第8話 近いのに、遠いまま
待ち合わせ場所。
夜の駅前。
人の流れの中に、なおきの姿はすぐに見つかった。
(……いた)
軽く手を上げている。
「すみません、呼び出して」
「……いえ」
いつも通りのやり取り。
けれど。
どこか、少しだけ違う。
「少しだけって言ってたんで」
なおきが言う。
「軽く飲みましょう」
その言葉に、あすかは頷く。
店に入る。
前に来たことのある場所。
落ち着いた照明。
適度な距離感のある席。
(……ここ)
安心するはずの空間。
なのに。
少しだけ、落ち着かない。
「何飲みます?」
なおきが聞く。
「……同じので」
「了解です」
注文を済ませる。
会話が始まる。
仕事の話。
日常の話。
何気ない話題。
どれも、変わらない。
いつも通り。
なのに――
(……違う)
言葉の奥に、何かが引っかかる。
「昨日、びっくりしましたよね」
なおきが、ふと切り出す。
その話題。
避けるかと思っていた。
「……少し」
正直に答える。
なおきは、少しだけ苦笑する。
「すみません」
「ほんとに、何もないんで」
その言い方。
軽くて。
でも、少しだけ早い。
(……説明しない)
詳しくは言わない。
それ以上は、踏み込ませない。
「……そうなんですね」
それ以上、聞かない。
聞けない。
なおきは、すぐに話題を変える。
「最近、仕事どうですか?」
あまりにも自然に。
さっきの空気を消すように。
(……やっぱり)
この人は、そういう人。
深く触れさせない。
それでも――
「普通です」
会話は続ける。
止めたくない。
それが、本音。
時間が過ぎる。
グラスが空になる。
「もう一杯いきます?」
「……はい」
自然に頷く。
その流れも、いつも通り。
けれど――
(……このまま)
続けていいのか。
その問いが、頭に残る。
店を出る。
夜の空気。
少しだけ冷たい。
「少し歩きます?」
なおきが言う。
「……はい」
並んで歩く。
距離は、近い。
肩が、少しだけ触れそうになる。
その瞬間。
なおきが、少しだけ寄る。
触れるか、触れないか。
その距離。
(……また)
同じ感覚。
近いのに。
決定的には、踏み込まない。
「寒くないですか?」
なおきが言う。
「……大丈夫です」
白いマフラーに触れる。
その仕草を、なおきが見る。
「似合ってますね、それ」
軽く言う。
前と同じ言葉。
けれど。
今は、少しだけ違って聞こえる。
(……同じこと)
誰にでも言っているのか。
そんな考えが、よぎる。
「……ありがとうございます」
それでも、答える。
沈黙。
夜の音だけが、流れる。
なおきが、少しだけ足を止める。
「ここ、静かですね」
小さな路地。
人通りが少ない。
「……そうですね」
ふたりだけの空間。
少しだけ、距離が縮まる。
なおきが、ゆっくりと近づく。
顔が、近い。
息が、触れそうな距離。
(……来る)
そう思った。
けれど――
なおきは、止まる。
ほんの少しの距離を残して。
それ以上は、踏み込まない。
「……」
目が合う。
そのまま、数秒。
何も起きない。
なおきは、少しだけ笑う。
「……帰りましょうか」
そう言って、距離を戻す。
(……なんで)
心の中で、問いが浮かぶ。
さっきの距離。
あと少しで、何かが変わるはずだった。
それなのに――
引いた。
自分から。
「……そうですね」
あすかは、静かに答える。
並んで歩く。
さっきよりも、少しだけ距離がある。
(……この人は)
近づく。
でも、決して越えない。
その線を、自分で引いている。
そして――
それを、守っている。
(……怖いのかもしれない)
ふと、そう思う。
深く関わることが。
その先に行くことが。
だから。
ここで止まる。
「今日はありがとうございました」
なおきが言う。
「……こちらこそ」
短く返す。
「また、時間あれば」
その言葉。
いつも通り。
軽くて。
曖昧で。
けれど――
確実に続いていく関係。
「……はい」
頷く。
それ以上は、言わない。
なおきは、軽く手を振る。
そのまま、離れていく。
あすかは、その背中を見つめる。
(……近いのに)
(……遠い)
その感覚が、はっきりと残る。
春の夜。
ふたりの距離は、確かに近い。
けれど――
その間には、越えられない何かがあった。
それはまだ、名前のないものだった。




