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空蝉  作者: 凍鶴
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空蝉【第一章】

 私がこの町に流れ着いたのは、もう七年も前のことになる。仙台という土地は、存外私のような人間を優しく包んでくれた。杜の都と呼ばれるだけあって、青葉の季節には街路樹が涼しげな木陰を作り、冬には粉雪が静かに降り積もって、過去を持つ者の足跡をそっと覆い隠してくれるような風情がある。私は東北の生まれではない。生まれ育った土地の名を口にすることさえ、今では憚られる心地がする。あの土地には、私の消したい過去がすべて埋もれている。


 三十歳という年齢は、思えば妙な年頃である。若いと言うには既に若さの盛りを過ぎ、さりとて老成したと言うには程遠い。二十代の頃に抱いていた焦燥や野心は、いつの間にか鳴りを潜め、代わりに得体の知れぬ倦怠と、時折ふと胸を衝く孤独とが、私の日々の伴侶となっていた。朝起きて、仕事に行き、誰とも深くは関わらず、夜になれば部屋に戻る。その繰り返しの中で、私は自分という人間が次第に透明になってゆくような感覚を覚えていた。透明になることを、私は恐れながら同時に望んでもいた。


 私の部屋は青葉区の外れ、広瀬川を見下ろす小高い丘の上にある古びた木造アパートの二階にあった。家賃は月に四万五千円。築四十年になんなんとするその建物は、階段を上るたびにぎしぎしと頼りない音を立て、隣室の物音もあらかた聞こえてくる造作であった。それでも私がこの部屋を選んだのは、窓から見下ろす広瀬川の流れが、どこか私の心持ちに合致する気がしたからである。春には川面に花筏が流れ、夏には子供らの水遊びの声が上がり、秋には紅葉が水に映え、冬には寒々と灰色に凍てつく。その移ろいを眺めていると、自分もまたこの川のように、ただ流れて行けばよいのだと、そう思えてくるのであった。


 私はある中堅どころの物流会社で、倉庫の管理業務に携わっていた。地味な仕事である。朝七時半に出勤し、入出庫の伝票を確認し、フォークリフトを動かす作業員たちに指示を出し、在庫の差異があれば原因を調べる。ただそれだけの日々であった。同僚たちとの付き合いも、必要最小限に留めていた。昼食は一人で取ることが多く、勤務後の飲み会にもほとんど顔を出さない。周囲の者たちは私のことを、恐らく「無愛想で付き合いの悪い男」と評していたであろう。しかし私は、それでよいと思っていた。深く関われば、いつか必ず露見する。私の内側に潜むものが。そうなれば、私はまたどこかへ流れて行かねばならぬ。


 鏡を見れば、そこには特別醜くもなく、さりとて美しくもない、ごくありふれた男の顔があった。身長は百七十二、三ほどで、痩せ型。髪は黒く、いつも短く整えている。目は切れ長で、どこか暗い光を湛えていると、昔付き合っていた者に言われたことがあった。「あなたの目は、なにか秘密を隠している人の目だ」と。その言葉を聞いたとき、私はぎくりとして、思わず視線を逸らした。図星であったからである。それ以来、私は人と目を合わせることをいっそう避けるようになった。


 顔立ちというものは、その人の半生を映す鏡であると誰かが言っていた。成程、私の顔には、私の歩んできた道のりが、確かに刻まれているのであろう。口元には、いつも微かな皺が寄っていた。それは笑った跡ではなく、長年にわたって何かを堪え、歯を食いしばってきた者に特有の、苦い皺であった。眉間にも、三十歳にしては深い縦皺が刻まれている。私は鏡を見るたびに、この顔から逃れたいと思った。しかし、顔だけは、どこへ逃げても付いてくる。


 私の過去を語るには、どこから始めればよいだろうか。思えば、幸福であった記憶というものを、私はほとんど持ち合わせていない。記憶というものは、人が生きてゆく上でのよすがとなるべきものであろうが、私にとっての記憶は、むしろ重荷であり、枷であった。思い出すことは、すなわち苦しむことと同義であった。それでも、時折、ふとした拍子に記憶の扉が開き、私を幼い日々へと引き戻すことがある。その時の心の痛みは、歳月を経ても少しも鈍ることがない。


