第6話 踏み込ませない人
それは、何気ない夜だった。
あすかは、またあの店に来ていた。
カラン。
扉を開ける。
そして――
「こんばんは」
その声で、すぐに分かる。
なおきがいた。
(……いた)
少しだけ、安心する。
「こんばんは」
隣に座る。
前よりも、自然に。
「最近よく会いますね」
なおきが笑う。
「……そうですね」
短く返す。
それだけなのに。
少しだけ、空気が柔らかい。
「今日も仕事帰りですか?」
「はい」
「お疲れさまです」
変わらないやり取り。
変わらない距離感。
けれど――
(……前より近い)
それは、確かだった。
「この前の店、どうでした?」
なおきが聞く。
「……楽しかったです」
「よかった」
笑う。
その顔を見ていると。
やっぱり、楽しかった記憶がよみがえる。
「また行きましょう」
自然に出てくる言葉。
「……はい」
少しだけ、間を置いて頷く。
その時。
「なおき」
別の声がした。
少し高い声。
明るいトーン。
ふたり同時に、振り返る。
そこにいたのは――
女性だった。
「やっぱりいた」
慣れた様子で、なおきに近づく。
距離が近い。
迷いがない。
「久しぶり」
なおきも、普通に返す。
驚いた様子はない。
「連絡返してよ」
少しだけ笑いながら言う。
軽い口調。
けれど――
距離が、近い。
(……誰)
あすかは、黙ったまま見る。
「ごめんごめん」
なおきは、軽く謝る。
そのやり取りが、あまりにも自然で。
(……こういう人)
頭の中で、何かが繋がる。
「で?」
女性が、あすかを見る。
一瞬だけ。
値踏みするような視線。
「友達?」
その問い。
軽くて。
でも、どこか棘がある。
なおきは、一瞬だけ間を置く。
ほんの、わずか。
「……知り合い」
そう答えた。
その言葉。
短くて。
曖昧で。
どこか、距離を置いている。
(……知り合い)
その響きが、少しだけ残る。
「へぇ」
女性は、あすかをもう一度見る。
そして、笑う。
「そっか」
それだけ言って。
なおきの肩に、軽く触れる。
「また連絡してよ」
近い距離で言う。
そのまま、店を出ていく。
カラン。
扉の音。
静けさが戻る。
「……」
少しだけ、空気が変わる。
なおきは、何もなかったようにグラスを持つ。
「知り合い、多いんですね」
あすかが言う。
自然を装って。
「まぁ、それなりに」
軽く返す。
そのまま。
話題を変える。
「今日、結構混んでますね」
あまりにも自然に。
さっきのことを、なかったことにするように。
(……触れない)
あすかは、少しだけ見る。
なおきの横顔。
さっきと変わらない。
何も、揺れていない。
「……さっきの人」
少しだけ、踏み込む。
なおきは、一瞬だけ止まる。
ほんの一瞬。
「前の知り合いです」
それだけ。
それ以上は、言わない。
説明もしない。
深掘りもさせない。
「……そうなんですね」
それ以上、聞けなかった。
聞いても、答えない気がした。
「気にしないでください」
なおきが言う。
軽く。
いつものトーンで。
けれど――
(……気にする)
気にしない方が、無理だった。
さっきの距離。
あの空気。
あの女性の態度。
全部が、頭に残る。
「……はい」
それでも、頷く。
会話は続く。
けれど――
どこか、噛み合っていない。
さっきまでの自然さが。
少しだけ、崩れている。
(……この人は)
やっぱり。
踏み込ませない。
自分の中の、どこかに。
線を引いている。
楽しい。
優しい。
近い。
それなのに――
一番知りたいところには、触れさせない。
(……分からない)
グラスを見つめる。
さっきまでの温度が。
少しだけ、変わっている。
「今日はこのへんで帰ります?」
なおきが言う。
いつも通りの口調。
けれど。
どこか、早い気がした。
「……そうですね」
あすかは、頷く。
店を出る。
夜の空気。
少しだけ冷たい。
「送りますよ」
なおきが言う。
「……大丈夫です」
少しだけ、間を置いて断る。
なおきは、一瞬だけ見る。
そして、笑う。
「分かりました」
それ以上は、何も言わない。
「じゃあ、また」
軽く手を振る。
そのまま、歩いていく。
あすかは、その背中を見ない。
見れなかった。
(……知り合い)
その言葉が、頭に残る。
軽い関係。
深くは関わらない。
でも、距離は近い。
(……この人は)
誰と、どういう関係を築いているのか。
分からない。
そして――
(……私は)
その中で、どこにいるのか。
分からなくなっていた。
春の夜。
近づいたはずの距離が。
少しだけ、遠く感じる。
その違和感は――
もう、はっきりと形になっていた。




