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「初恋の方のお子を跡継ぎに」と仰いますので、娘と出てまいります

作者: 葉山みのり
掲載日:2026/07/30

十四年、この家の跡継ぎを仕込んできた妻の話です。

一話で終わります。教本は、お渡しできます。

 秋の羊毛の値が決まった日の午後に、旦那さまがその話を切り出した。


 応接室の窓際に、見知らぬ子どもが立っている。九つだろう。十にはなっていない。肩の位置が高いので、二年のうちに背が伸びる。靴の踵が、絨毯の上でも鳴っていた。


 まず靴の音を直さねばならない、とわたしは思った。


「ユリアの子だ」


 旦那さまはそう仰って、それで通じると思っておられるようだった。実際、通じた。修道院へ入る前のあの方の話は、十四年のあいだに三度うかがっている。三度とも、酒の入った夜だった。


「トビアスという。この子を、ヴィンターの跡継ぎにする」


「かしこまりました」


 旦那さまが黙られた。わたしが泣くか、詰め寄るか、少なくとも何か言うと思っておられたのだろう。わたしは子どもの靴を見ていた。左の踵だけ、外の側が減っている。


「マルグレーテ」


「はい」


「……いいのか」


「よろしゅうございます。ただ、申し送りをいくつか」


 わたしは卓の上の帳面を閉じた。羊毛の値は、もう書き終えていた。


「トビアス様は、左足から踏み出す癖がございます。謁見の間は右足からと決まっておりますので、三月ほど早めにお始めください。癖のついた足は、三月では抜けません。半年と見ておかれるほうが安全でございます」


「なにを」


「靴も替えねばなりません。今のものは踵が鳴ります。西の廊下は石でございますから、あの音のまま先触れなしに歩かれますと、使用人が全員、旦那さまが来たと思って手を止めます。一日に四度も止まれば、その日の仕事は終わりません」


「マルグレーテ」


「それから、秋の継承披露でございますが」


 わたしは指を折った。


「ご挨拶は、まず西の三家、次に東の二家、最後に王都の御方の順に。西のオルバッハ様は先代のご不興を買っておいでですから、こちらから先に立てて差し上げませんと羊毛の買い付けが止まります。順を違えた家から切れてまいりますので、そこだけはお間違えのないよう」


「そんなものは、書いておけばいいだろう」


「書いてございます」


 わたしは立って、書棚から綴じを二冊おろし、卓に置いた。厚いほうが領内の家の格と縁組の履歴、薄いほうが十四年ぶんの手順書だった。埃はかぶっていない。三日に一度は開いている。


「後継者教育も、お返しいたします」


 旦那さまは綴じを見て、それからわたしを見た。


「教本ならお渡しできます。見立ては、お渡しできません」


「見立て」


「どの子に、何を、どの順で教えるか、でございます」


 わたしは薄いほうの表紙を指で叩いた。


「ここには、教えることしか書いてございません。旦那さまが二十四で家督をお継ぎになったとき、わたくしは先に数字を教えました。義弟様のときは、先に人の名を覚えていただきました。順が逆でしたら、お二人とも今の位置にはおられません。──どちらが正しいと書いた紙は、ございません」


 義母上が扉のところに立っておられた。いつからおられたのかは分からない。


「大袈裟な」と義母上は仰った。「家の格というものは、血で続くのです。あなたが十四年で作ったものではありませんよ」


「さようでございますね」


 わたしはお辞儀をした。義母上は満足なさったようだった。


    ◇


 娘のヒルデは、荷を作っている最中だった。十二になる。わたしが呼びに行ったときには、もう外套を着ていた。


「聞こえておりました」と娘は言った。「西の階段は音が通ります」


「知っています。あなたに教えました」


「お母さま。ゲオルクは連れていきますか」


 家令の名だった。十四年前、厩番だったのを、わたしが選んで上げた。


「いいえ。あの人には、あの人の勤めがあります」


「そうですか」と娘は言って、少し考えた。「では、あの人はひと冬もちませんね」


 わたしは娘の帽子の位置を直した。少し左に寄っていた。


    ◇


 母から譲られたフェルンの領は、王都から馬車で四日ある。羊は飼えない。麦と、蜜と、冬に凍らない井戸が二つ。屋敷は雨漏りがしていたので、まずそこを直した。


 噂は、思っていたより早く届いた。


 継承披露で、トビアス様は王都の御方に先にご挨拶をなさったそうだ。


 その場にいた蜜の仲買が、うちの井戸で水を汲みながら話してくれた。広間がどよめいた、という話ではないらしい。ほとんどの客は、そこで何かが起きたことに気づきもしなかったのだという。


