EP 23
血塗れの畳と、温かな掌
静寂が支配するはずの茶室『水鏡庵』は、今、鉄錆のような血の臭いと、緊迫した空気に包まれていた。
「……っ、はぁ、はぁ……」
畳の上に横たえられた犬耳族の従者、ルクスの呼吸は浅く、速い。
エリザの無理難題に応えるため、魔境を駆けずり回り、身体は魔獣の爪痕や打撲でボロボロだった。傷口から溢れ出る血が、青々とした畳を赤黒く染めていく。
「しっかりしてください。今、先生が来ますからね」
飛鳥は自身の着物の袖が汚れるのも構わず、スキルで出した清浄な水をボウルに満たし、手拭いを絞ってはルクスの傷口を押さえていた。
普段、一滴の茶のしずくが落ちることさえ嫌う彼が、畳が血の海になることを一顧だにしない。
彼にとって、「道具への敬意」以上に「命への敬意」が勝るからだ。
バァン! と躙り口が激しく開かれた。
「飛鳥! 先生を連れてきた! 王宮医のマルーナさんだ!」
飛び込んできたのは、レオナ(とミーナ)だった。女王自らが先導し、後ろから白衣を着た羊耳族の女性が入ってくる。
「患者はここね! ……ひどい怪我」
医師マルーナは、一瞬眉をひそめたが、すぐにプロの顔になった。
彼女はルクスのそばに跪くと、両手に淡い光を灯した。
「『癒やしの羊毛』……傷よ、塞がりなさい」
温かな光がルクスの身体を包み込む。
魔法による急速な細胞の再生。それは同時に、強烈な熱と痛みを伴う荒療治でもあった。
「――うっ、ううっ……!!」
意識のないルクスが、苦悶の声を漏らして身をよじった。
恐怖と痛みで、彼の腕が何かを求めて宙を彷徨う。
ギュッ。
その手を、誰かが強く、そして温かく握りしめた。
「……大丈夫。大丈夫ですよ」
飛鳥だった。
彼はルクスの冷たくなった手を両手で包み込み、もう片方の手で、強張った背中を優しくさすり続けた。
「貴方はもう安全です。もう誰も、貴方を傷つけません」
まるで幼子をあやすような、一定のリズム。
その体温と、耳元で響く穏やかなバリトンの声が、ルクスの悪夢を払拭していく。
「う……あ……」
ルクスの表情から険しさが消え、安らかな寝息へと変わっていった。
無意識のうちに、ルクスは飛鳥の手を握り返していた。命綱を離すまいとするように。
数刻後。
マルーナが額の汗を拭い、ふぅと息を吐いた。
「……ふぅ。もう大丈夫よ。峠は越えたわ」
「ありがとうございます、マルーナ先生」
飛鳥が深々と頭を下げる。
その声に反応するように、ルクスの瞼がピクリと動いた。
「……ん……」
ゆっくりと目が開く。
見慣れた薄汚れた天井でも、エリザの怒鳴り声が響く屋敷でもない。
見たこともない美しい木目の天井と、優しく香るイグサの匂い。
「あ、あれ……ここは……?」
「気が付きましたか」
視線を横に向けると、そこには優しく微笑む飛鳥の顔があった。
「良かった……。本当に、良かったです」
「み、ミーナ様……? 飛鳥様!? ど、どうなってるんですか?」
ルクスは飛び起きようとして、激痛に顔を歪めた。
自分の状況が理解できない。自分は道具のように扱われ、使い潰されて死ぬはずだったのに。
「落ち着けルクス。お前はさっき気絶して、ここまで運ばれたんだ」
ミーナが水差しを持って近寄ってきた。
「そして、そこで治療を受けた。……良かったな、生きてて」
「ミーナ様……」
「もう大丈夫よ。全身打撲に裂傷、栄養失調まであったけど……貴方の生命力と、彼の手当てのおかげね。頑張ったわね」
マルーナが慈愛に満ちた瞳で微笑みかける。
「手当て……俺なんかに……?」
ルクスは呆然と自分の手を見た。
そこには、温かな感触が残っていた。夢うつつの中で、ずっと自分を励まし続けてくれた手の温もり。
そして気付く。
自分が寝かされていた場所――そこは、エリザ様が「何億積んでも入りたい」と切望していた、あの神聖な茶室の畳の上だということに。
その畳には、自分の汚れた血が染み付いている。
「あ、あぁ……申し訳、ありません……! 俺の血で、こんな高貴な場所を……!」
ルクスが顔面蒼白になって謝ろうとした瞬間、飛鳥がその肩を静かに抱いた。
「謝る必要などありません」
飛鳥は、血の染みを気にする様子もなく、ただルクスの目を見て言った。
「畳は張り替えれば済みますが、貴方の命は一つしかありません。……生きていてくれて、本当に良かった。元気になられて、何よりです」
「――っ」
ルクスの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
痛みによる涙ではない。
生まれて初めて、「人」として扱われたことへの、魂の慟哭だった。
「うぅ……あぁぁ……ありがとうございます……!」
男泣きするルクスの背中を、飛鳥はいつまでも優しくさすり続けた。
その光景を、レオナとミーナ、そしてマルーナは、静かに、温かい眼差しで見守っていた。




