第五話 ~狙われた大食い少女~
翌朝。
神服観音はお味噌汁の
匂いで目覚めた。
一瞬、寝ぼけていて誰がそれを作って
いたのか分からず、寝間着にしている
白い着物のままで寝台から起き上がり、
ふらふらと部屋を出ていく。
「あ……」
「お早う、観音。今起こしに
行こうと――」
一瞬悲鳴を上げかけ、そこでようやく
観音は目の前にいる男が、自分が助手に
した相手だと気づいた。
律儀にも味噌汁を作ったのは、自分が
通う清心女学校の教師である、案栖誠一郎だ。
「ふうん、いい心がけじゃない。私より早く
起きて朝食を作っているなんて」
寝ぼけた事をおくびにも出さずに告げる
観音に、誠一郎は少しむっとなったものの、
これくらいで怒っていては彼女と一緒に
過ごす事など無理だと判断し怒りを鎮めた。
「ああ、一応君の助手みたいだからは俺は」
「一応じゃなくて、あんたは正真正銘あたしの
助手なの! ……着替えて来るから、それまでに
朝食の準備して置きなさいよね!?」
何が気に入らないのか誠一郎には分からない
けれど、観音は長い髪を振り乱すようにしながら
部屋に引っ込んだのだった――。
観音の部屋は、昨日誠一郎が片付けたので
以前とは違い綺麗になっている。
古い和風の建物な妖怪探偵事務所なのだ
けれど、彼女の部屋には舶来品と思われる
鏡台や箪笥などの品々が置かれていた。
寝る場所も、床に敷いた布団ではなく
舶来物の品のいい木製の寝台だ。
箪笥から着物と下着を取り出すと、観音は
手早く身に着け、そしていつもの桃色の
リボンで髪を総髪に結わえた。
今日の観音の着物は赤と白の矢絣の着物に、
紺色の袴だった。
居間に戻ると、誠一郎がお味噌汁に炊き
立てのご飯、茄子の糠漬け、黄色い沢庵に、
昨日の夕飯の残りの肉じゃがという献立の
朝食を出してくれる。
ちなみに、糠床は元々妖怪探偵事務所に
あった訳ではなく、誠一郎が持ち込んだ
私物である。
観音としてはげっ、と思うが、彼は
毎日のように糠床をかき混ぜている
らしかった。
「よっ、観音、誠一郎」
ちゃっかり沢庵をつまんで放り込み
ながら現れたのは、観音の家で飼う――
否保護する事になった猫又だ。
名前は御霊。ぽりぽりと沢庵を
齧りつつ、生意気にも観音にお早うじゃ
なくて遅ようじゃねえの?などと
言っている。
「なんですって!?」
「だってさ、普通は女の方が早く起きて
いろいろやるべきだろ?」
「男女差別するんじゃないわよ、男が
そういう事をやったっていいでしょ!?」
「ああ、もうっ! 喧嘩をするな!
