
房江は批難する目つきは変えなかったが、一口お茶を飲み忠良に話の先を促した。
忠良は一つ咳払いをして話を続けた。
「中はとても視界が悪く、全身が泥の中の様な感じだから前に進むだけでも大変なんだが、それよりも壁に触れた瞬間、物凄い不快感に襲われて、それを我慢してさらに進むと眩暈や吐き気、それに息苦しさで今にも倒れそうになる。そして、ここに居たくないという感情がとても強くなるんだ。それでも我慢して何とか一人は外に連れ出したんだが、それが限界だった。」
忠良はここで一旦言葉を切り、さやかを見た。
「だからさやかちゃんは、壁に近づく事があっても触っちゃダメだよ。外で倒れてた人達もそうだったけど、おじいちゃんも壁から出たら、物凄く気持ち悪くて吐いちゃって暫くの間動けなかったからね」
「は〜い!さやかは良い子だから触りません!!」
忠良は元気に答えたさやかの頭を優しく撫でた。
「これはそこで聞いた話なんだが、車でその壁に触れるとエンジンは止まって動かなくなり、スピードがあっても壁に勢いを殺されてほとんど進めなかったらしい。それに車が消えてしまうそうだ。」
「先生、消えるというのは跡形も無くですか?」
「ああ、助けた人は車から出てすぐの所で倒れたらしいんだが、気付いたら自分の車が消えて無くなっていたそうだ。それに私達が到着する前に、観光バスが半分ほど壁に入って停まっていたんだが、乗客達が壁の外に逃げた後に壁の中に引きずり込まれて消えてしまったそうだ。私が壁の中に入った時も中に車はなかった。」
部屋は少しの間静寂に包まれた。
さやかは大人のマネをして沈黙していたが、他三人の大人は消えるという現象に考えを巡らしていた。
その沈黙を破るように房江が問いかけた。
「あなた、消えたのは車だけですか?」
「・・・いや。人が乗ったままの車は人ごと消えたそうだ。それに中で倒れている人はまだ何人かいたらしいんだが。実際、私も中で複数の倒れている人影を見たが、他の者が助けに中に入った時にはそんな人影はなかったそうだ」
明里は少し考えた後、確認を取る様に忠良に聞いた。
「他の県境の道も・・・県境沿いは全て同じと考えていいんでしょうか?」
「村役場で聞いた話しではそのようだった。確認出来る範囲では、山や川など関係なく県境沿いに壁が発生している」
「最後にもう一つ。先生はどうやっても、壁を抜けるのは無理だという判断は変わりませんか?」
「変わらないな。酸素ボンベを担いだ完全装備の消防隊員が壁の中に入ったんだが、数分もしない内に念の為にと括り付けていたロープで壁の中から引きずりだすハメになった。あれでダメなら私達では到底無理だ」
明里は決断を下した表情で、義父母に提案した。
「岐阜市の私の実家に行きましょう。智行さんと連絡が取れれば合流もしやすいですし、何かあってもここでは東と南の選択肢しかありません。岐阜市までじゃなくても、南下すれば少なくとも動ける範囲が広がると思います」
忠良は自分の顎を撫でながら明里を見つめ、口を開いた。
「決断が早いのは明里ちゃんの利点だけど、今回は早計だな。私も出来ればそうするのがいいと思うし、岐阜のご両親も心配だ。しかし現状では難しいかもしれん」
「早計で難しいですか?」
「まだ黒いやつの話をしていない。この情報を聞いてから判断しないと。同時期に現れた壁と黒いのはセットで考えたほうが良いだろう。そして黒いやつ絡みで南下は厳しそうなんだ」
明里はその言葉に一つ大きく深呼吸をすると、改めて忠良を見た。
「すみません。自分で思っている以上に焦っていたみたいです。話の続きをお願いします」
忠良はその言葉に、気にするなという感じで軽く手を振った。
「こんな事態だ。小さな子を持つ親なら誰でも気が急くさ。ましてや助け合うべき夫が遠い土地にいるんだ。さやかちゃんもパパが居なくて不安だろ?」
「さやかは大丈夫だよー!パパより強いママがいるし、そのママより強いおじいちゃんや物知りなおばあちゃんがいるもの!」
さやかのその言葉に忠良は嬉しそうに微笑み、房江と明里は、さやかの中での智行の位置付けに二人して微妙な表情になった。
「さて話しの続きだ。明里ちゃん、黒いのを見た時の話をしてくれ」
明里は見た物を忠良に伝え、双眼鏡で見て感じた事も併せて伝えた。
忠良はその話を聞くとしきりに頷いた。
「直ぐに移動したのは英断だな。もう少し遅かったらどうなっていたか・・・」
明里はその言葉にやや緊張した面持ちで、忠良の次の言葉を待った。
「明里ちゃん達よりも後でこっちに逃げてきた人達や、情報を集めている村役場で聞いた話だ。その降り注いでいたロボットは高山市街で次々と人を襲い、倒した人達を何処かへ連れ去っていったそうだ」
「そんな・・・」
