第1話 春が入ってきた夜
冬が、終わる。
そう思ったのは、空気のせいだった。
夜の風はまだ少し冷たい。
けれど、その奥にほんのわずかなやわらかさが混ざっている。
あすかは、いつものように歩いていた。
仕事帰り。
見慣れた道。
そして――
あの店。
扉の前で、少しだけ立ち止まる。
(……いつも通り)
そう思って、扉に手をかける。
カラン。
静かな音が、店内に広がる。
「いらっしゃいませ」
変わらない声。
変わらない空気。
カウンターに座る。
いつもの場所。
グラスが置かれる。
「今日は少し暖かいですね」
マスターが、穏やかに言う。
「……そうですね」
短く答える。
それだけで、十分だった。
この店は、余計な言葉がいらない。
あすかにとって、そういう場所だった。
グラスに口をつける。
そのとき――
「すみません、ひとりなんですけど」
少しだけ大きな声。
店の空気が、ほんの少しだけ揺れる。
あすかは、自然と視線を向ける。
入口に立っている男。
スーツ姿。
少しだけ崩したネクタイ。
軽く整えた髪。
どこにでもいそうで。
けれど、少しだけ目立つ。
「カウンター、いいですか?」
その声は、よく通る。
「どうぞ」
マスターが答える。
男は、あすかの一つ隣の席に座る。
距離は、近い。
けれど――
どこか空気が違う。
「こういう店、初めてで」
男が言う。
マスターは、静かに頷く。
「おすすめ、あります?」
軽い口調。
けれど、嫌な感じはしない。
あすかは、グラスを持ったまま少しだけ耳を傾ける。
「お酒は強い方ですか?」
「いや、そんなでも」
笑いながら答える。
「でも、雰囲気いい店探すの好きで」
その言葉に、少しだけ引っかかる。
(……探す?)
「仕事が営業なんで、あちこち行くんですよ」
男は続ける。
「ついでに、こういう店も開拓してて」
軽く笑う。
その笑い方が、少しだけ軽い。
けれど――
どこか、慣れている。
(……こういう人)
今まで、あまり関わってこなかったタイプ。
「いいですね」
マスターが言う。
「当たり外れ、ありますけどね」
「ありますよね」
男が笑う。
「今日は当たりっぽいですけど」
そう言って、ちらりと店内を見渡す。
そして――
一瞬だけ、あすかと目が合う。
すぐに逸らす。
けれど。
「常連さんですか?」
声をかけられる。
あすかは、少しだけ驚く。
「……はい」
短く答える。
男は、少しだけ嬉しそうに笑う。
「やっぱり」
「なんとなく、そんな感じしました」
その言葉に、少しだけ戸惑う。
「……そうですか?」
「落ち着いてるので」
さらっと言う。
距離が、少しだけ近い。
けれど――
不思議と、不快ではない。
「自分、なおきって言います」
自然に名乗る。
その流れに、少しだけ迷う。
けれど――
「……あすかです」
気づけば、答えていた。
「いい名前ですね」
すぐに返ってくる。
軽い。
けれど、どこか自然。
(……こういう感じ)
しょうたろうとは、まったく違う。
あの人は、もっと慎重で。
もっと静かで。
この人は――
「よく来るんですか?」
なおきが聞く。
「……たまに」
「じゃあ、また会えますね」
その言葉に、少しだけ引っかかる。
軽い。
けれど――
どこか、確信があるような言い方。
「……どうでしょう」
あすかは、少しだけ距離を取るように答える。
なおきは、気にした様子もなく笑う。
「また来ますよ、自分」
その一言。
まるで、それが当然みたいに。
グラスを持つ。
少しだけ、口をつける。
味は、いつもと同じはずなのに。
どこか、違って感じる。
店の空気が、少しだけ変わっている。
静けさの中に。
少しだけ、ざわつきが混ざる。
(……春)
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
まだ、始まったばかりの季節。
何かが、動き出す気配。
隣で笑う男。
軽くて。
どこか掴めなくて。
けれど――
確かに、空気を変える存在。
あすかは、視線を少しだけ横に向ける。
なおきが、楽しそうに話している。
その姿を見ながら――
(……この人)
ほんの少しだけ。
興味を持っている自分に、気づいた。
春の夜。
静かな場所に。
少しだけ騒がしい風が、入り込んできた。
それが――
どこへ向かうのかは、まだ分からない。
ただ。
確かに、何かが始まった気がしていた。
「この辺、よく来るんですか?」
なおきの声は、やはり少しだけ大きい。
「……あまり」
あすかは、グラスを見ながら答える。
「でも、この店は好きです」
それは、自然に出た言葉だった。
なおきは、少しだけ目を細める。
「いいですよね、ここ」
軽い口調。
けれど――
「静かで」
その一言が、少しだけ意外だった。
あすかは、ちらりと横を見る。
「……静かな店、好きなんですか」
なおきは、少しだけ笑う。
「好きですよ」
間を置いて、続ける。
「落ち着くんで」
その言葉に、ほんの少しだけ違和感を覚える。
(……本当?)
