1375 憎しみを糧に
ベッキーは認めない。
いや、聞く耳を持たないと言うべきだ。
既に感情のすべてが憎悪に塗り固められている。
俺の言葉を理解してはいるだろう。
直に鑑定した事実を告げるごとに怒りが増していたからな。
ただ憎しみを向ける相手は誰でもいいように見える。
「なるほどな。
とっくの昔に壊れていたか」
ベッキーは無反応だ。
肯定も否定もしない。
それが俺の言葉通りであることの証と言えよう。
現状は暴走に近い状態だ。
本来であれば、とっくに攻撃されているはず。
自制などできるはずはないからな。
「何時まで手綱を握っているつもりだ?」
俺は女に呼びかけた。
「……………」
ベッキーからの返事はなく、反応もなかった。
「こう言わないとダメか?
ベッキー・ヴェンジェンスはもう死んでいる」
俺は決定的なことを言ったはずだ。
「……………」
それでもベッキーは、ただひたすらに憎悪の視線をぶつけてくるのみだった。
「変だろう?」
それでも俺は止まらない。
「ダンジョンに潜って1人だけ生き残ったんだぞ。
ベテランパーティがそんな状況に追い込まれたんだ」
「……………」
やはり返事はない。
ベッキーからの変わらぬ殺気だけが返答だ。
だが、更に荒ぶることもない。
「にもかかわらず誰も足跡を追えないなんて不自然じゃないか?」
「……………」
殺意の波動は続いている。
「普通、そういう状況で助かるなら騒ぎになるはずだ」
「……………」
ベッキーの怒りは止まらない。
「だが、そうはならなかった。
見た目を変えてしまえば、どうとでもなるよな」
「……………」
やはり怒りは止まらない。
まるで機械が作り出しているかのように一定のままだ。
「心を壊して魂だけを縛り付けたんだったな」
俺は核心を突いた。
「……………」
が、答えは返ってこない。
「パーティを全滅させた時に非道の限りを尽くした」
有り体に言ってしまえば、拷問でいたぶりぬいたということだ。
「……………」
自らも同じことをされ、仲間の阿鼻叫喚も見せつけられる。
瀕死の状態にまで追い込まれても終わりではない。
どんなに痛めつけられても死なないように再生されるからだ。
それをひたすら繰り返した。
「ベッキー・ヴェンジェンスの心が死ぬまでな」
「……………」
「自我崩壊する瞬間に悪夢の世界へ取り込み肉体だけを生き長らえさせる」
そういう呪いがある。
「……………」
「壊れた心に悪夢を見せ続ける」
魂を逃がさぬために。
「……………」
「魂が擦り切れるまで憎悪を引き出し続けるためにな」
そういう感情を好むモノがいる。
それがこの女だ。
「……………」
「人を自我崩壊に追い込んで弄ぶのは楽しいか?」
俺には理解不能である。
呪いにまみれても平然としていられるような輩だしな。
根っからのサディストなんだろう。
コイツのは筋金入りだ。
限度などというものはなく、呪いをかけた相手が消えるまで憎悪をしゃぶり尽くす。
「……………」
「ああ、貴様にとっては食事だったか」
胸糞の悪くなる嗜好をしている。
だから吐き出すように言い放った。
「……………」
それでも変化はない。
ベッキーは殺気を浴びせてくるのみ。
女は動きを見せない。
「夢魔ベティ」
それが女の名だ。
ベッキー・ヴェンジェンスの中に隠れ潜む悪魔。
「……………」
名を言い当てても返事はない。
だが、殺気の噴出がピタリと止まった。
瞳の色が碧から真紅へと変わっている。
カラーコンタクト風に幻影魔法を使った誤魔化してはいるがバレバレだ。
レベルを上げたエルダーヒューマンの視力なら見抜くことができる。
【天眼】スキルに頼るまでもない。
「表に出てきたか」
ベッキーの憎悪を内側へ引っ込めたのだろう。
自分が表に出てこないとマズいことになる判断したようだ。
「封印されちゃ堪らない、か?」
人の内側に潜むのと表層意識に出てくるのとでは逃げやすさが違ってくる。
逃げ遅れて封印されてしまえば詰みだ。
悪魔といえど、いや悪魔だからこそ逃げられなくなってしまう。
こういう形で封印されるということは契約を結んだに等しいからな。
一方的な契約だが中から出てこなければ封じられることを承諾したことになる。
