【短編】悪女の優雅で素晴らしい贅沢生活 〜過労死した私、社畜スキルで稼ぎます〜
はっと目が覚めた。
目の前には見慣れぬ天井が広がっている。繊細な模様が彫り込まれた天井は、昔ヨーロッパ旅行で見た宮殿のようだ。
「エスメラルダ様! 気がつきましたか!?」
見知らぬ若い女性たちが、慌てたように駆け寄ってくる。
(エスメラルダって……誰?)
日本で生まれ、日本人として育った私。
そんなキラキラした名前、人生で一度も名乗ったことはない。
だが、その名前を聞いた瞬間、頭の奥がちくりと痛んだ。奇妙な引っかかりが残る。
私が上半身だけむくりと起こすと、周りにいたメイド服を着た女性たちは、焦ったように手を伸ばしてきた。
「駄目です、エスメラルダ様!」
「まだお休みになっていてください!」
口々に心配そうに声をかけられ、胸がきゅっとなる。
(こんな風に心配されるの、いつぶりだろう)
そう思った次の瞬間、気づいた。
社畜生活のせいで慢性的に悩まされていた頭痛がない。何年も続いていた肩こりも、嘘のように消えている。
ふと、さらりと頬を撫でた髪に視線を落とす。仕事の激務で手入れがほとんどできず、乾燥してパサパサになった黒髪はどこにもなかった。代わりに、指が吸い込まれそうなほど滑らかな紺色の髪が流れ落ちていた。
(わ、私は一体……?)
メイドたちの制止の声を振り切って、ベッドから降りる。
部屋の隅にある白く重厚なドレッサーが目に入り、思わず鏡を覗き込んだ。
その瞬間、目を見開く。
紺色の長い髪が肩に流れ落ち、緑色の瞳が鏡越しにこちらを射貫く。美しい容貌なのに、どこか強情さを秘めた目つき。
その顔を目にした瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。記憶の底に沈んでいた挿絵が、ぱっと蘇る。
学生時代に読んだ一冊の小説。そこに描かれていた、破滅へ向かう悪女の姿。
(『聖女の微笑みの裏には』に出てくる悪女……確か──)
「エスメラルダ・ベルメールじゃない……!?」
私の声が、部屋に響き渡った。
私が名前を叫ぶと、背後にいたメイドたちは一斉に顔を見合わせた。戸惑いと困惑が入り交じった視線が交差し、ひそひそと小声が漏れる。
「どうしたのかしら急に……」
「ご自身のお名前を叫ばれるなんて……」
「もしかして……」
不安げな囁きが重なり、空気が重く沈んでいく。
すると三つ編みのメイドが青ざめた顔で近づいてきた。足取りは震えているが、その目には必死さが滲んでいる。
そして私の前でしゃがんで視線を合わせたあと、声を張り上げた。
「倒れた衝撃で記憶が混乱して……!?」
あまりにも唐突な言葉に、私は思わず「へ」と間が抜けた声を漏らしそうになる。だが私の声が出るより先に、メイドは一息もつかずに続けた。
「えぇ、間違いございません! 貴方様はアルディエラ王国のベルメール公爵家の令嬢──エスメラルダ・ベルメール様でございます!!」
メイドは涙を滲ませ、必死な様子で訴えてくる。その優しさはありがたい、大変ありがたい……のだが、その言葉は同時に、私の最後の逃げ道を断ち切った。
(アルディエラ王国……ベルメール公爵家……)
もう疑いようがない。
ここは間違いなく「聖女の微笑みの裏には」の世界だと確信してしまう。
頭がまっ白になり、絶望が波のように押し寄せる。それでも目の前のメイドは今も真っ青な顔で、私の身を案じてくれている。
これ以上この優しいメイドを不安にさせるわけにはいかないと、私は動揺を隠し、なんとか微笑みを浮かべた。
「そう……そうよね。ありがとう」
「っ……!?」
その瞬間、空気が一変した。メイドが目を見開き、他のメイドたちも一斉にこちらを凝視する。
(え、なに? もしかして中身が違う人物だとバレた……?)
