1114 衝撃プライス? プライスレス?
俺は西方の出版事情には詳しくない。
それでも100巻の同時刊行が異常事態であることは分かる。
誰もがそう思うだろう。
故に作者の正体が気になった訳だが。
「凄いよね」
「凄いというより非常識だと思うが?」
爺さん公爵が視界の片隅で激しく頷いていた。
物語を読んだ訳ではないだろう。
少なくともカーターのように入れ込んでいる訳ではない。
だからこそ同時刊行の事実だけで充分に非常識だと判断できると言うべきか。
俺はそんな風に考えたのだが……
「確かにそうかもね」
意外なことにカーターも認めたのだ。
『気付いてはいるんだ』
まあ、カーターが気付かないはずはない。
夢中になりすぎて視野狭窄になっているのでもない限り。
そこを懸念したのだが、そういう心配はないようだ。
「コスト度外視だし」
「そうなんだ」
「凄いんだよ。
1冊120ゲートなんだけどね」
銅貨1枚が1ゲートだから銀貨1枚と大銅貨2枚か。
日本円だと1200円相当だ。
『ん? 偶然か?』
日本で売られている新書サイズのラノベの税抜き価格がそれくらいだったはず。
何だか嫌な予感がしてきた。
ぶっちゃけると、転生した日本人が関わっている気がしてならない。
まあ、これだけで断定する訳にはいかないだろう。
『偶然という可能性もないとは言い切れないからな』
コピー機で増刷する薄い本並みのボリュームなんてこともあり得る訳だし。
何しろ100冊を同時刊行しているのだ。
紙が貴重な西方ではその可能性が高いと言える。
だが、それでも120ゲートで買えてしまうのは衝撃的なのではないだろうか。
分量が少ないのは仕方あるまい。
そのぶん低価格ということで購入のためのハードルが下がるのだからな。
それに1冊でも買わせることができれば、売る側にはメリットがある。
なによりもまず在庫が減るのが大きい。
これが従来通りの高価な本では何年も売れないことだって考えられる。
ある意味、塩漬けにしているようなものだ。
その恐れが低確率になるだけでも販売者はありがたがるだろう。
実際には何冊売れば利益が出るとかの話になってくるとは思うのだが。
細かなことを言い出すと切りがないので、ここでは考えない。
とにかく売れた数だけ販売者の心理的負担が減るのは確かだ。
次に、買った客が気に入れば次も買う可能性が出てくる。
何しろ本にしては低価格なのだ。
ちょっと稼ぎのいい冒険者にも買えるくらいである。
初心者扱いをされなくなる水ランクだと無理をすれば続きを買うことができるだろう。
初心者を卒業するかどうかの段階に来ている黄ランクだと難しくなってくるが。
昼食を何回か抜けば1冊ぐらいなら買えると思う。
そんな感じだ。
幅広く売れることで潜在的な購買層を開拓できる意義は大きい。
高いから買えない。
ならば買えるくらいの価格に分割してしまいましょうってことだ。
本でそれをする者がいなかったのは、売る側が売れないと思い込んでいたからだろう。
それも無理はない。
西方の識字率は高くないからな。
風と踊るの面々がそうだった。
サブリーダーのジニアによれば簡単な文章なら読めるということだったが。
もちろん、今は読めるようになっている。
少しでも読めるなら、これも販売者にはしめたもの。
文字や単語を覚えるためにお手頃価格のこれをどうぞと言えるからな。
買った方も薄いとはいえ貴重な本を購入した以上は頑張って言葉を覚えようとするはず。
覚えれば次を買う可能性も出てくる。
中身が面白ければだが。
真面目で勉強熱心な者であれば、価格の安い教材として買うことも考えられる。
『そういう者は少ないだろうけどな』
やはり中身が勝負所になるだろう。
西方では口コミこそが販売を拡大させる大きな要因である。
現代日本のようにテレビCMなんてない訳だし。
ネットもないから爆発的に拡散するはずがない。
『ミズホ国じゃないんだから』
とはいえ、うちだってテレビ放送は始まったばかりでCMなんて入れてない。
ネットもそういう活用法はしていないし。
『もうちょっと、そのあたりをテコ入れするかな』
それはそれで誰かに仕事を割り当てる必要が出てくるだろうけど。
放送局のドタバタで懲りたので慌ててどうにかするつもりはない。
誰かに相談して丸投げするのもありかもしれない。
ふと、エリーゼ様みたいなことを考えてしまった。
『いかんな、ツッコミメールが来そう』
本人からクレームの来ないうちに緊急回避だ。
念のために謝っておこう。
『ごめんなさい』
謝るといっても心の中での話であり、念話を送った訳でもない。
にもかかわらず脳内スマホのショートメッセージ着信音が鳴った。
[もち、許すわよ~]
『……………』
やはり見られていたようだ。
今回はエリーゼ様の子供である元日本人組は同行していないのにね。
油断も隙もあったものではない。
これ以上、エリーゼ様のペースに巻き込まれる訳にはいかない。
俺は気持ちを切り替えた。
とにかく西方でものを売る場合、評判になることが肝要である。
売れる確率も上がるからな。
「やっぱり、ハルト殿でも驚くかー」