 西のオルバッハ様が杯を持ったまま立っておられて、周りの家がそれを見て、順を待っている。待っているうちに次の楽が鳴った。広間の半分は、そのまま笑っていたそうだ。何が起きたか分かった者だけが、杯を置いた。


 羊毛の買い付けが止まったのは、それから六日後のことだった。次に東の二家が抜けた。ヴィンターの羊毛は、値がつかないのではなく、買い手が並ばなくなった。


 義母上は、血で続くと仰り続けておられるという。仰るたびに一家ずつ抜けていくので、村では冬の数え歌のようになっていると仲買は笑った。わたしは笑わなかった。義母上は、間違ったことを仰ってはいない。ただ、続くものと、続けている者を、取り違えておられるだけである。


 家令のゲオルクが暇を願い出たのは、閉ざしの月に入ってからだと聞いた。ひと冬、もたなかった。


 わたしは井戸の縁に腰かけて、その話を聞いていた。留飲は、下がった。下がりきったあとに、少しだけ残ったものがある。


 わたしは、あの人を仕込みすぎたのだ。


 二十四で家督を継がれたとき、わたしは順番を作って差し上げた。二十八のときも、三十四のときも作って差し上げた。自分で順を決めたことのない人が、順を決めねばならなくなった。──それを十四年かけてやったのは、わたしである。


    ◇


 春の芽出しの前に、娘が紙を一枚持ってきた。


 村の子どもの名が五つ書いてある。横に、細かい字がついていた。粉屋の下の子は数が速いが人の顔を覚えない。井戸番の娘は逆。三番目の子には字を教える前に手の力をつけさせること。


「この子たちを、どの順に」と娘は言った。


 わたしは紙を受け取って、しばらく見ていた。字は、わたしのものによく似ていた。似ているだけで、同じではなかった。三番目の見立ては、わたしなら書かなかった。


「粉屋の子から。──ですが、あなたが決めなさい」


「わたくしが」


「あなたの見立てです」


 娘は紙を返してもらうと、いちばん下に自分の名を書き足した。


    ◇


 夏の初めに、隣領の男爵家から使いが来た。次男を預かってほしいという。しつけではなく、跡を継がぬほうの子に何を教えるか、それを見立ててほしいのだと使いは言った。月に金貨二枚。


 わたしは引き受けた。屋敷の東の間を空けて、卓と椅子を入れた。椅子は二脚にした。娘のぶんである。


 その子が来る三日前に、手紙が届いた。


 封に、ヴィンターの蝋はなかった。中の字は細く、丁寧で、修道院で習った書き方をしていた。


 トビアスを、預かっていただけませんか。


 わたしは手紙を卓に置いて、窓を開けた。麦の背が伸びている。あの子は今、十になったはずだ。靴は替えていただけただろうか。踵は、まだ鳴っているだろうか。


 返事は、まだ書いていない。

最後までお付き合いくださって、ありがとうございました。


跡継ぎというものは、生まれた順で決まっているようでいて、実のところは誰かが順を決めて教えています。その誰かが出ていくと、家に残るのは名前だけになる。マルグレーテがやったのは、荷物をまとめたことだけです。


手紙にどう返事を書いたかは、書きませんでした。あの人は、決める前に必ず一度、相手の靴を見る人なので。


この「葉山みのり」名義では、一話で終わる話を書いています。


・鍵を二百十一本あずかっていた侍女の話 『お嬢様を捨てた殿下へ――ただの侍女ですので、王城の鍵を全部お返ししますね』

 https://ncode.syosetu.com/n7242mn/

・白い布を三年ぜんぶ縫っていた妻の話 『婚姻届に旦那様の署名がありませんでしたので、この白い結婚は無効です』

 https://ncode.syosetu.com/n7246mn/

・鳴っていない鐘の刻に断罪された令嬢の話 『聖女を突き落とした刻、わたくしは宰相閣下と密室におりました』

 https://ncode.syosetu.com/n7247mn/

・庭の隅で蜂を飼っていた妻の話 『白い結婚を終えましたので、蜜蜂と辺境へ参ります』

 https://ncode.syosetu.com/n7249mn/


ブックマークと評価は、次の子の見立て代に充てさせていただきます。


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