1526 対戦相手の葛藤と結論
当たらない。
最初の1発目は挨拶代わりの寸止めのはずだった。
だから、それは当然のことだったのだが。
それでも男は気持ちの悪さを感じていた。
手応えがないが故に。
当たっていないから当たり前のことだと言われるのは分かっている。
だが、そういうのとは違うのだ。
寸止めなりのギリギリの距離感がある。
触れるか触れないかの距離を空気で感じ取るというか。
上手く言葉にはできそうにない。
する必要もないだろう。
今は覆面男と戦うことに専念すべき時だ。
問題にすべきは距離感である。
拳の先から感じるものがないのは異質と言わざるを得ない。
今までの経験を総ざらいしても同じものを見出せそうになかった。
とにかく腕を伸ばしきったはずなのに拳に到達感がない。
覆面男の鼻先が遠くに感じる。
そこにあったはずのものがない。
夢か幻でも見ているのかとさえ思えた。
いや、違う。
覆面男との距離が詰まっていないのだ。
気が付けば、引き離されている。
一部始終を見ていたはずなのに。
バカな……
その一言しか出てこなかった。
いや、出せなかった。
ただただ呆然とするしかない。
自分は間合いに踏み込んで手を出したはずだ。
相手が下がったのか。
いつの間に?
分からない。
どうやって?
それも分からない。
得体が知れない相手だ。
もしかして踏み込んだはずの自分が下がらされていたのかとさえ思ってしまった。
真っ先に思いつくのは魔法である。
もちろん魔法は使えないはずだ。
それでも魔法ではない何か奇妙な力があるのかもしれないと勘繰りたくなった。
そんなものがあるはずがない。
これは月の女神に奉納する神聖な試合なのだ。
審判や魔道具では感知できなくても月の女神を欺けるはずがない。
ひたすらにそう念じる。
でなければ戦意を喪失してしまいそうだ。
得体の知れなさが更に増していた。
不気味ですらある。
背筋が凍るとはこのことか。
どうすればいい?
どうするもこうするもない。
戦うしかあるまい。
そのために出場したのだ。
次は恐らくないだろう。
出場することはできるかもしれない。
が、今と同等の力が発揮できるとは思えない。
それに戦い方が変わろうとしているのは、昨日で思い知らされた。
この試合でも身を以て知らされそうな予感がある。
既に軽く翻弄されてしまったのだ。
自分にとっては決して軽くはないのだが。
向こうは余裕だろう。
こちらの動揺は手に取るように分かっているはず。
こちらは気の抜けた状態で構えているだけだからな。
棒立ちでないだけマシではあるものの気休めのようなものだ。
見る者が見れば隙だらけなのは明らか。
これだけのことをしてみせた相手が見抜けられぬはずもない。
なのに手出ししてこなかった。
自分が駆け出しのヒヨッコであれば舐められていると憤慨したかもしれない。
その場合は闇雲に突っ込んでいって返り討ちにあっていたことだろう。
向こうはこちらを舐めている訳ではないのだ。
どういう意図があるかまでは分からない。
考えても分かるようなものではないだろう。
人の心の中を覗くことなどできないのだから。
とにかく向こうがその気になっていたら確実に負けていた。
どういう風に負けるかまでは想像もつかないが。
ただ、ひとつだけ確実なことがある。
主審から注意されなかった。
こんなことを誰かに言えば何を当たり前のことをと一笑に付されただろう。
しかしながら、そんな状態にまで精神的に追い詰められていたのだ。
そういう意味でも試合が始まっていることが確認できたのは大きい。
危うく10年前の二の舞になるところだったからな。
ふぅっと大きく息を吐き出せば先程よりは落ち着けた。
これで遠慮はいらないことがハッキリした。
今度は確実に当てにいく。
勝つか負けるかは、もはや二の次だ。
たとえ無様に負けようとも動転したままでは終われない。
それでは10年前と何ら変わらない。
このまま終われば、きっと悔いを残すことになる。
出し惜しみなどしている場合ではない。
全力で行く。
今はとにかくそれだけだ。
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「おや、相手の雰囲気が変わったね」