 私は九州のある地方都市に生まれた。父は市役所に勤める地味な勤め人で、母は専業主婦であった。傍目には、ごく平凡な、どこにでもある家庭であったと思う。しかし、その家の戸を一歩内側に入れば、そこはまったく別の世界であった。父は外では温厚な紳士で通っていたが、家に帰ると人が変わった。酒を飲んだ日は特にそうであった。いや、酒を飲まぬ日とて、些細なことで怒鳴り散らし、母に手を上げ、そして私にも手を上げた。私の最も古い記憶は、三つか四つの頃、父に頬を打たれて土間に倒れ込んだ記憶である。何故打たれたのか、その理由は覚えていない。恐らく、理由などなかったのであろう。父はただ、そこに打つべき対象があるから打ったに過ぎぬ。


 母は、そのような父を咎めることはなかった。いや、咎められなかったと言うべきか。母自身が父に支配され、怯えていたからである。しかし、母は母で、父への鬱憤を私にぶつけることがあった。夜、父が酔って眠った後、母は私を呼びつけ、「お前がいるから私は離婚できないのだ」「お前さえ生まれてこなければ」と、蒼ざめた顔で呟いたものである。幼い私は、その言葉の意味を完全には解しかねたが、自分が母にとって重荷であるらしいということだけは、肌で感じていた。私は存在してはならぬ子供なのだと、小さな胸にそう刻み込んだ。この刻印は、今日に至るまで、私の魂の最奥に残り続けている。


 学校に上がっても、私の居場所はなかった。家庭という場所が地獄であったから、子供というものは学校に救いを求めるものであろうが、私にはそれも叶わなかった。私は生来、人と関わることが苦手であった。それは、人を信ずることができなかったからである。最も近しいはずの両親が、私にとって最も恐ろしい存在であったのだから、他人を信ずる術など、私は知らなかった。私はいつも一人で、教室の隅に座り、窓の外を眺めていた。給食の時間も、遠足も、運動会も、私にとっては苦痛の時間でしかなかった。


 そのような私が、いじめの標的となるのは、必然と言ってよかった。小学校の三年生あたりから、それは始まった。最初は、教科書を隠されるとか、上履きを水に濡らされるとか、その程度のものであった。しかし、いじめというものは、相手が抵抗しないと知ると、際限なく深まってゆくものである。四年生になる頃には、私は日常的に殴られ、蹴られ、持ち物を壊され、金銭を要求されるようになっていた。私は、それらの仕打ちに対して、ほとんど抵抗しなかった。抵抗しようという気力そのものが、既に私の中から失われていたのである。家で父に打たれる痛みに比べれば、学校での暴力などは、むしろ慣れた馴染みのものであった。


 教師は、私の状況を知っていたと思う。顔に痣を作って登校することも珍しくなかったし、制服が破れていることもあった。しかし、教師たちは見て見ぬふりをした。事なかれ主義、とでも言うのであろうか。あるいは、私という存在が、教師たちにとっても扱いに困る、厄介な子供であったのかもしれぬ。一度だけ、若い女性教師が、私を職員室に呼んで、「何か辛いことがあるの」と尋ねてきたことがあった。しかし私は、首を振って何も答えなかった。答えたところで、事態が好転するとは思えなかったし、下手に口を開けば、帰り道でいっそう酷い目に遭わされるに違いないと、そう計算したのである。その教師は、翌年転勤して去っていった。


 中学校に進学しても、状況は変わらなかった。いや、むしろ悪化したと言うべきであろう。中学校という場所は、子供が大人に変わってゆく過渡期の場所である。子供らの残酷さに、大人の狡猾さが加わる。いじめの内容も、より陰湿に、より巧妙になっていった。私はいつも、息を潜めるようにして日々を過ごしていた。自分という存在を、できる限り小さく、目立たぬようにしていれば、攻撃の対象から外れるのではないかと、そんな淡い期待を抱きながら。しかし、その期待は常に裏切られた。


