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第五話 普通

 第五話 普通


 その後、ジロウは雑貨屋の契約社員に応募する。母の根拠のない「これアンタに向いてそうやん」という言葉に従ってだ。

 面接時、面接官は二人いたが、その内一人はジロウに対してかなり好印象を抱いた様子であった。

「タナカ君、声がいいねえ。礼儀正しいし!」

 ハキハキとした大きな声と言葉遣いが気に入ったようだ。

 ちなみにジロウは事務部門を応募したが、雑貨屋は配達も募集しており、原付に乗れるかどうかの確認もされた。

 一応免許は持っているので、法的、資格的に言えば乗車は可能である。なので「はい、乗れます」と答えた。嘘は言っていない。


 後日、事務での採用は不可能だが、配達の方でなら採用可能、との連絡がきた。

 どうしても仕事が欲しかったので、その場で許諾。配達の仕事に就くことになった。


 通勤初日。

 まず原付が乗れるかどうかの確認。

 乗れなかった。

 アクセルとブレーキを教えてもらい、狭い駐車場で練習。

 いきなり店員の車にぶつかるという、ごく軽度の交通事故を起こす。

 相手の車に軽度の破損。乗っていた原付に軽度の破損。

「すいません……」

 俯きながら何度も謝った。


 その後の練習により、多少は上達。直接指導してくれた先輩曰く、上達速度はかなりのもの、とのこと。

 ただし元が元なので、はっきり言って現段階では使い物にならないようだ。

 救いと言えば、面接で愛想のよかったオカダ店長が励ましてくれたことか。

「今日のことは気にせんでええから! 帰ってゆっくり休んだらええわい」


 通勤二日目。

 配達コースを覚えるため、走行する先輩についていく。

 まるで追い付けない。

 手が痛い。腰が痛い。眼が痛い。足が痛い。頭が痛い。

 何度か転倒したり追い付けなかったりで先輩を困らせながら、なんとか終業まで辿りつけた、という感じだ。



 通勤三日目。

 先輩から初日、二日と立て続けに「いかにもカギを失くしそうな場所に入れてある」と言われたので、カギの保管場所を変更した。

 このカギは個人ロッカー用のもので、無いとユニフォームに着替えられない。つまり仕事ができない。保管は自己管理。


 いかにもジロウが失敗しそうなシチュエーションだ。故に、何度も確認してカギを忘れないように心がける。


 通勤前に確認。新しい保管場所に、カギは入っているはずだ。

 通勤中。カギが入っている場所を確認。ちゃんと持ってきていることを確認。

(流石にこれ忘れたらヤバいからな……)

 通勤電車から降りた後。またも確認。

 カギが無い。忘れてきたようだ。

「?!」

 信じられず、また確認。やはり見つからない。

(嘘やろ?! あんなに確認したのに!!)

 また確認。もう一度確認。ズボンのポケットも上着のポケットも調べた後にまたバッグを確認。無い。

 青ざめながら冷や汗が体温が上がっていく。

 カギを入れるための小さい袋は持ってきている。これの中にカギが入っているはずだった。だがカギはない。

 そこにきてようやく、カギを袋に入れないまま持ってきていたことを思い出す。

 カギは今、家の中だ。

(……………………)

 この状況が信じられなかった。こうならないように気を付けていたはずなのに。

(何でなん?! 何で……? 何で確認せんかったんオレ……!)