背中に冷たい汗が流れる。だが誰も追求してこない。
「い、いえ……」と彼女たちは困惑したまま、ぎこちなく頭を下げるだけだった。
私は頭の中を整理したくて、しばらく一人にしてほしいと頼んだ。メイドたちは戸惑ったような視線をこちらに向けながらも、逆らうことなく静かに部屋を後にする。
扉が閉まり、静寂が訪れる。
私は立ち上がり、足下のおぼつかない感覚のまま窓際へと向かうと、一人用のソファーに身を沈めた。
「はぁ……」
思わず深いため息が漏れる。
手の甲を額にあて、天井を仰ぎながら、前世の記憶をたぐり寄せた。
『聖女の微笑みの裏には』
それは、私が学生時代に流行っていたシリーズ小説だった。
聖女レティシアと王太子レオンハルトの愛を描いた、いわゆる王道恋愛ファンタジーである。ありきたりの設定に見えて、世界観の作り込みやキャラクターの心理描写が丁寧で、読み進めるほど引き込まれていく作品だった。何より物語の随所に散りばめられた"謎"が読者を惹きつけ、多くの人気を集めていた。
そしてエスメラルダ・ベルメールは、序盤に登場する悪役である。
レオンハルトの婚約者候補として登場し、彼に想いを寄せていた一人である。けれど、レオンハルトの心が次第にレティシアへ傾いていくにつれ、エスメラルダは次第に孤独と嫉妬に呑み込まれていく。
(最初は、よくある当て馬ポジションだと思っていたけど……確か、)
──彼女は「黒魔法」に手を出し、世界を混沌に陥れるのだ。
この世界には、魔法が存在する。
そしてエスメラルダが手を出したのは、禁忌とされている「黒魔法」だった。魔物を操り、人の心を歪め、国すら揺るがす危険な力。強力な分、代償も重い。
エスメラルダはなんと、自身の寿命を差し出してまで「黒魔法」に手を染めてしまうのだ。
一時は、国全体を混乱と危険に陥れたエスメラルダ。だが最終的には聖女レティシアの「白魔法」と、レオンハルトが力が重なり、彼女の計画は阻止される。
そして最後に待っていたのは、断罪。逃げ場のない結末──処刑による"死"である。
そこまで思い出して、全身の血の気が引いていく。
「このままじゃ私……処刑ルート一直線じゃない!」
前世は社畜の果てに過労死。
次の人生は悪女として処刑。
あまりにも救いがない。慈悲がなさすぎる。神などいないのか。
頭がズキズキと痛み始めて、思わず両手で抱えてしまう。
「私は人並みの生活をしたいだけなのに──!」
私の絶叫が、部屋に響いた。
*
一週間後──
(この生活……)
(最高すぎる!!!)
あれほどお先真っ暗だと思っていた転生生活を、私は完全に満喫していた。
今の私はふかふかのベッドに寝転び、メイドに爪を磨いてもらっている。
サイドテーブルには花の香りのお香が焚かれ、部屋全体を癒しの空間に染めていた。その横に置かれた皿からマカロンをひとつ摘まみ、口に放り込む。サクッとした軽い食感のあと、上品な甘みが舌いっぱいに広がった。
(!? このマカロン、美味しい! 流石は公爵家!)
マカロンの美味しさに目を見張りながら、私はこの一週間の生活を思い返した。
まず十時に起床。昼前まで眠れる生活が、これほど素晴らしいものだと思わなかった。
目を覚ました瞬間、メイドたちがすっと現れ、私の身支度を整えていく。パジャマを脱がし、ドレスを着せ、髪を丁寧に梳かす。その間にも、別のメイドが朝食の準備を進めてくれる。
やがて、銀のワゴンに載せられた朝食が運ばれた。
焼きたてのクロワッサン、季節の果物、香ばしいスコーン、何種類ものジャム、湯気をたてる温かいスープ。私は窓辺の椅子に座り、ただ待っていればいい。
そして、出来たての料理を口に運ぶ。その瞬間、ぶわっと目に涙が溢れた。
(こんな人間らしい食事したの、いつぶり……!?)