 家庭では、父の暴力が続いていた。中学に上がった頃、父は仕事で何か失敗したらしく、家にいる時間が増えた。それは、私にとって地獄の時間が増えたことを意味した。ある夜、父は些細なことで激昂し、私を階段から突き落とした。私は右腕を骨折した。病院では、母が父の代わりに説明をした。「階段から落ちたのです」と。医師は疑わしげな目を向けたが、それ以上は追及しなかった。私は、自分の腕が折られたことよりも、自分の存在そのものが誰からも顧みられないという事実に、深く傷ついた。この世界には、私の味方は一人もいない。そのことを、私はこの時、改めて確信した。


 愛着、という言葉がある。人間というものは、乳幼児期に特定の養育者との間に安定した情緒的な絆を結ぶことで、健やかな心の発達を遂げる、という概念である。後年、私は心理学の書物を読み漁る時期があって、その中でこの概念に出会った。私の心が何故このように歪んでいるのか、その理由を、私は書物の中に求めたのである。そして私は知った。私には、その絆が欠けていた。いや、欠けていたというよりも、最初から結ばれることがなかったのである。愛着障害、と書物には書いてあった。幼少期に安定した愛情を受けられなかった者は、成人してもなお、他者との関係の結び方に困難を覚える。親密になることを恐れ、しかし同時に、狂おしいほどに親密さを求める。その矛盾の中で、永遠に苦しみ続ける。私はその記述を読んで、ああ、これは私のことだと、深く頷いたものである。


 高校には、かろうじて進学した。成績は悪くはなかった。むしろ、私は勉強に没頭することで、現実から逃避していた節がある。書物を読み、数式を解いている間だけは、父の怒号も、同級生の嘲笑も、母の呪詛も、忘れることができた。高校では、いじめは次第に姿を消していった。無視される、という形に変わっただけと言えばそれまでであるが、少なくとも殴られることはなくなった。私は、相変わらず一人で昼食を取り、誰とも言葉を交わさず、本ばかり読んで過ごしていた。


 しかし、高校二年の秋、事件は起こった。あの事件のことを、私は今でも、夢の中で繰り返し見る。目が覚めても、冷や汗でびっしょりと布団が濡れていることがある。あれは、私の人生を決定的に分かつ境界線となった出来事であった。あの事件の前と後とで、私という人間は、まったく別のものになってしまった。いや、あの事件こそが、私という人間の本性を、白日の下に曝け出したのだと言うべきかもしれぬ。


 その詳細を、ここに書き記すだけの勇気が、私にはまだない。ただ、それは取り返しのつかぬ出来事であった、とだけ言っておこう。人一人の人生を、決定的に損なう類いの出来事であった。そして、私はその罪を負ったまま、誰にも知られずに、今日までを生き延びてきたのである。あの事件の真相を知っているのは、この世に私ただ一人である。他の誰も、本当のところは知らない。警察も、家族も、かつての同級生も、誰一人として。私は、その秘密を胸の奥深くに埋め込んで、鍵をかけ、上から土を被せて、生きてきた。


 事件の後、私は精神的に大きく崩れた。数ヶ月間、私はほとんど部屋から出ることができず、食事も満足に取れなかった。父は相変わらず私を殴ったが、不思議と、その痛みをもう感じなかった。身体が痛むよりも、もっと深いところが痛んでいたからである。高校は、かろうじて卒業した。卒業式の日、私は誰にも別れを告げずに、校門を出た。もう二度と、この土地には戻るまい、と心に決めていた。


 十八歳の春、私は家を出た。家出という形であった。父母には何も告げず、ただ置き手紙を一枚残して、夜汽車に乗った。手紙には、「私を探さないでください」とだけ書いた。それが、私から父母への、最後の言葉となった。以来、私は一度も彼らと連絡を取っていない。今でも生きているのかどうか、それすら知らない。知りたくもない。


 最初に流れ着いたのは、東京であった。大都会というものは、匿名性が担保される点において、私のような過去を持つ者には都合が良かった。私は建築現場で日雇いの仕事をしながら、狭い安宿を転々として暮らした。身分証を求められることもあったが、私は偽名を名乗ることはしなかった。戸籍というものが、どこかで繋がっている限り、偽名は所詮無意味である。ただ、私は自分の過去を決して語らなかった。問われれば、適当な嘘で応えた。生まれは東北である、とか、大学を中退した、とか、その場その場で取り繕った。嘘を重ねることに、私は次第に罪悪感を覚えなくなっていった。既に、あれほどの罪を背負っている身である。嘘の一つや二つなど、物の数ではない。