拒否するためには完全に封じられる前に外に出る必要がある訳だ。
深いところに潜り込んでいたのでは脱出が困難になる。
何でもない時に出てくるのとは訳が違うからだ。
封印がかけられ始めると、まず重みが増す。
水中に放り込まれるようなものだ。
抵抗があるために素早い移動ができない。
しかも、その中は複雑な水流で渦巻いているような状態である。
押し戻されないように水流を見極めてかいくぐらねばならない訳だ。
出口近くにいるのと奥深くにいるのとでは脱出のしやすさは大きく異なる。
迷路を想像すればいい。
出口が見えている場所と脱出経路を探さねばならない場所では明確な差がある。
夢魔ベティが逃げる算段をするのも道理というもの。
封印という契約を結ばれてしまったら脱出はできなくなる。
契約を重んじ厳守するのが悪魔だからな。
「……………」
真紅の瞳となったベッキーだったものが無表情で睨みつけてきた。
憎しみも怒りもない。
だが、敵意は感じる。
「真の名を人間の姿でいる時の偽名としておけば言い当てられることもないと思ったか?」
これこそが夢魔ベティが警戒して表に出てきた理由だ。
ただのベティなら意味はない。
夢魔であると看破され真の名まで言い当てられたことこそが問題なのだ。
たったそれだけのことで封印という名の契約は容易く結ばれてしまう。
牢の鍵を無条件で渡したようなものである。
仮に逃げ果せても真の名を用いて召喚されれば応じるしかない。
その時は結界で包囲された万全の状態で封じ込まれてしまう。
すなわち詰みだ。
このように悪魔にとって真の名を知られることは致命的なことである。
『他の者には何の意味もないことだがな』
名前を知られたくらいで封印されたりなんてことはないのだから。
だが、悪魔にとっては大いなる制約となってしまう。
だから夢魔ベティは逃げなかった。
この場であれば、まだ何とかなると判断しているはず。
丸め込もうとするか。
それとも力尽くで俺を始末しようとするか。
コイツの性格の悪さからすると前者の可能性が高い。
対等か己にやや不利な条件での契約を持ちかけて油断を誘い、最終的には逆転する。
それが理想型だろう。
裏をかかれる恐れもあるがな。
「……………」
現に夢魔ベティの返事はない。
表情も変えない。
「与える情報は少しでも少なく、か」
如何なる状況になろうと対応できるよう俺の出方を見極めようとしているようだ。
「用心深いようだが、バレバレだぞ」
「……………」
この程度で尻尾を出すほど迂闊ではないのは分かっている。
「瞳の色が変わっていることにも気付いているんだがな」
ピクリと夢魔ベティがわずかに表情を変えた。
「貴様、何者だ」
ようやく喋った。
ベッキーよりも濁声になっている。
「通りすがりの賢者だ」
「フン、戯れ言を」
不機嫌そうに鼻を鳴らす夢魔ベティ。
「だが、まあいい。
それくらい太々しい方が私の好みだよ」
そう言うとニンマリと笑みを浮かべた。
人によっては妖艶と受け止めるかもしれない。
だが、俺にはヘドロをなすりつけられたような気持ち悪さしかなかった。
「私と契約しなさいな」
やはり丸め込みに来た。
上から目線なのはハッタリのつもりか本来の気質によるものか。
どちらかは不明だ。
「そういうの、いらないから」
つい、日本人だった頃のことを思い出していた。
実家に勧誘に来たあれこれをシャットアウトしていたことを。
「素っ気ないのね」
しつこいのが目に見えているからだ。
特に電話の類はな。
「面倒くさいのは嫌いなんだ」
「だったら尚のこと契約するべきだわ」
またしても気持ち悪い笑みが向けられた。
当人は色気があるとでも思っているようだ。
「面倒事なんてお金と地位があれば解決できるわ。
他にも女や酒も望むままのものが何でも手に入るのよ」
「何でもか?」
「ええ、そうよ」
夢魔ベティは楽しそうにケタケタと笑う。
この笑い方も受け付けなかった。
奴は俺が質問したことで食いついてきたと思ったのだろう。
そこが気に入らない。
「だが、断る」
「なっ!?」
「聞こえなかったのか?
だが、断ると言ったぞ」
読んでくれてありがとう。