クロワッサンを食べた日はおいおいと泣いてしまい、メイドを慌てさせてしまった。前世では、栄養ゼリーをエナジードリンクで流し込んでいたのだ。温かい食事というだけでも久しぶりなのに、どれもが極上の味なのだ。涙が出ない方がおかしい。
しかもこの体、食べても食べても太る気配が一切ないのだ。鏡に映る絶世のプロポーションを前に、「チート過ぎる……」と何度も呟いてしまうくらいだ。
午後はメイドにマッサージをしてもらったり、本を読んだりと、ただのんびり過ごす。夜になると花びらが浮かぶ大きな湯船に身を沈め、丁寧に体を洗ってもらい、そのままふかふかのベッドへ。素晴らしき贅沢生活である。
ちなみに一度だけ庭を散歩しようかと考えたこともあった。だが、メイド長にやんわりと止められてしまい叶わなかった。
(どうしてだろう?)
首をひねったものの、部屋の中でも十分すぎるほど優雅な生活ができている。特に不満もなかった。
爪を磨き終わったメイドたちが退出し、私はベッドにごろんと寝転ぶ。ピカピカに整えられた爪を眺めながら、ふと呟く。
「エスメラルダ……この生活を捨ててまで、何が欲しかったの?」
レオンハルトを愛していたことは分かる。それでも、この暮らしと引き換えにするほどの価値があったとは思えない。
優しいメイドたち、温かくて美味しい食事、やわらかなベッドで眠れる生活……どれも前世の私にとっては、喉から手が出るほど欲しいものばかりだ。
そんなことを考えているうちに、意識がゆっくりとまどろみ始める。まぶたが重くなり、思考がほどけていく。
(ちょっとだけお昼寝しよう……)
その時だった。バンッ!と扉が勢いよく開かれた。
突然の物音に、体がびくりと跳ねた。私は慌てて上半身だけ起こし、扉の方を見る。
そこに立っていたのは、五十代くらいの威厳ある男性だった。年齢を感じさせない整った顔立ちに、鋭い眼光。その背後には、小柄な男性が落ち着かない様子で控えている。
誰だろう?と考えるより先に、男性は口を開いた。
「エスメラルダ……謹慎中だというのに、全く反省の色が見えんな」
「……謹慎中?」
思わず聞き返してしまう。全く身に覚えがない。そう思った瞬間、頭がズキリと痛んだ。
視界が揺れ、意識の隙間に映像が流れ込んでくる。
人通りの多い街角。怒りに任せ、可憐な少女に詰め寄るエスメラルダの姿。銀色の髪と、オリーブ色の瞳の美少女。
私ははっと息を呑む。
(レティシアだわ……!)
「聖女の微笑みの裏には」のヒロイン、聖女レティシア・アルバン。
彼女は立ち尽くし、今にも泣き出しそうな顔をしていた。そんな彼女に、エスメラルダが鬼のような形相で詰め寄る。
そして次の瞬間、エスメラルダがキレた。
声は聞こえない。しかし表情だけで、怒りが臨界点を越えていることがはっきりと分かった。彼女の手のひらに、赤々とした炎が生まれる。そして信じられないことに、レティシアに向かって火の塊を投げつけたのだ。
私は絶句する。
(な、な、何やってんのよ──!!?)
いくら嫉妬の対象とはいえ、やっていいことと悪いことがある。火の玉を人にぶつけるなんて殺人行為にも等しい。
私は一気に現実に引き戻され、冷や汗をだらだらとかく。呆然と父を見つめていると、彼は鋭い眼光で私を見下ろした。
「娘であるお前が王都で騒ぎを起こしたせいで、私がどれほど苦労したのか分かっているのか?」
怒りを抑えた声が、部屋の空気を押しつぶすように響く。
「幸いにも、レティシア様に怪我はなかった。それどころか、『あまりエスメラルダ様を責めないでください』とまで言ってくださったのだ。そのおかげで、お前は謹慎処分だけで済んでいる」
「も、申し訳ございません……!」
ぐうの音も出ず、頭を下げる。
火の玉を投げつけられても尚、相手を気遣うレティシア。なんという心の広さだろう。それに比べて、原作のエスメラルダは──まさに悪魔そのものだ。
私はちらりと目の前のイケオジを見上げる。話の流れからして、この人物はエスメラルダの父であることは間違いない。後ろでおろおろしている男性は執事だろうか。
そんなことを考えていると、父は金色の瞳で私を射貫いた。あまりの圧に、心臓が跳ねる。
「エスメラルダ──お前には、試練を与える!」
突然の宣告に、私は息を呑んだ。嫌な予感しかせず、思わず尋ねる。
「試練、ですか……?」
「そうだ」
父は腕を組み、短く頷いた。
そして背後にいた執事に視線を移し、淡々と命じる。
「ヴァルネ鉱山の帳簿を持ってこい」
その瞬間、執事の顔色が変わった。
目を見開き、明らかに動揺した様子で口を開く。
「で、ですが……! あれは量も内容も膨大で……お嬢様には、あまりにも酷でございます……!!」
必死に訴える。しかしその言葉は、父の鋭い視線によって断ち切られてしまった。
執事はびくりと体を縮ませ、慌てて頭を下げると、何も言わずに小走りで去って行った。
(い、一体何を持ってくるつもり? ヴェルネ鉱山って何?)