 東京で五年ほどを過ごした後、私はさらに北へと移った。理由は特にない。ただ、東京という都市の、過剰な賑わいに疲れたのである。人が多すぎる場所では、かえって自分の孤独が際立って感じられた。盛岡に二年、秋田に一年、そして最後に辿り着いたのが、この仙台であった。仙台は、私にとって程よい規模の都市であった。大きすぎず、小さすぎず。歴史があり、文化があり、しかし同時に、匿名で生きてゆける余地もある。私はここで、腰を落ち着けることに決めた。


 物流会社の倉庫勤務という職は、知人の紹介で得たものであった。その「知人」というのも、仙台に来てから知り合った、さして親しくもない男であったが、私に声をかけてくれたのは幸運であった。給料は多くはないが、生活してゆくには足る。仕事内容も、単純な事務と肉体労働の組み合わせで、難しい人間関係に煩わされることもない。私はこの職を得て、ようやく人並みの生活の真似事ができるようになった。


 仙台に来てから、私は少しずつ、己の心を治そうと努めもした。書物を読み漁ったのも、この時期である。心理学の本、精神医学の本、哲学の本、宗教書。私は何かに縋りたかった。自分がなぜこのように生まれついてしまったのか、なぜこのように苦しまねばならぬのか、その答えを、書物の中に求めた。しかし、書物は私に完全な答えを与えてはくれなかった。ただ、自分のような人間が、世の中には少なからず存在するらしいということ、そしてその苦しみには「愛着障害」やら「複雑性PTSD」やらの名前が付いているらしいということを、教えてくれたに過ぎない。


 名前を与えられたからといって、苦しみが減ずるわけではない。しかし、名前があるということは、少なくとも、自分が孤独な奇形ではないということの証しにはなる。同じ苦しみを抱えている者が、この世のどこかにいる。その事実だけが、私にとって微かな慰めとなった。私は時折、精神科の門を叩こうかと考えたこともあった。しかし、結局、その扉は叩かなかった。医者に語るということは、自分の過去を語るということである。そして私の過去には、決して語ってはならぬ秘密がある。その秘密を胸の奥に封じ込めている限り、私は誰にも心を開くことができないのであった。


 人との関わりにおいて、私は奇妙な矛盾を抱えていた。一方では、人を恐れ、人を避け、一人でいることを望んでいた。他方では、狂おしいほどに、誰かに理解されたいと願っていた。誰かに抱きしめられ、「お前はそれでよい」と言われたいと、夜の布団の中で、そう願った。しかし、いざ誰かが私に近づこうとすると、私は身を強張らせ、逃げ出したくなるのであった。親密になれば、いつかは離れてゆく。離れてゆかれる痛みを味わうくらいならば、最初から関わらぬ方がよい。そう頭では分かっていても、心は勝手に、誰かを求めてしまう。


 恋愛というものを、私は何度か経験した。いずれも長続きはしなかった。相手が誰であれ、私は一定の距離以上に近づくことができなかった。相手がそれ以上の親密さを求めてくれば、私は退いた。そうして退けば、相手は離れてゆく。離れてゆかれれば、私は深く傷ついた。自分から突き放したくせに、である。この矛盾に、相手は付き合いきれないと言って去っていった。そのたびに私は、「やはり私は誰にも愛されぬ人間なのだ」と、独りごちた。己で蒔いた種であることには、気づかぬふりをした。


 私は己の性的指向についても、長らく苦悩を抱えていた。私が惹かれるのは、女性ではなく、男性であった。この自覚は、思春期の頃から薄々あったのであるが、それを認めるのに、私は随分と長い時間を要した。幼少期に受けた傷のゆえに、自分が異性との親密な関係を築くことに恐怖を覚えているだけで、本来は女性を愛すべきなのではないか。私はそう自分に言い聞かせ、女性と付き合おうとしたこともあった。しかし、どうしても身体が受け付けなかった。身体は正直であった。私は最終的に、自分が同性を愛する者であることを認めざるを得なかった。