うるさいぞ、お前ら!!」
御霊と観音はここで過ごす事になってから
よく喧嘩をする。それを止めるのは自然と
誠一郎の役目になっていた。
憎み合っている訳でもないだろうが、よく
言いあいになるのだ。
誠一郎はため息をつきながら、御霊の前にも
同じものを置いてやり、自分の分も整えて食べ
始めた。
御霊は猫の妖怪だから魚だけを喰うのだと
思いきや、肉もご飯も漬物も普通に食べるの
だと昨日本人が言っていた。
こうして食事を終えた二人は、御霊を連れ
(彼は人には姿が見えないため)女学校へと
向かうのだった――。
とはいっても、教師でありしかも男性
である誠一郎が、女学生の観音と一緒に
登校する訳には行かない。
観音が先に行き、少ししてから誠一郎が
行くという事で話は落ち着いた。
観音が一人で煉瓦造りの女学校の門へと
歩いていくと、前方から一人の少女が
歩いて来た。
「――ごきげんよう、神服さん」
ごきげんようは、今清心女学校で
流行っているあいさつだった。
誰が言い出したかは知らないけれど、
皆大体このあいさつを使うのだ。
「ごきげんよう」
お早うでいいじゃないとは思うが、
観音は仕方なく彼女にあいさつを返した。
長い艶やかな、萌葱色のリボンで結われた
黒髪を垂らし、小菊が描かれた緑の着物を
身にまとった少女は、勘解由小路神菜だ。
「リボンが曲がっていてよ、神服さん」
「あっ……」
止める間もなく、白い蝋を思わせる手が
伸びて来た。
観音の少しだけずれたリボンを手早く
結び直し、やがて彼女の手は離れる。
「あ、ありがとう……」
「いいえ、これくらい何でもありませんわ」
上品に微笑むと、神菜はそのまま歩き
去ってしまった。
素敵、と声が上がったので振り向くと、
そこには観音と同じ教室の生徒達が集まって
神菜が消えて行った場所を見つめている。
「なんて、優雅なんでしょうね勘解由
小路様は……」
「桂様も凛々しくて素敵ですけれど、勘解由
小路様もまた違った魅力がおありになって
憧れますわ」
「わ、私は断然ゆ――桂様が一番素敵だと
思います!」
「まあ、巴ったら本当に桂様が好きなのね」
「私は両方素敵なお姉様だと思います。私も、
ああなりたいです」
「つっきーにはちょっと難しいんじゃないの?」
「ゆ、夢を壊さないでくださいよ神無月さん!」
一気に姦なってしまった。
まがれいとに髪を結った、紺と白の格子柄の
涼しげな着物姿の氷名月瞳子、花簪で
黒髪をまとめ、黄色の無地の着物をまとった
樹神菫、黄色がかった白の洋装を身に
まとった天屯巴、紅色の鮮やかな
着物に葡萄茶の袴を合わせた、赤い飾り紐で
黒髪を二つ結びに結った、西園寺翠、
橙の着物に海老茶袴の組み合わせに、おかっぱ
頭の比賀谷月穂が話し合っていた。
その際に、朱色の襟が見える純白の着物に、少し
長めの緋袴を着た、神無月梓がからかって
月穂の頬を膨らませている。
「そういえば、天屯さんは桂様のお家で女給を
されていたのでしたわね?」
「え!? あ、えっと……ええ」
翠は巴とは仲がいいようで、彼女の事はもう
一人の親友である蛍同様、呼び捨てにしていた。
と、菫にいきなり話を振られた巴が迷うように
おろおろし、翠に小さくつつかれて慌てて頷く。
しかし、観音は女学生の誰が素敵だとか、そういう
話には一切興味がないので仲間には入らなかった。
他にも、「くっくっく、闇の呪術師である我に憧れの
存在などおらぬ」とか言いながら、青みがかった
紺色の洋装をまとった、八月一日蛍が
札を手にして歩き去っていた。
彼女もあんまり興味がないのだろう。
当の本人の一人である、暗めの紫の着物の
桂紫子は、ぼうっとしている
のか話は聞こえていないようである。
観音は付き合っていられないとばかりに
教室に向かった――。
その日は何事もなく授業は進んで行った。
お裁縫の授業で、「こんな物何の役にも
立たん!」と蛍が縫いかけの着物を投げ
出して翠に頭を小突かれたり、観音が指を
突き刺して暴れそうになり、巴におろおろと
止められたりはしたけれどそれ以上の事件は
起こっていなかった。
しかし、一つだけいつもと違う事があった。