 何度も何度も確認したつもりだった。しかし、その確認の仕方そのものが間違っていたのだ。

 もう引き返している時間はない。遅刻するか忘れ物をするかの二択。

 ジロウは忘れ物をしてでも遅刻しないことを優先し、急いで店長に報告しに行く。

「あれほど忘れるなって言ったろうが!」

 当然ながら叱られる。面接日からの愛想の良さが嘘のように血相を変え、店長は怒りの溜め息を何度も吐いた。

「ぁ、すいません……あの、荷物、どこに置いといたら……」

「あァ?! そのへんに置いとけや!」


「………………」

 また失敗した。

 原付が乗れないのは仕方がない。元々乗れないのだ。

 だがカギを忘れないように気を付けるくらいはできたはずだ。しかし、それもできなかった。

 他の従業員から「忘れたん?!」「それじゃ仕事にならんやろ……」といった声がかけられた。

 カギを忘れるのが信じられない、といった感じだ。

 それもそうだ。普通なら、仕事に必須なものを忘れたりしない。

 普通なら。


「………………」

 努力はした。タイミングその他色々を間違えてしまったが、それでもジロウなりに頑張った、はずだった。

 それでも、「普通」の最低限に届かなかった。確認をするという努力そのものが何の意味も持たなかった。

「………………」

 なぜ、あれほど注意してもミスをするのか。

 どうして、あんなに注意しなければと使命感を感じながら、ちゃんとカギがあるかどうかを確認できなかったのか。

 頑張ったはずだった。

 だからこそ、心が折れた。

 自分が努力をしても何の意味も無い。普通の最低ラインに届きさえしない。

 普通のハードルが、あまりにも高すぎる。

 とても、とてもとても、とてもとてもとてもとても付いていけない。

 才能が違い過ぎる。

 そう思わざるを得なかった。


 昼休み。昼食を取りながら、せめてもの心の安定を求め、母に「『普通』についていくのはとても無理です」メールを送る。

 返事が来た。

『忘れ物をするくらい、誰にでもあります。あなたは普通です』

 あなたは普通です。その言葉を見た瞬間、呻き声を上げた。


 普通の人に「信じらない」という印象を与えることの、一体どこが普通だというのか。

 気を付けて、気を付けて、気を付けて、気を付けて、気を付けて、更に念押しに気を付けて、それでも未就学児レベルのミスをする。

 それが珍しくない生活を送る。

 それのどこが普通だというのか。

 気が狂いそうになり、叫びたくなるが、職場なので我慢する。

 それでも呻き声は抑えられない。

 他の従業員たちが同情や軽蔑、異様なものを見る目で見ていた、気がする。直視していないのでよくわからない。


 目に涙を溜めながら、なんとか無事故で終業を迎える。


 死にたい。

 死んだ方がマシ。

 生きていても何の役にも立たない。

 本気でそう思った。そう思わざるを得なかった。思考が自然とそうなっていった。

 帰宅までの間、何度も泣きそうになる。電車から降りた時などはいよいよ零れ落ちそうになるが、意外と何とかなった。

 かといって、ただ涙が流れないだけ。むしろその分だけ鬱屈した感情が秒刻みで加算されていく。

 そしてマンションの自室に着き、入った瞬間。

「うぅぅぅぅぅぅ……!」

 両の眼から一秒とかからず零れた。

「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」

 そのまま蹲り、号泣する。それしかできなかった。

 他のことなど考える余裕は一切ない。ただ蹲り、悲痛のまま床に向けて叫び続けた。

「あ――――――――ッッ!! あぁぁぁぁ――――――――――――ッッ!! あがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!! ぅあ――――――――――――――ッッ!!」

 うがい。嘔吐。異形の鳴き真似。そんなものを連想させる音が喉から搾り出される。

 とにかく叫んだ。涙と鼻汁と唾液が床に溜まり、何十分と経ち、まだ叫ぶ。

 感情に任せて物を投げる。開閉式の携帯電話が床に凹み傷を作り、バキリという音を立てて跳ねた。


 それからまた叫び続けた。時間がどれほど経ったか分からない。

 ただ、叫び続けたことで少しは理性が戻ってきた。できるだけ冷静に、今自分がすべきことを考える。

 とても仕事ができるような状態ではない。そう判断し、仕事先に連絡しようとする。

 携帯を拾う。全力で投げつけたが、幸いにも全壊はしていない。キーのある側と液晶画面側を繋ぐ関節のような部分は壊れているが、壊れた関節部からコードが見える。

 これが傷つかなければ大丈夫かもしれない。そう思いボタンを押すと、ちゃんと作動した。

 早速電話を入れようとする。が、少し考える。動くとはいえ、これだけの破損だ。途中で不具合が起きるかもしれない。そもそも繋がらないかもしれない。

 試しにと、母に電話をしてみる。

「……これ、声聞こえてるんですか」

 とりあえず声は聞こえるようだ。確認を終え、仕事先に電話しようとした時、不審がった母が安易に過ぎる言葉を送ってくる。

「ちょっと待ちなさい。何があったんか知らんけど、アンタは普通……」

「『普通』って言うなフツウッテイウナァァァァァァッ!!」

 普通という言葉を聞き、発狂して声を張り上げる。電話どころではなくなり、負の感情に支配されて再び塞ぎ込んで叫び続ける。

 しばらくすると母が入室してきた。

「何を落ち込みよんか知らんけど、忘れ物くらい誰だってするわい! それくらい『普通』よ!」

「ああああああああああああああ!! あがあぁ――――――――――――――――――――――ッッ!! どこがぞッッ!! オレのどこが普通なんぞッッ!! 何でお前は――――ッッ!! そうやって無理矢理ッッ!! オレを普通にしようとするんぞ――――ッッ!! 何でオレのことを分かろうとせんのぞ――――ッッ!! あ――――――――――ッッ!! あぁぁぁぁ――――――――――ッッ!!」

 一体今まで、何を見てきたのか。自分の子供の何を以って普通と言うのか。全く理解できず、激情のまま母を名乗る者の首を掴みかかった。

「オレのどこが『普通』なんぞッッ!! 言ってみろやッッ!! 言ってみろや――――――ッッ!! あ――――――――ッッ!! あ――――――――――ッッ!! 」

 掴んだ首を何度も壁に、床に叩き付ける。「普通ではない」という許しが欲しくて何度も何度も何度も何度も何度も何度も乞う。

 一体どこが普通だというのか。一体何を以って普通だと言うのか。全く理解できず、自分を理解しようとしない者への怒りを両手に込める。

 殺す。自分をただ追い詰める外道など殺す。そう思い首を絞め続けたが、振り解かれる。

「アンタは『普通』よ!!」

「あァァアァアァぁあぁァァァァァァァァァァァァァ――――――――――――――――――ッッ!!」

 頭を振り回し、腕を暴れさせ、啼き叫ぶ。

 どんなに必死に頑張ってもスタートラインにすら立てない。

 なのに同じようにスタートし、走り、ゴールすることを求められる。それができて当たり前だと信じて疑われず普通だ普通だと言われ続け普通ではないのに普通だと言い包められ自分を普通だと言い聞かせ頑張ってそれでも駄目なのにまだ普通を強要され普通を押し付けられ普通を余儀なくされ普通に引き摺り回される。

 とても耐えられない。

 もう無理だ。

 こんな思いをするくらいなら。

「こんなんなら……!! こんな人生なら…………ッ!!」

 床を何度も叩きながら、生まれてきたことを後悔する。

「生まれてくるんじゃなかった…………ッッ!!」

 台所の引き出しを開け、母を名乗る外道へ一生分の呪いを込めて睨め付ける。

「よくもオレなんか産んでくれたな……!! この……糞外道ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 手にした包丁で首を刺す。数瞬の激痛の後、人ひとり分の生が潰えた。


 忘れ物をして気が狂うのが普通なら、自殺するのも普通だよね。


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