 この認識が、私をさらに孤立させた。同性愛というものへの理解は、以前に比べれば随分と進んだとは言え、地方都市で、それも三十歳にもなる男が、同性を愛する者として生きてゆくのは、容易なことではない。職場では、当然、私はそのことを伏せていた。同僚たちの前では、私は結婚に興味のない独身男を装っていた。「いい人はいないのか」と問われれば、「縁がなくて」と笑って応えた。嘘を重ねることに、私はとうに慣れていた。私の人生は、嘘と秘密の上に、かろうじて成り立っていた。


 夜、仕事から帰ると、私はまず湯を沸かし、茶を淹れた。コンビニで買ってきた握り飯と惣菜を、窓辺の小さな卓で食べるのが、私の日常であった。食後は、本を読むか、時折インターネットで同好の者たちが集う掲示板を覗くか、そんな風にして夜を過ごした。テレビはない。置かなくなって、もう数年になる。テレビから流れてくる明るい声やけたたましい音楽が、私の耳には騒々しく感じられるようになっていた。


 寝つきは悪かった。布団に入っても、目が冴えて、幾度も寝返りを打つ。そしていざ眠りに落ちても、しばしば夢に悩まされた。夢の中で、私はあの事件の現場に戻っている。あるいは、父に殴られている。あるいは、同級生に取り囲まれて嘲笑されている。汗まみれになって目を覚まし、真っ暗な天井を見上げながら、私は何度も独りごちた。「私はもう自由だ」と。「ここには父もいない。いじめた奴らもいない。私はもう、一人の大人として、この仙台で生きている」と。言い聞かせねば、自分を保てなかったのである。


 広瀬川は、夜になると、静かな音を立てて流れた。窓を開ければ、その水音がかすかに聞こえてきた。私はしばしば、その音に耳を傾けながら、物思いに沈んだ。川は流れる。絶えず流れ、決して同じ水を湛えることはない。鴨長明の言葉が、ふと頭をよぎる。人もまた、このようにして移ろってゆくものであろうか。ならば、私のこの苦しみも、いつかは流れ去ってゆくものであろうか。


 しかし、そう思う端から、別の声が頭の中で囁く。いや、お前の苦しみは流れ去らぬ。お前が犯した罪は、お前の生涯を、いや、お前の死後さえも、付きまとい続けるだろう。お前は、赦されぬ存在なのだ、と。その声に、私は幾度となく打ちのめされた。


 三十の年を迎えた春のことであった。私はその夜も、倉庫勤務を終えて部屋に戻り、茶を啜りながら、本を読んでいた。窓の外では、名残の桜が夜風に散っていた。そのとき、私はふと、自分の人生のこの奇妙な停滞を思った。仙台に来て七年。同じ職場、同じ部屋、同じ日常の繰り返し。私は、自分が生きているのか、ただ呼吸しているだけなのか、分からなくなる時があった。


 誰かに会いたい。不意に、そんな思いが胸をかすめた。誰でもよい、私のこの孤独を、少しでも和らげてくれる誰かに。しかし、同時に、会うのが怖い、という思いもあった。近づけば、きっと過去が露見する。そうなれば、私はまた一人になる。それを承知で、それでも誰かを求めずにはいられぬ自分が、そこにはいた。


 私は本を閉じ、窓辺に立った。広瀬川は、今宵も絶えず流れている。川面に月が映って、ゆらゆらと揺れていた。その揺らぎを見つめながら、私は深い溜息をついた。自分でも気づかぬうちに、私の心の中では、何かが動き始めていたのかもしれぬ。それがどのような形で現れ出るかは、その夜の私には、まだ知る由もなかった。ただ、胸の奥に、ほのかな、しかし確かな疼きがあった。それが、幸福への予感であったのか、それとも新たな破滅への序曲であったのか、今となっては判じかねる。恐らくは、その両方であったのだろう。人生というものは、いつでも、そのようにしてやってくるのである。

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