EP 16
和敬清寂――武人と茶人の交錯
茶室「水鏡庵」に満ちていた甘い羊羹の余韻が落ち着き、再び静寂が訪れた。
ガエン将軍は、ふと正面の床の間に掛けられた一幅の掛け軸に目を留めた。
力強く、それでいて押し付けがましくない、流れるような墨の文字。
武骨な彼が見ても、そこに込められた精神性の高さが感じ取れた。
「……飛鳥よ」
「はい」
「これは、何と書かれているのだ? 俺は文字には疎くてな」
「『和敬清寂』と読みます」
飛鳥は正座したまま、掛け軸を見上げた。
「どういう意味なのだ?」
「茶道の心構え、そのすべてを表した言葉です」
「茶の心構え……」
ガエンは腕を組み、その四文字を睨むように見つめた。飛鳥は静かに、一つ一つの文字を紐解くように語り始めた。
「まず『和』。――これは、お茶を点てる私(亭主)と、お茶を飲む貴方様(客)が、互いに心を開いて通わせることです」
「心を開く、か」
ガエンは低く唸った。
戦場において、相手に心を開くことは死を意味する。彼は常に心を鎧で閉ざし、威圧することで身を守ってきた。だが今、この狭い茶室で、彼は武器を置き、無防備に座っている。
不思議と、それが不快ではなかった。
「次に『敬』。――敬う心です。これは人間同士だけではありません。茶を点てる道具、掛け軸、花……そして、ガエン様とこうして茶を嗜める『この時間』そのものを敬うことです」
「人間だけでなく……道具や空間、時間までも敬う、か」
ガエンの視線が、手元の空になった茶碗へと落ちた。
道具を敬う。それは武人にとっても通じるものがある。名剣は、使い手が敬意を持って扱わねば真価を発揮しない。
(俺は今まで、部下や武器を、ただの駒や道具として扱っていなかったか……?)
「そして『清』。――清らかであること。茶室や道具が塵一つなく清められているのは当然ですが、何より大切なのは、主と客、互いの『心』が清らかであることです」
「清潔……心も、か」
ガエンは、自身の心にこびりついた戦場の泥や、先程までの飛鳥への偏見を思った。
この空間にいると、それらが洗い流されていくような感覚。それが『清』なのか。
「最後に『寂』。――これら三つを保ち、如何なる時も動じない心。静かなる悟りの境地です」
「……!!」
ガエンの虎耳がピクリと動いた。
動じない心。
それは彼が武の道において追い求め、未だ到達し得ていない「明鏡止水」の境地そのものではないか。
「如何なる時も、動じず……」
ガエンは、飛鳥を見た。
ゴブリンの前でも、ゴルディの暴言の前でも、そして自分の殺気の前でも、この男は決して揺らがなかった。
それは彼が弱いからではない。この『寂』を持っていたからだ。
「……武に通じるな。いや、全てに、か」
ガエンの瞳から、険しい色が消えた。
そこにあるのは、一人の求道者としての、飛鳥への純粋な敬意だった。
「――どうぞ」
飛鳥は、思考に耽るガエンの前に、二服目の茶を差し出した。
鮮やかな緑の液体が、黒い茶碗の中で揺れる。
ガエンは恭しく茶碗を両手で包み込んだ。
先程までは「ただの飲み物」だった。だが今は、そこに込められた「和敬清寂」の重みが分かる。
ゆっくりと、一口。
「…………」
苦味の中に広がる、奥深い甘み。
それは喉を潤すだけでなく、乾いた魂に染み渡るようだった。
「美味しいな……」
ガエンがポツリと漏らした一言は、先程の感想とは全く違う響きを持っていた。
心からの言葉だった。
飛鳥は手をつき、畳に額が付くほど深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。……想いが届き、光栄です」
ガエンは最後の一口を飲み干し、茶碗を丁寧に拝見してから返した。
そして、残っていた羊羹の一切れを口に放り込み、満足げに咀嚼した。
「美味い。……菓子も、茶も、貴様の心意気もな」
ガエンは巨体を揺らして立ち上がった。
躙り口から出る際、彼は入る時よりもずっと自然に、頭を下げていた。
「また……茶を飲ませてくれ」
「はい。何時でもお待ちしております」
ガエンは背筋を伸ばし、清々しい顔で去っていった。
その足取りには、猛虎の荒々しさはなく、王者の風格が漂っていた。
客が去った後の茶室。
飛鳥はすぐに、茶碗を清め、畳を拭き始めた。
『清』の実践。終わった後こそ、より美しく。
その一部始終を見ていたレオナは、感嘆のため息をついた。
「(飛鳥……お前はなんて凄いんだ)」
力でねじ伏せるのではなく、哲学で心服させる。
あの頑固なガエンに、自ら「また来たい」と言わせたのだ。それは、レオナが剣で百回打ち負かしても成し得ない偉業だった。
「飛鳥! 凄いわ!」
ミーナが興奮気味に駆け寄ってきた。
「あのガエン将軍も、完全に飛鳥に魅了されたわね! 尻尾、最後の方はご機嫌に揺れてたもの!」
「ふふ、そうですか」
飛鳥は手を休めず、穏やかに微笑んだ。
「私はただ、茶を点てただけに過ぎませんよ。……ガエン将軍の心に、元々受け入れる土壌があったのです」
謙遜ではなく、本心からの言葉。
その背中を見ながら、レオナは確信した。
この男は、サバルテ獣人国を――いや、この世界を変えるかもしれない、と。
「……私も、負けてはいられぬな」
女王は、自身の心にも「和敬清寂」の灯火がともったのを感じていた。