様々な疑問が頭に浮かんだが、口に出せる空気ではない。ただ重苦しい沈黙に耐えるしかなかった。
やがて数分後、執事は分厚い束の帳簿を抱えて戻ってきた。その量を見て、先ほどの嫌な予感が確信に変わっていく。
父は無言で受け取ると、私の前に突き出した。そして、冷たい声で言い放つ。
「この書類仕事すらできなければ、北部の修道院に送るだけだ」
私の全身から血の気が引いていく。
脳裏に浮かんだのは、この一週間の贅を尽くした生活だった。
昼まで眠れる日々、温かく美味しい食事、何もせずごろごろと過ごす午後……
修道院へ行けば、すべてを失ってしまう。
(しかも北の修道院って……)
原作でも登場した場所だった。名前は「ヴィシュタルツ修道院」。
極寒の地に建てられ、作物はほとんど実らない。そのため慢性的な貧困に苦しみ、集まるのは厳格な聖職者ばかり。
一日の行動を厳しく管理され、私語や娯楽は一切禁止。罪を犯した貴族が悔い改めるために送られる、いわば更生施設のような場所だ。
あまりの過酷さに、「ヴィシュタルツより、牢屋の方がまだ快適だ」と囁かれているほどだった。
(そんな場所へ、実の娘を送ろうとするなんて……!)
絶望が襲ってくる。
エスメラルダは一体、どれほど父の怒りを買ったのだろう。
完全に後がない。背筋が冷たくなり、私は唾を飲み込むみながら、父の言葉を待った。
「一週間やろう。この帳簿に記載された売上を──すべて書き写せ」
「…………………………え?」
思わず漏れた声に、父の視線が鋭さを増す。
私は慌てて口を閉じたが、内心では混乱していた。
(え? 書き写すだけ?)
すると執事は慌てたように一歩前に出て、声をあげた。
「だ、旦那さま、それはあまりにも厳しすぎます! 一日四時間は費やさなければ終わらない量です! お嬢様にはとても──」
「私に意見するのか?」
ぴしりと空気が凍りつく。肉食獣に睨まれた小動物のように、執事は震え上がった。
「い、いえ……」
それ以上何も言えず、黙ってうつむいてしまう。
そのやり取りを聞きながら、私は別の意味で困惑していた。
(四時間? そんなの軽めの残業レベルじゃない……?)
残業という言葉が意味を持たないほど残業させられた私。
四時間の残業など、数年に一度あるかないかのボーナスデイである。閉店間際のスーパーに駆け込めて、「まだ開いてる……!」と感動した記憶すらある。
そのため、私を気遣ってくれる執事の必死さが逆に申し訳ない。
四時間程度の労働で音を上げるほど、私はやわじゃない。この生活を失うくらいなら、いくらでも働いてやる。
(残業月二百時間超え労働を常に発動してた私を、甘く見ないで!)
私は弾けるように立ち上がり、父の前まで大股で歩いて行く。そして胸に手をあて、ぐっと顔をあげて宣言した。
「私は必ず、やり遂げますわ!」
「ふん、威勢だけは一人前だな」
父は薄く笑いながら、鼻を鳴らした。
私は書類を受け取り、ぱらぱらと目を通しながら、強く決意した。
(この贅沢ライフ、絶対に手放したりしないわ!)