考え込んでしまった俺を見て、カーターが勘違いしたようだ。
「売価120ゲートは異常事態だよね」
「しかも、1巻目を購入するとオマケがついてくるんだ」
「景品かー」
「そうだよ、何だと思う?」
カーターが肯定して聞いてくる。
本にオマケというと付録である。
子供の雑誌だと昔は切り抜いて工作するものだったりした。
もちろん、それだけじゃなかったとは思う。
幼い頃の記憶を軽く掘り返して、すぐ思い出せるのがそれだけだったのだ。
他というと大人の女性向けの雑誌。
ポーチなんかがついてきたんじゃなかろうか。
そういう類の雑誌には縁がなかったので実物を見たことはないのだが。
どちらにしても、そういう類いのものではない気がする。
本の売り上げを伸ばすにしても価値観の違いを考えると……
『2巻目以降も購入する意欲が湧くものが妥当か』
「ふむ、サイズや重さは本と変わらないものだろうな」
人によっては最初から何冊か買っていくこともあるだろうし。
そうそう買い込む者がいる訳ではないとしても、皆無ではない。
ならば、それを促すようにしておけば少しでも可能性は上がる訳だ。
本がオマケになることも想定すべきだろう。
続きが気になるなら、1冊分を更に読めるのはありがたい。
ただし、続きをオマケにするのは赤字のリスクが高くなる。
好みに合わなかった者がネガティブな口コミを広げかねないからだ。
「万人受けするならともかく、安直に続きをオマケにはできないだろう」
「へえ、そういう発想もあるんだね」
カーターが感心したのは続刊がオマケになる点についてだと思われる。
「それでいて続きが売れる助けになるようなものとなると……」
興味本位で買った者が読むのを途中で投げ出さない工夫が欲しいところか。
挿絵の代わりになる画集とか。
そこで、ふと思い出した。
『脳内スマホの倉庫管理アプリで使われているカードは直感的に見やすくなってるよな』
あれは写真だからというのもあるだろう。
とはいえ絵でも充分に伝わると思う。
そこに絵が何であるかを示す単語が書かれていれば……
『単語をひとつ覚えることができるな』
読みは分からないから発音はできないが。
『いや、発音記号も記載すればいいのか』
誰もが知っているようなものをいくつか絵にすれば、発音記号も覚えられそうだ。
それで読み書きができるようになる者も出てくるかもしれない。
そのあたりは本人の意欲と能力しだいになってくるだろう。
だが、ゼロではないはずだ。
「図鑑なんかは考えられるかな」
下手をすると本よりも高くつきそうだけど。
「図鑑? 図鑑って何だい?」
キョトンとした感じでカーターが聞いてきた。
『そっか、こっちの世界にはないのか』
無いものを説明するのは難しい。
「絵が描かれている簡単な辞典みたいなものだな」
ダメ元で言ってみた。
「おおっ、まさにそれだよっ!」
どうやら通じたようだ。
「これは良いよね」
そう言いながら、そこそこ厚みのある本を引っ張り出してきた。
パッと見は図鑑や辞典とは言い難い。
表紙が厚みのある革の新書みたいなサイズだ。
厚みも新書ラノベの半分より少ないだろう。
『100ページあるか無いかだな』
それでも、これがオマケと言われて信じる西方人はいないだろう。
コストカットの工夫はしているようだけど。
表紙は革張りではなく1枚の革だし。
無地でタイトルさえ書かれていないのはオマケだからか。
いや、よく見れば凹凸がある。
『エンボス加工をしているのか?』
とにかく凹凸を見る限り絵が描かれているのは確実だ。
文字の類は見られない。
絵の方は枝葉の多い広葉樹に見える。
凝った作りのようにも見えたが、確認する前にカーターがオマケ本を開いた。
表紙の確認はおあずけである。
だが、できれば表紙をもう一度ちゃんと確認したい、とは思わなかった。
俺の視線は本の中身に釘付けである。
別にエッチな絵が描かれていたりする訳じゃない。
「ほら、凄いだろう」
自慢げにカーターが本のページをパラパラとめくって見せてきた。
トレーディングカード風の枠内に絵と文字が配置されている。
ちょっと変わったデザインだが、図鑑に分類できるだろう。
大きな文字で書かれた名前が一番上に来るようになっている。
そのすぐ下にカードの半分を使って絵が描かれていた。
そして小さな文字で名前と発音記号。
更に短めの説明文が続く。
最後に小さいアイコンがいくつか並んでいた。
果物はリンゴっぽいアイコンと木か草のアイコン。
オレンジなら木のアイコンで、イチゴなら草アイコンが描かれている。
他にも食べ物であればナイフフォーク、飲み物はコップという具合。
コップアイコンにはバリエーションがあって工夫されていた。
通常はコップひとつだが、アルコールだと乾杯するようにコップを向かい合わせている。
果汁が絞れる果物の場合は滴を垂らすコップアイコンだった。
『食べ物関連が多いな』
読む者に与える心理的影響まで考慮しているようだ。
しかも共通のフォーマットのため見やすくなっている。
そのためのカード風デザインなのだろう。
読んでくれてありがとう。