656 風呂の後のお約束
風呂上がりに、ふと思う。
ハグ大会になってしまったのは何故なのか。
俺のせいではないと思いたい今日この頃である。
『いや、まあ柔らかさやいい香りを堪能はさせてもらったんだけどね』
それでも微妙にモヤッとするというか何というか。
たぶん修羅場になりかけていたのにハグだけで解決したのが原因なんだと思う。
俺の葛藤は一体なんだったのか、とね。
小1時間は問い詰めたい気分である。
もっとも問い詰めるべき相手がいないのだけれど。
まさか矛先をノエルたちに向ける訳にもいくまい。
ただの逆ギレ野郎になってしまうからな。
『まあ、ケチをつけても贅沢だと言われるのがオチか』
結局のところ己の中で消化せねばならないのだ。
何時までもグチグチ言うのは好ましくない。
すでに着替えて脱衣所を出ているし切り替えるとしよう。
そう思ったからこそ、俺は売店に立ち寄った訳だ。
いや、思わなくても寄っていたと思う。
『風呂上がりのお約束を忘れるなど以ての外だからな』
2回目以降の入浴ならいざ知らず、俺は今日初めての風呂だ。
ここで定番中の定番をスルーなどしてはいけない。
誰かに強要するつもりはないので掟とまでは言わないが。
俺個人としては掟に等しいイベントだ。
馴染みのない者からすれば些細なことなんだとは思う。
『だが、しかしっ』
俺が日本人だった頃、数々の温泉を巡ってきてこれを忘れたことなど一度もない!
『という訳でスタンバイ完了だ』
言うほど大仰なものではない。
姿勢を整えるだけのことだ。
『いわゆる様式美というやつだな』
個人的には作法に近いものだと思っている。
故に俺は無視できないのだけれど、俺以外の者なら無視しても構わない。
その分、飲み終わった後の爽快感が違ってくるがね。
やってみれば分かる。
やらなければ分からない。
やっても分からなかったときは済まないとしか言えないが。
そういう訳で、俺は両足を肩幅より少し開き気味にして立っている。
そして左手は腰に当てる。
右手には牛乳瓶。
中身は白みがかった茶色い液体。
そう、言わずと知れたコーヒー牛乳である。
「風呂上がりは、やっぱこれだよなっ」
飲む前に皆の前で宣言してみた。
少しでも風呂上がりのコーヒー牛乳の文化を広められればと思ったのだが。
「なんでドヤ顔やねん」
アニスにツッコミを入れられてしまった。
『うーむ、定番を知らないとこうなるのか』
些か寂しく感じる。
「決まっている。
これが温泉の正しい入り方だからだ。
コーヒー牛乳を飲むまでが温泉の入浴ですってな」
家に帰るまでが遠足ですみたいなノリで話すことになるとは俺も思わなかったけれど。
「ホンマかいな」
アニスは疑わしげな視線を向けてくる。
俺が皆をからかうために嘘をついていると思っているのだろうか。
「後でミズキはんに聞くで」
なかなか疑り深い。
「おうよ、聞いてくれ」
おそらくミズキなら、そういうこだわりを見せる人がいるくらいは言ってくれるだろう。
それをどう判断するかはアニス次第だ。
いずれにせよ俺が嘘を言っているとは思わないはず。
これがマイカに聞くのであれば博打に近いがね。
面白半分で適当なことを言い出す恐れがあるからだ。
実害がないと判断すると、たまにトンデモ発言をしてくれるからな。
『気にしたら負けだな』
そんなことより風呂上がりの1杯だ。
俺はコーヒー牛乳を一気飲みした。
ゴクゴクと喉を鳴らし──
「ぷっはぁ─────っ!」
飲み終わると同時に豪快に息を吐き出す。
気分爽快、スッキリ爽やか!
「旨いっ!」
やはり風呂上がりに浴衣姿でコーヒー牛乳を飲むのは最高だ。
無意識のうちに笑顔になるのも当然というもの。
「ん────────っ!
風呂上がりのこの1本!