*
父と執事が部屋を去り、部屋には私ひとりが残された。椅子に座り、目の前に積まれた書類を眺める。
量こそは多いが、私に命じられたのは「鉱山の売上をまとめる」こと。パソコンがないのは正直不便だが、やること自体は単純作業だ。前世の地獄と比べれば楽勝である。
書類をめくり、ヴェルネ鉱山の概要を読み進める。
「ふんふん……ヴェルネ鉱山はベルメール家が保有……」
そして次の一行を読んだ瞬間、思わず声が漏れてしまう。
「え!? ダイアモンドが採れるの!?」
その瞬間、原作の設定が頭に浮かんだ。
ベルメール公爵家は多くの事業を手がけているが、その中でも最大の柱となっているのが宝石関連事業だ。国内に留まらず、国外にも多くの鉱山を保有し、ダイアモンドをはじめとする多種多様な宝石を扱っている。
その影響力は相当なもので、「宝石が輝くとき、影にベルメールあり」なんて言葉まであるほどだ。
「宝石かぁ……いいなぁ……」
うっとりと呟いてしまう。
前世では、服や美容にだってお金をかけられなかった。もちろん宝石なんて一つも持っていない。
それでも、美術館やショーケースに並ぶ宝石を見るのは好きだった。小さな粒でも確かに光を放ち、静かに存在を主張している。その輝きに、何度も目を奪われたものだ。
私はぎゅっと拳を握り締め、改めて心に誓った。
(やっぱり、この生活を手放したくない……!)
公爵家の娘ならば、様々な宝石を身につけられるはずだ。原作のエスメラルダのように、誰かに見せつけたいわけじゃない。ただ、自分のために宝石を纏う。その贅沢と喜びを、一度でいいから知ってみたかった。
そのためには、父を何としてでも説得させないといけない。
羽ペンを握り締め、無心で売上を書き写していく。数字を追い、整理し、淡々と書き連ねていくうちに、周囲の音が完全に消えていった。
──どれくらい経ったのだろう。
不意に、目が重たくなる感覚がした。
顔を上げると、窓の外はすでに夕焼け色に染まっていた。
確か着手したのは昼前だったはずだ。書類に目を落とすと、ほぼまとめは終わっていた。
(これ、一週間もいらなかったな)
そう思いながら、確認のために書類をぺらぺらとめくっていく。その時だった。
「ん?」
最後の方にまとめてあったデータが、ふと目に留まる。
「……鉱山での、死亡者数?」
思わず声に出して読み上げた瞬間、胸の奥がずしりと沈んだ。
日本とこの世界は、時代も価値観も違う。単純に比較することはできない。
それでも毎年、数十人という数字は決して軽くはない。さらに目を走らせて、私は気づく。
(年々、増えてる? これって……)
嫌な予感が背筋をなぞる。
その時、静寂を破るように、控えめなノック音が響いた。思わず背筋が跳ね、振り返る。
すると扉の向こうから、遠慮がちな声が聞こえてきた。
「お、お嬢様……トルンです」
先ほどの執事の声だ。
トルンという名前だったのかと頷き、部屋へ入るよう促す。
扉を開けた彼は、叱られる覚悟を決めたように身を縮こませていた。顔色は青く、こちらを気遣う視線が痛いほどだ。
「あの、進み具合はいかがでしょうか。もし難しそうであれば、私にも何か──」
「もう終わったわ」
「……え?」
言葉が理解できなかったのだろう。ぽかんと口を開けたまま、固まっている。
私は書類をめくり、売上について気づいたことを説明した。
「ダイアモンドだけに依存するのはリスクがあるけど、同一地域から鉄が掘れるのは強いわね。軍事用として貴族が定期的に買い付けているから、売上が安定している。顧客を逃がさないためにも、年間契約にするのも……」
そこまで言ったところで、トルンが完全にフリーズしていることに気づいた。目を白黒させて、ただ呆然としている。
彼の前で手を振り「大丈夫?」と声をかけるが、やはり返事がない。ただの屍のようだ。
私は一つ息をついて、書類に再び目を落とす。そこには先ほど見た「死亡者数」の数値が並んでいた。
その時、記された数字と、前世の知識が繋がっていく感覚がした。死亡者数や、死亡の原因が書かれた文章を慌てて指で追っていく。