トモさんが興味を引かれたように笑みを浮かべながら言った。
「慌てていたようですけど落ち着きましたか」
フェルトが相槌を打つ。
「あの躱し方をされて試合中に立ち直れるとは意外だったわ」
マイカが軽く驚きながらも感心していた。
「期するものがあったんじゃないかなぁ」
ミズキが首を傾げながら言った。
その様子から察するに確信を持っている訳ではないようだ。
「引き出しが多いのかもしれませんよ」
そう言ったのはエリスであった。
マイカとミズキが、その意見に頷いてみせる。
「一理ありますなぁ。
同じような経験があるなら立ち直るのも当然のこと早くなるもんね」
「ホントだ。
それは考えなかったよ」
2人ともエリスの意見が最有力だと思っているようだ。
しかしながら、そのことに異を唱える者もいない訳ではなかった。
「その割りにレベルはそう高いようには見えませんね」
そう言ったのはマリアである。
エリスの推測には懐疑的な目を向けているらしい。
2人は姉妹ではあるが、性格は違うしな。
見方も変わってくるのだろう。
同じような義理の姉妹でもABコンビだったら違う結果になっていたと思うがね。
「ひとつ大事なことを忘れているわよ」
マリアの反論にも余裕の態度を崩さないエリス。
「どういうことでしょうか?」
「西方の冒険者は経験値をロスしやすいじゃない」
「あっ」
指摘を受けたマリアが失念していたことに気付いて驚きの声を上げた。
そして赤面する。
真っ先に想定しておくべきことだったとミスを悔いているみたいだな。
まあ、無理もないか。
ミズホ国民では古参の部類に入るマリアだ。
経験値をロスしないことに慣れてしまっている。
一方で西方人はかなりの割合で経験値がレベルに反映されないようになっていく。
レベルが上がれば上がるほど、その傾向が強くなってしまうし。
でなきゃ、ベテラン冒険者のレベルはもっと高いはずだ。
少なくとも英雄クラスのレベルに到達している者はもっと多くいても不思議ではない。
「動き出しましたよ」
クリスが告げてきた。
再び覆面男の対戦相手の方から仕掛けたようだ。
「ふむ、戦い方を変えるか」
シヅカが呟いた。
ツバキがその呟きに反応する。
「よほど初手に面食らったようだな」
「戸惑っている間に色々と考えたのでしょう」
カーラが追随した。
「でもさー、付け焼き刃なんじゃない?」
レイナが疑問を口にする。
男の基本スタイルが慎重派のそれだと思っているからだろう。
それは間違いではない。
初手の踏み込み具合からしてそうだったしな。
間合いの取り方。
体重の残し方。
そして腕の振り。
それらを総合的に見れば、どっしりと構えてジワジワと相手を追い込む慎重派のそれだ。
にもかかわらず今は覆面男の側面に回り込むようにフットワークを使っている。
「言えてるなぁ」
同意したのはアニスだった。
「なんや、ぎこちないで」
「確かにな」
リーシャも同意する。
他の面々も頷いていた。
真っ向からの反対意見は何処からも出てこない。
「見様見真似の割には様になっている方かもしれない」
ただ、レオーネがそう評価していた。
「引き出しが多いというのも頷ける話だな」
ルーリアが先程のエリスの言葉を引っ張り出してきた。
「そうなんですか?」
いまひとつ分からないと言いたげにキョトンとした顔でリオンが聞いている。
「新しいことをしようと奮闘しているようには見えますが……」
そんな風に言うリオンの方を見たルーリアがフッと穏やかな笑みを浮かべた。
「未熟な者であれば、もっとバタバタするはずだ」
確かに男は不慣れな動きを見せながらも攻撃の形を取っていた。
スピードを落とさず回り込みながら上下にパンチを散らしている。
素人目にはぎこちなさは分からないのではないだろうか。
リオンも見ている間に「言われてみれば……」という顔になっていった。
どうにか形になっているのにも理由があるのだと気付きつつあるようだ。
「今までの経験があればこそだな」
レオーネがそう言うと──
「うん」
リオンはしっかりと返事をした。
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