ぽっちゃりとした女生徒、梅干野淋漓がいない
のだ。
昨日も具合が悪そうではなかったし、家から
欠席するという連絡も受けてはいない。
なので、今日も来るはずなのに姿が見えないの
だった。
お昼の時間になっても、全く食堂に現れない。
「梅干野のお嬢ちゃん、今日はお休みなのかい?」
「……」
恰幅のいい料理長、相原太一が、いつもは
真っ先に来る淋漓の不在に首をかしげていた。
大人しい食堂で働く少年である、百鬼悠翔も
悲しそうな顔をしている。いつもたくさん
食べてくれる彼女がいないのが寂しいようだ。
「どこに行ったのかしら」
「具合が悪くないといいのですけどね」
赤の洋装姿に、黒髪をお団子に結った黒葛原汐莉、
黒髪をおさげに結った青の着物の樋口環も
心配そうに席についている。
他の生徒達も誠一郎もどこか心配そうだった。
御所車の緑色の着物を着た肩までの黒髪の伊藤伽耶、
そして緑の飾り気のない洋装姿の伊藤麻耶も
顔をしかめている。
顔はかなり険しいけれど、ひょっとしたら彼女達も
淋漓の不在を案じていたのかもしれなかった――。
結局、淋漓が現れたのは昼食がもうすぐ
終わるという微妙な時間だった。
太一と悠翔が慌てて彼女に近づく。
「お嬢ちゃん、いらっしゃい。腹が
減ってるだろう? 今持ってくから
座っててくれよ」
「……」
淋漓はいつもと様子が違っていた。
髪を振り乱し、目をらんらんと輝かせる様子は、
普段の彼女とは思えないほどだった。
実際、女生徒の一部と悠翔は怯えて
しまっている。
白百合が描かれた赤の着物が汚れるのも
構わず、獣のような唸り声を発した彼女は
環を突き飛ばすと、彼女が食べている途中の
おむれっとの皿に顔を突っ込みそのまま
犬のように食べ始めてしまった。
いくらたくさん食べるのが自慢のような
淋漓であっても、普段はお行儀が悪くなら
ないように食べている。
この様子は明らかに尋常ではなかった。
「ほ、梅干野、さん?」
「うぐるるるっ!」
「きゃああああっ!」
いきなり突き飛ばされ、足をすりむいて
しまった環が恐る恐る声をかけるも、淋漓が
凶暴そうに唸ると怯えて悲鳴を上げて
しまった。
さらに、淋漓はビーフシチューなど誰かが
食べている途中の皿にまたもや頭を突っ込み、
まさに鬼気迫る様子でそれを食らっている。
「食べ物を、よこせえええっ!」
「や、止めるんだ梅干野! いい加減にしろ!
――うわあっ!」
「伽耶っ!」
伽耶が後ろから羽交い絞めにしようとするも、
殴り飛ばされてしまった。
受け止めようとした麻耶だが、あまりな勢いに
受け止めきれず両方壁に頭をぶつけて気絶して
しまう。
「い、嫌っ!」
月穂が悲鳴を上げてへたり込んでしまう。
しかし、その手に焼き菓子を持ったまま
だったのが運が悪かったといえよう。
淋漓はにたり、と薄気味の悪い笑い方を
すると月穂の元へ歩み寄った。
「――止めて」
動けない彼女の前に飛び出し、その腕を
広げて立ちふさがったのは梓だ。
きっ、と睨みつけて来る彼女に、淋漓は
さらに近づこうとするが何故か伸ばした腕は
弾かれてしまう。
「あんた、何やってんのよ一体!」
「梅干野さん、落ち着くんだ!」
観音がとりあえず気絶させようと、高く
跳躍しブーツで蹴りつけるが、どうやら
淋漓には効かないようだ。
誠一郎の声さえも届かない。
(これも、妖怪とやらの仕業か!?)
(ち、違うみたい……大体、ここらにそんな
凶悪妖怪なんていないわよ。悪戯をする
程度の奴しかいないはずなのに)
小声でやり取りをする誠一郎と観音だが、
相手が妖怪でない以上どうしたらいいのか
分からない。
と、しばらく暴れまわっていた淋漓だった
けれど、急にぴたりと足を止めるとそのまま
倒れ込んでしまった。
その首筋には奇妙なアザが浮かんでいる。
淋漓はすぐに病院に搬送されたが、昏睡状態に
陥った彼女が目覚める気配は、第一の事件の
被害者である少女と同様になかった――。
第二の事件発生です。またしても、犠牲者が
出てしまいました。着物の組み合わせって難しい
ですね、悩みつつ書きました。
次回はまたほのぼのしたシーンも入れる
予定です。