(これって……)
脳裏で閃き、私ははっと顔を上げた。弾けるようにして、トルンの方を振り向く。
「ねぇ、お願いがあるの」
「は、はい!」
「追加で資料を持ってきてくれる?」
彼は驚いたように息を呑んだ。
ただ流石はあの父の秘書と言うべきか、すぐに切り替えて「どんな資料をお望みでしょうか」と尋ねてくれる。
私は必要な資料を書き出し、トルンに渡した。彼は一礼し、すぐに部屋を去って行った。
私は一度深く息を吸い、羽ペンを握り直す。そして新しい紙を取り出し、考えを整理するように書き込んでいった。
*
一週間後。
私は緊張で心臓を早鐘のように鳴らしながら、父の執務室の扉をノックした。
中へ入ると、父は窓際の椅子に腰掛け、こちらを静かに見据えていた。私の姿を捉えるなり、片方の唇だけを吊り上げて笑う。
「逃げなかったことだけは評価してやろう」
「……こちら、売上をまとめたものです」
「ふむ」
「そしてもう一つ──ヴェルネ鉱山に関する報告書です」
私が書類を手渡した瞬間、部屋にいたメイドたちがざわめいた。空気が一段と張り詰める。
父の片眉が、ぴくりと怒ったように跳ね上がった。
「報告書だと?」
「はい」
「私はそんな指示はしておらんぞ。何を勝手な……」
怒りが爆発しかけた、その瞬間だった。
父の視線が、書類の文字に引き寄せられる。言葉が途切れ、食い入るように数字を追い始めた。
その異変に気づいたのだろう。周りのメイドたちも戸惑うように視線を交わし、父の様子をうかがっている。
やがて父は、ゆっくりと顔をあげた。金色の瞳には先ほどの苛立ちはなく、代わりに真剣な光が宿っている。
「『ヴェルネ鉱山の死者に関する報告書』、これをお前が作ったのか?」
「えぇ」
私は頷き、真正面からその視線を受け止めた。
「お父様。近年増加しているヴェルネ鉱山の死者数について──」
そこで一瞬の間を置き、父の目をまっすぐに射貫く。
「改善策を、聞いていただけませんか?」
「改善策?」
「はい」
訝しげな父に頷き、私は口を開く。
「調べたところ、ここ一年、鉱山での死者数が急激に増えております」
「知っている。だが調査しても原因が分からなかった」
「これは推測になりますが──有毒ガスではないかと思われます」
「有毒ガス?」
父の眉が跳ね、書類を急いでめくっていく。
そして該当のページを開き、読み込んでいく。私は説明を続けた。
「はい、鉱山に人体に有毒であるガスが蔓延。それを吸い込んだものが体調不良となり、亡くなったのではないかと」
「確かに体調不良による死因が増えている。だが毎月のように出ているわけではない」
「ガスは複数の要因で発生します」
私は指を立てる。
「たとえば、その日の風の通り方、掘削場所の違い、天候や気圧の影響……また同じ日でも、働く場所が違えば、症状は異なることもあります。おそらくランダム過ぎて、原因が掴めなかったのではないでしょうか?」
父は言葉を発しなかったが、表情から指摘が正しかったことが伝わってくる。
少しの沈黙の後、父親は低い声で問う。
「それで? ガスが原因だとして、どうやって改善するんだ」
「鳥を使います」
「鳥?」
父親が拍子抜けしたように声を漏らした。私は頷く。
「鳥は人間よりもガスの影響を受けやすいです。カゴに入った鳥と鉱山に入り、弱ったり、苦しそうにしたらガスが蔓延している目安になります」
しかし父の顔は晴れない。周りにいるメイドたちも不審な顔をしている。
当然かもしれない。死亡事故を防ぐために「鳥を使え」と急に言われたら、そんな顔をするのも。
しかしその反応は予想済みだ。
私は懐に入れていた書類を取り出す。こんな反応があった時に保険として持っていたものだ。
「何だ、これは?」
「鳥を警報役にした事例です。北部のある国で既に使われていて、死亡事故が減ったという報告も出ています」
父の目が見開いた。
私がこの報告書で一番苦心したのがこの事例を手に入れることだった。トルンに頼んだ資料を隈なく読み、数行だけ書かれていたのを発見したのだ。