明里は口元を押さえながら言葉を漏らした。
房江は不安そうな表情を浮かべながらも、忠良に問いかけた。
「殺されたの?」
「んー、それがよく解らん。死んだと言う人もいれば、気絶させて連れ去っていると言う人もいる。ただ、目立った外傷がないのは確からしい」
「何故そんなことを・・・?」
「それこそよく解らん。情報が少なすぎる。ロボット絡みであと解ってる事は、拳銃が全く効かなかった事と拳銃を使うと集中的に攻撃される事。人よりも動いる車を優先的に狙って、どうやったか解らんが、一瞬で動かなくする事ぐらいか」
明里は首を傾げ、困惑した顔で疑問を口にした。
「拳銃が効かないのに拳銃を持ってる人を、人を連れ去るのに人よりも車を優先って・・・本当に訳が解らないですね」
「しかし事実のようだ。警察が持ってる拳銃程度ではキズ一つ付かなかったそうだ。そして多くの警官が市民を守る為に拳銃を使用した結果、集中的に襲われ、早い段階で高山警察署は壊滅。その事が混乱に拍車を掛けたが、奴らが警官を襲っている間に逃げる事が出来た人も多いようだった」
「警察が壊滅・・・先生、その情報は逃げてきた人からですか?」
「156号線の高山市との境目にある尾神橋で、市街中心部から逃げて来た人に話を聞いた。この人は散々奴らに追い回されて、やっとの思いで尾神橋に辿り着いたと言っていた。」
「それはその人も大変「帰りが遅いと思ったらそんな所にまで」・・・」
明里の発言に被せる様に、房江の不機嫌さを隠さない声が入った。
忠良はしまったという顔で、何か言おうと言葉を探していたが、先に明里が発言した。
「お義母さん、怒ってたんですねぇ。待ってる間もそんな素振りを見せなかったので、気付きませんでした」
「私は怒ってませんよ。えぇ、怒ってません。寄り合に行ったはずが、嬉々として現地調査までしてあっちこっち飛び回ってたとしても、こういう人だというのは私がよく知っています。だから怒ってるわけないじゃないですか」
明里と忠良は冗談半分で作った、我流のハンドサインとアイコンタクトで房江にバレないように会話を始めた。
(先生、謝って下さい)
(いや、しかし・・・)
(奥さんに心配をかけたんですから当然です。本当なら帰宅して直ぐに謝るべきでした!)
(わかった)
「房江、心配かけてすまなかった。ただこんな状況だ。理解はして欲しい」
「そうですよお義母さん、先生はどちらかと言うと嵐の中で輝く様な人ですから、ジッとしてられなかったんですよ」
房江は一つため息をついた後、幾分、声を和らげ言った。
「だから怒ってないと言ってるじゃないですか」
先程よりは房江の機嫌が良くなったと判断した明里は、忠良に続きを促す為に話を振った。
「先生、尾神橋より先には行かなかったんですか?」
「橋の高山市側に奴等が居て行けなかった」
「な?!」
明里は思ったより近くに来ている事に焦りを覚えたが、忠良が落ち着いて座っているのを見て冷静さを取り戻した。
「先生、大丈夫なんですよね?」
「今の所は大丈夫だと思う。そうじゃなければ、ここで長々と報告会をしちゃいないさ」
忠良は首の辺りを右手で揉みほぐしながら、そこで見た事は話し始めた。
「奴等は高山市側の橋のたもとに居て、こちらが橋の半分を越えて高山市側に入ると向かって来るが、白川村側に逃げるとそれ以上襲ってこずに、橋のたもとに戻る。何回か試してみたが結果は同じだった」
「あなた、境目を認識してて、高山市から出ようとしないのは間違いないの?」
「若いのが車を走らせて、東海北陸自動車道の飛騨市と高山市の市境を確認したら、同じ状況だったと言うから、今の所はな。ただ盲信は出来ない。それで役場の人間と消防団が交代で見張っている。こちらに来るようなら、サイレンと半鐘を鳴らして知らせる事になっている」
その言葉に一先ず危険はないと解って、房江と明里の表情がホッとした物に変わり、大人の話の邪魔をしない様に黙って座っていたさやかも、その場の雰囲気の変化を感じ取ったのか笑顔になった。
「ホッとしたところ悪い、奴等はこちらには来ないが南への道を封鎖してる形になっている。だから明里ちゃん岐阜市へは・・・」
「いえ、仕方のない事ですから。先生、お義母さん、しばらくお世話になります」
「そんな他人行儀な。好きなだけ居てくれていいのよ」
そんな房江の言葉と共に三人は目を合わせ、自分達が逃げ場のない状況に追い込まれつつある事を自覚した。
「これで私の話は終わりだ。また後で村役場へ行くが、房江、長々と喋って腹が減った。晩ご飯にしよう。こういう時こそちゃんと食べないとな!」
忠良のその言葉で、房江と明里は準備の為に台所に向かい、さやかは忠良に遊んでもらい日常の空気が流れた。