3話 気絶後
窓から風が入ってくる。海から来たその風は潮の香りと夏の熱気を乗せて、すだれの横にかかった風鈴をチリんと鳴らした。しかし、夏の風物詩はこれだけでは無かった。部屋の中央、柔らかそうな布団の上には魂が抜け、もぬけの殻となった男の身体が仰向けに倒れている。普段はキリッとした目も今は白眼をむいていて余計に怖さを増し、彼の目と同様に顔も真っ白に染まっていた。
「どうしてまた気絶したのでしょうか?」
部屋の入り口付近に佇む女性がふと言葉を漏らした。自分が何をしたのか分かっていないようで少し考え込んでいる。やがて思い当たることがあったのか、自分自身にぶつぶつとつぶやきはじめた。
「入ってきたタイミングが悪かったからビックリして倒れたんだと思うのだが……」
決して自分自身が蜘蛛から変身したから気絶したとは思っていない彼女がそう思うのは無理もないだろう。なぜなら、この世界に住む一部の人間は身体を仮の姿に変える術を持っており、しかもほとんどの人間はその事実を知っているからだ。この女性の場合も例外ではなく、男が気絶した原因が別のものだと予想したのも仕方のないことだったのかもしれない。それ故に恐怖で震えていたかずやの前で変身してみせたのだろう。
しかし、自由に変身出来ることは時として危ないこともあるのだ。例えば魔物が人に化け、村に紛れ込み人を襲うなど非常に危険なのである。だから人は結界を張り、魔物特有の魔力を感じ取れるようにするのだ。
かずやの場合も例外ではない。もし仮に男がここを狙う新手の上級の魔物が変身したものだった場合、結界を破って真っ先に狙われるのは自分だと目に見えていた。その際に女性の姿だといろいろと対処しづらいのは言うまでもない。
結局なぜ男がまた気絶し、倒れたのかは女性には分からなかった。原因が分からないまま放置しておくわけにもいかないので、ひとまず医者を呼びにいくことにした。部屋が静寂に包まれる。チリん、とまた風鈴の音がした。
◇◇◇
母親を案内し終わった後、カナは内心動揺していた。なぜ人間の男が結界に反応しなかったのか分からないのだ。あの結界は魔力があろうがなかろうが何かの生き物が入り込むと多少の差はあれど大小構わず感知する優れもので、過去に巨大なサソリが入り込んだ時も完璧に起動していた。それが今回は無かったのだ。動揺するなというほうが難しい。
しばらく動揺を隠しきれなかったカナだったが、母親に伝えたかいあってか幾分落ち着いてきていた。そして冷静に一つずつ考ようとカナは一旦外に出ることにしたのだ。日はまだ高い。風が吹いていることが幸いしてそこまで暑くはないのだが、身体は倦怠感を憶える。静かな日陰を求め、しばらく歩くと蹄の音とともに、カエデ、カリン、タミの三人がやって来た。意外な組み合わせに首を傾げるカナだったが、彼女らの真剣な眼を見てただならぬ気迫を感じとりそのまま立ち止まった。すぐさま三人が馬から降りると、カエデが代表してカナに声をかけた。
「大丈夫、カナ?腑に落ちないような顔してるけどあの男のことで何かあったの?」
それを聞いた途端、カナの表情に焦りと疑問が出た。少し声が上ずりながらもカナはまずは疑問を解決するために口を開いた。
「なんでカエデがそんなことしってるの?しかも、なにそのキラキラした瞳は⁉」
先ほどの迫力はどこへいったのか、そこには目を輝かせて興味心身な様子のカエデしかいなかった。他の二人もあまりの変わりように呆れかえっている。
「それはハーブ二号がアレルギー反応を示したからだよ!」
ハーブ二号とはカエデが乗っている馬のことである。白い毛並みに緑のたてがみを生やしたハーブ二号とカエデはカエデが産まれた時からほとんど一緒でカエデが物心ついた頃には意思疎通が出来るほど仲が良くなっていた。しかしハーブ二号には最大の弱点があり、それはオス全般に対して何かしらのアレルギーがある、というかなりを越してとてつもなく珍しいものだった。幸いこの地域には男がほとんどいない。だからアレルギー反応を示せば侵入者か何かがすぐ分かるのだ。
「それにカナが裸の人を屋敷に連れていくの見たし。それより今度の人間はどこから来たの?」
一瞬の沈黙の後、戸惑いの色を隠しきれていないカナだったが意を決して言葉を放った。
「それは…………。砂漠の向こうからよ」
◇◇◇
「それで、彼の容態はいかがかしら、先生?」
凛とした玉のような声が響いた。黒髪の美女は布団の横にかずやを挟むようにして医者の前に座っている。しかしそこに医者の姿はない。あるのは小さな手鏡だ。紫と白の花の模様がついた奇妙な楕円形をしたその手鏡からは強い魔力が感じられる。すると、鏡の中に白い服に身を包んだ年老いた女性が写った。目尻が深く刻まれた母性感溢れる女性で白髪と目もとのシワ、笑った時に出来る頬のシワ以外はまだ若々しく見えるほど彼女は整った顔をしていた。
「しっかりと呼吸してますよ。健康そのものです。ひどかった日焼けも今はこの通り綺麗さっぱり無くなっています」
布団の上には先ほどまで青白い顔をしていたかずやがすやすやと眠っていた。表情はまだ険しいが顔色は良くなっているようで女性はホッと胸を撫で下ろした。
「先生、この方はいつ起きるのですか?いろいろと聞きたいことがたくさんあるのですが、また気絶されたりすると面倒です」
先ほど気絶されたのが少し気になるのか、女性は今度はいつ話せるのか聞くと医者は微かに悩む素振りを見せるとゆっくりと口を開いた。
「すぐに起こせますよ。まあ、痛みも伴いますけど」
鏡から黒いオーラがこぼれ出たかと思うと、次の瞬間には鏡が浮遊しはじめた。やがて男の頭上につくとばちばちという音とともに、小さな閃光が弾けた。その閃光は真っ直ぐに男の身体へ落ち、先ほどまで寝ていた男を起こした。まるで悪い夢を見た後のような素振りを見せた男は辺りをキョロキョロと見渡し小さな悲鳴をあげた。
「なんで病院じゃないんだーーー!!」
男の雄叫びは部屋中を木霊し、海を超え、空を飛ぶ勢いで世界に響き渡った…………かもしれない。