今まで横暴だった娘の提案だ。それだけでは父は動かないだろう。
だが、前例があれば、動いてくれる可能性はぐっと上がるはず。そう信じ、私は父の瞳を見た。
彼は沈黙の後、立ち上がった。
「……分かった。試してみよう」
「! ありがとうございます!」
これで鉱山の死亡事故が減るはずだと、心の中でガッツポーズをする。
私は頭を下げ、父の執務室を退出した。
──数週間後。
トルンは私の部屋にやってきて、興奮したように言った。
「鉱山の死亡事故が激減しました!」
彼は書類を見ながら感動したようにいう。
「まさか嫌われ者……いえ、嫌われ鳥のクローヴがこんなところで役に立つとは」
クローヴとは小型の鳥で、この世界では害鳥として嫌われていた。
気質自体は大人しいのだが、その小さな体に対してよく食べるのだ。そのため畑が荒らされる被害が続出していた。さらに食べた分だけ糞として排出するので、建物への糞害も悩みの種だった。
今回はそのクローヴを警報役として採用したのだ。
私は胸を撫で下ろす。
「うまくいってよかったわ。人の命がかかっているものね」
「お嬢様……」
トルンはそう言って、言葉を切った。
何だろうと顔を上げると、彼は目に涙をいっぱい溜めていた。
よく見ると彼の後ろにいたメイドたちも、涙目になっている。
「こんなご立派になられて……! トルンは大変嬉しゅうございます!!」
そして彼はおいおいと泣き出した。メイドたちもハンカチを目に当て、うんうんと頷く。
その様子を見て、私は苦笑する。
今だけではない。私が普段感謝を伝えたり、小さな贈り物をするだけでも、同じような反応をされるのだ。
彼らの反応に大げさだと思わなくもない。だが、それほど以前のエスメラルダが酷かったのだろう。
屋敷の者たちでさえ、私の変化にここまで驚いているのだ。外で囁かれている「悪女」という評判が、すぐに消えるはずもない。
けれど──変えることならできる。
鉱山の帳簿を読み、原因を探り、改善策を出した。たったそれだけで救えた命がある。父の目も屋敷の者たちの目も、少しだけ変わった。
なら、これからだって同じだ。
私はおいおいと泣くトルンと、涙ぐむメイドたちを見つめながら、胸の奥で静かに拳を握った。
(この生活を守るためにも、どんどんお金を稼いで、認められてみせるわ!)
ふかふかの寝台も、温かな食事も、花びらの浮かぶ湯浴みも、美しい宝石も。
前世の私が喉から手が出るほど欲しかったものを、もう二度と手放したりしない。
悪女と呼ばれようが、打算的だと思われようが構わない。私は私の幸せのために働く。
「トルン」
私が声をかけると、泣きじゃくっていたトルンが慌てて顔を上げた。
「は、はいっ、お嬢様!」
「今日のお茶には、あのマカロンをつけてちょうだい」
「もちろんでございます!」
「それから、湯浴みもしたいわ」
そう言うと、トルンは涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、深々と頭を下げた。
「もちろんでございますとも! 最高の湯浴みをご用意いたします!」
その言葉に、メイドたちが一斉に動き出す。
私は窓の外へ視線を向けた。
夕暮れの光を受けて、庭の花々が金色に縁取られている。
これが、私の新しい人生。
そして、私が守るべき贅沢生活だ。
その後、エスメラルダが画期的な方法で次々と商品を生み出し、莫大な富を稼ぎ、やがて世界さえ救うことになるのだが──
それは、また別のお話。
お読みいただき、ありがとうございました!
このお話は長編版を連載中です。
長編版では、短編では描ききれなかったエスメラルダのその後をよりじっくり描いています。
「この先も読んでみたい」と思っていただけましたら、
ページ下のリンクから長編版も覗いていただけると嬉しいです!
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