この人は、もっと賑やかな場所の方が似合う。
そう思ってしまう。
けれど――
「仕事柄、うるさい場所ばっかりなんで」
その一言で、少しだけ納得する。
「こういうとこ、逆に新鮮で」
グラスを傾ける。
「……なるほど」
あすかは、小さく頷く。
会話は、途切れない。
それが、不思議だった。
これまでの自分なら。
知らない人と、こんなふうに話すことはなかった。
それなのに。
なおきの言葉は、するりと入ってくる。
距離の取り方が、うまい。
踏み込みすぎず。
引きすぎず。
「仕事、何されてるんですか?」
「……小説を書いてます」
「え、すごいですね」
少しだけ、目を見開く。
「どんなのですか?」
「……推理が多いです」
「かっこいいな」
その反応が、あまりにも素直で。
少しだけ、戸惑う。
「いや、ほんとに」
なおきは続ける。
「自分、そういうの全然できないんで」
「できない?」
「じっとしてるの苦手なんですよ」
軽く笑う。
「すぐ外出たくなるタイプで」
その言葉に、少しだけ納得する。
(……やっぱり)
この人は、動く人だ。
あすかとは、違う。
正反対に近い。
それなのに。
こうして、同じ場所にいる。
「なおきさんは、ずっと営業なんですか?」
「もう20年くらいですね」
さらっと言う。
「長いですね」
「長いですよ」
少しだけ笑う。
「でも、飽きないんで」
その言葉に、少しだけ引っかかる。
(……飽きない)
それは、強さなのか。
それとも――
「人と会うの、好きなんですか?」
あすかは、少しだけ踏み込む。
なおきは、一瞬だけ考える。
「……どうなんですかね」
軽く笑う。
「好きな方だとは思いますけど」
「でも?」
思わず、続きを聞いてしまう。
なおきは、少しだけ視線を外す。
ほんの一瞬。
「……長く一緒にいるのは、苦手かもしれないです」
その言葉は、静かだった。
軽さが、少しだけ消える。
あすかは、何も言えなかった。
その一言が、妙に引っかかる。
けれど――
「まぁ、飽き性なんで」
すぐに、いつもの調子に戻る。
笑って、流す。
それ以上は、踏み込ませない。
(……今の)
本音だったのか。
それとも――
ただの軽い話なのか。
分からない。
けれど。
少しだけ、気になった。
「……あすかさん」
名前を呼ばれる。
「はい」
「また、来ますね」
その言葉は、最初と同じ。
けれど――
さっきより、少しだけ違う響き。
「……そうですか」
あすかは、淡々と返す。
「そのとき、また話してください」
なおきは、自然に言う。
断る理由はない。
けれど、頷くのも少しだけ迷う。
(……どうしよう)
ほんの一瞬の沈黙。
「……気が向いたら」
そう答える。
それが、今の自分の距離。
なおきは、少しだけ笑う。
「それでいいです」
軽くて。
でも、無理に踏み込まない。
その距離感が、妙に心地いい。
時間が過ぎる。
気づけば、最初の緊張は消えていた。
けれど――
どこかで、意識している。
隣にいる存在を。
その空気を。
店を出る時間。
なおきが先に立ち上がる。
「お先に失礼します」
「……お疲れさまです」
軽く会釈する。
扉の前で、なおきが振り返る。
「また、来ます」
やっぱり、その言葉。
あすかは、少しだけ間を置いて。
「……はい」
小さく、頷く。
カラン。
扉が閉まる。
静けさが、戻る。
けれど――
完全には、戻らない。
ほんの少しだけ。
空気が変わっている。
グラスに口をつける。
味は、同じ。
それなのに。
どこか、違う。
(……あの人)
軽くて。
掴めなくて。
少しだけ、本音を隠している。
そんな印象が、残る。
けれど――
(……嫌じゃない)
むしろ。
少しだけ。
続きを見てみたいと思っている。
春の夜。
静かな場所に入り込んだ、小さな変化。
それはまだ――
ただの出会いでしかない。
けれど。
その出会いが、何を連れてくるのか。
あすかは、まだ知らなかった。




