戯言と独白
下足場で靴を履き替えていざ帰らんとしていると後ろから呼びかける声がある。
「かーい! 海ー! 聞こえてんだろー。帰ろーぜー。まーてーよー!」
まずい。
俺はなんてタイミングが悪い男なんだ。
声の主は聞き間違うわけもない楠宮御影のものだった。俺は楠宮に一瞥をくれてすぐさま踵を返し歩みを開始したが、楠宮は逃げる草食獣を捕らえんとする凶獣の如きスピードで地面をかけてきた。つまりは走ってきたわけだ。
「よう。奇遇だな。会いたかったぜ」
「よう。奇遇だな。会いたくなかったぜ」
「…………」
「…………」
互いに永遠ともとれる沈黙を破ったのは……もはやいうまでもないだろう、ジルだった。
「ごめん、ごめん。靴って苦手でさ……」
固まった。アリナミンEXでもほぐしきれないであろう固まり具合である。
自然、楠宮の次の台詞は決まってくるわけだ。先回りして言ってやろうかとも思ったが、伝家の宝刀をしっかり抜き切っている俺は案山子の様に突っ立ったまま楠宮の言葉を待った。
「ドーユーコトー?」
棒読みだった。下手な中学生の劇でも見ているような気分になり俺の焦りはほんの少しだけ解凍された。
さて、どう誤魔化したものか。
「あー、落ち着いて聞いて欲しいんだが楠宮。何故だか知らないけど彼女、ジル・トールボットさんは見ての通りの留学生だろ? みゃーちゃんに頼まれてホームステイさせてやってくれって親に電話があってさ。別に無下にする理由も、利得もない親は受け入れるだろ? 受け入れたんだよ。確かにだ、確かに俺は彼女にセクシャルな言動をとったよ。認めよう。しかしどうだろう? 楠宮。俺は試したのさ。そうさ! これから一緒に住むかもしれない人間がどの程度の人間なのか、否! どれほどの日本語を理解しているのか。全く日本語が分からない事は無いと、俺の実験で導き出された結果は「承諾」。そうさ、楠宮。黙っていて悪かったがあれは試験。彼女が俺の家にホームステイできるか否かの試験だったのさ」
「アンタ何べらべら喋ってんの?」
台無しだー! 俺が折角伝家の宝刀を仕舞い込み勇猛果敢に、言葉巧みに楠宮に今の状況を説明していたのに。
「え……と、つまりは今、一緒に住んでるって事でオーケー?」
あきらかに当惑し、困惑し、混乱しているであろう楠宮の脳内シナプスはショート寸前の電気量をもって今の状況を無理矢理に理解したようだった。
「まあ、そんな感じでオーケーだ。いやぁ、話のわかる友達を持って幸せだ。さあ楠宮、ジル! 帰るとするか」
敢えて元気に振る舞おうとして物凄く不自然極まりない感じではあったが、楠宮には感謝。何らかの理由があると踏んではいるが追求してこない。気を使わせて本当に悪い。こいつは、楠宮御影は俺が一生大切にしていかなくてはならない人間の一人だと、そう思った。
三人で他愛も無い話をしながら帰宅したのは六時を少し過ぎた所だった。辺りは出番だといわんばかりに電飾が灯り始めるくらい日が堕ちていた。
やはり、というのが正しいのかは微妙な所なのだけれど、楠宮とは駅で別れた。
「じゃあ、また明日! ジルちゃん。海」
ちゃん付けかよ。楠宮の馴れ馴れしさはやはり街随一なのだろうな。軽佻であるのはやはり傲慢であるのと同じ程に当たり前なのだろうか。いや、きっと違うな。
家に着くとジルちゃんは、おっと失礼。ジルは眉間にシワを寄せて鹿爪らしく腕を組みうーんと唸っていた。まだ靴も脱いでいないというのに。
「あのメッセージは何なの? 帰るまでの時間で考えてたけど全く分からないわ」
「え? お前、楠宮と仲良さげに談笑してたじゃないか。話しながら何かを考えるって、顔で笑いながら怒った声を出すくらい難しいんだぞ」
「竹中直人と一緒にしないで」
「何でお前は竹中直人を知っているんだよ」
「アタシは常識人魚なのよ」
そんな常識捨ててしまえ。
ともあれ、こいつは中々器用な奴なんだな。案外元人魚だから色々と不自由すると思っていたのだが……。
「なあ、ジル。お前って魅力的だよな」
「はぁあああぁぁ? どどどどどっ……どうしてそうなるのよ」
「いや、人魚だったし外見は美人な作りだし、人間の生活だって難なく送れる程器用だしな」
「フンっ。当たり前でしょ。気高き人魚が人間の生活を不自由に、なんて思っても顔に出しちゃダメでしょう? みっともない」
「いや、でもさ。今までと違う下半身を付けられたわけだよな? 初めて歩く時なんか困ったんじゃないのか?」
「確かに、この『足』には最初は参ったわ。右と左があるなんて耐えられなかった。しかも地面を進むスピードが尋常じゃないくらい遅くてビックリしたわね」
「どういうことだ? 人魚って移動のスピードを気にするのか?」
「当たり前でしょう? こっちの世界でいう所のオリンピックみたいな大会もあったわけだしーー」
うわぁ。超見てみたい。
「ーーしかも人魚は平均80km/hで泳ぐから」
「速っ! 意味わかんねー速さだなおい」
「当たり前よ。アンタ達人間とは文字通り『住む世界が違う』のよ。しかも人魚界は王政をしいていてね。かなり乱暴な所もあったみたいだけど、アタシの国、アタシの居た国は落ち着いていたわ。いい生活だった。毎日、皆でおしゃべりして、食べて、呑んで、歌って、踊って、大騒ぎ。毎日が充実してた。懐かしいわ」
「お前ってまさか。王様の娘だったとかじゃねーよな?」
それなら今此処には居ないだろうからな。
しかし、ジルはきょとんとしながら言った。
「何でわかるのよ」
なんと! 正解してしまったようだ。こいつのプライドの高さと今の話を聞いてしまえば小学校三年生でもわかる様なものじゃなかっただろうか。
こいつは人魚姫だったのか。
俺のイメージとはかなり違うのだが。
俺に構わずジルは楽しそうに海の底での生活を語った。
「海の底には色んな生物が居るわ。まだまだアンタ達人間はアタシ達の海の本当の姿を知らないのよ。だけど……」
そう言ったジルは少しばかり静かになった。そして十分すぎる間を空けて独白した。それは決して俺に向けた言葉ではない。人魚の、元人魚の単なる戯れ言だったのかもしれない。
「だけど、そんなアタシも今や『元』人魚なのよね。っはは……とんだ都落ちをしたものだわ」
ジルは靴を脱いで自分の部屋に向かう。
俺はその後ろ姿に見蕩れていたのか、哀れに思い視線を外せなかったのか、はたまた異種な独白に面食らっていたのか……。
分からない。
分からないが、自分が玄関に貼り付けにされている事実は変わらない。
「都落ち……ね」