たまらんなぁっ!」
「ハル兄、そんなに美味しい?」
「もちろんっ」
俺は自信満々に答えた。
ノエルは首を傾げている。
「飲んだことあるけど、そこまで?」
レオーネやリオンにまで確認を取っている。
「私はそこまでとは……」
言葉を濁すレオーネ。
「私は飲んだことがないので……」
リオンは飲んだことがないという。
「うちも飲んだことあるけど、ハルトはんが言うほどの味やなかったで」
そしてアニスまで俺に疑問を呈してくる。
いや、既に否定だな。
明らかな反対意見が1票。
言うまでもなくアニスだ。
疑問を感じているのが2票。
これはノエルとレオーネ。
保留が1票。
リオンは飲んだことがないのだから、これはしょうがない。
明らかに俺が不利である。
だが、負ける気はしなかった。
「それは普段の何でもないときに飲むからだ」
「はあ~っ?」
最上級の怪訝な表情を見せるアニス。
「どういうこっちゃの?」
「どうもこうも単にタイミングの問題だ。
コーヒー牛乳は温泉や銭湯から上がったときに飲むと最高に旨い」
「そないアホな話があるかいな。
そんなんで飲み物の味が変わったら天と地が引っ繰り返るで」
酷い言われようである。
そしてアニスは何も分かっていない。
「嘘だと思うなら、汗が引く前にコーヒー牛乳を飲んでみるといいさ」
「えらい自信満々やんか」
「飲めば分かる。
飲まなきゃ分からん」
「えー、そうかなぁ?
マズいとは思わんけどぉ」
アニスはあくまでも疑いの目で見てくるようだ。
が、しかし──
「……おいしい」
その呟きを己の耳すべてで敏感にキャッチしていた。
驚きで目を見開きながら、声のした方へと見やるアニス。
ノエルやレオーネも見ていた。
「リオン」
姉の呼びかけにリオンは微笑んだ。
「お姉ちゃん、おいしいよ」
俺たちが話している間に売店担当の自動人形からコーヒー牛乳を貰って飲んだようだ。
なかなかの早技である。
というより決断が早いと言うべきか。
話題になっている上に自分は知らない。
だから試してみる気になった。
そういうことなのだろうが、抜け目がないというか何というか……
『ちゃっかりしてるな』
そう言う他はないだろう。
『告白では初心だと思ったんだがな』
こういう側面もあるというのは些か意外かもしれない。
『いや、妹ってこんなものなのかも?』
兄弟姉妹のいなかった俺には分からないことである。
それでも可愛げのある抜け目なさは見ていて微笑ましく感じた。
結果として苦笑という形で表情に出てしまったさ。
「程良く冷たくて火照った体を冷やしてくれる感じ?」
俺の苦笑には気が付かなかったのか、淡々と飲んでみた感想を述べている。
『なかなか的確なコメントだな』
グルメレポーターとかもできるかもしれない。
もっとも、うちにはテレビ局はもちろんラジオ局だってないのだが。
「陛下が風呂上がりに飲むと最高って言うのも分かるよ」
『援護射撃まで……』
とにかく、ここで賛成票が1票加わった。
『よっし!』
想定していなかった援軍に俺は心の中でガッツポーズを決めた。
ただ、ひとつだけ気になることがある。
『そこは言っておかないとな』
「リオンさんや」
「はい、陛下」
「結婚するんだから陛下は無しで名前でね」
「─────っ!」
俺の言葉にリオンの顔が一気に赤くなる。
『いかんな、刺激が強すぎたのか』
告白から間もないことだから意識してしまうのはしょうがないのだろう。
「はひ」
それでも肯定の返事はもらえた。
噛み気味で、か細い声でだったけど。
『了承してくれた訳だから良しとしよう』
それよりも反対票をどうするかが問題だ。
『面倒くさいから放置でもいいか』
別に俺の考えを変えさせようとしている訳でもないんだし。
実害がないならこのままで問題ないような気がしてきた。
風呂上がりのコーヒー牛乳は堪能できたし。
『あー、もう1本飲むという選択肢もあるか』
飲み過ぎると腹がタポタポしてくるだろうが。
2本目なら余裕である。
そう思って売店へ足を向けようとしたのだが──
「本当ね、リオンの言う通りだわ」
「ん、予想外の美味しさ。
ハル兄の言う通りだった」
「そうだったわね。
ハルト様はやはり正しかった」
レオーネとノエルが売店の前でコーヒー牛乳を味わっていた。
リオンの言葉を受けて自分たちも試したくなったのだろう。
これで形勢は完全に逆転だ。
だが、そんなのは些細なことである。
俺にとって重要なのは、自分の発言が認められたこと。
その相手がノエルやレオーネであるということの方が大きい。
つい2本目を飲むことを忘れてしまう程だった。
そしたら知らぬ間にアニスまでもがコーヒー牛乳を飲んでいた。
「悔しいわー、なんでこんなに旨いねん」
思わず『フフフ、計画通り』とか言いたくなるくらい見事な逆転劇。
だが、俺はアニスにツッコミを入れたりはしない。
そんなことをする暇があるなら2本目のコーヒー牛乳を飲むさ。
読んでくれてありがとう。




