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EP 1

一期一会の茶会

早春の風が、街路樹の梢を優しく揺らしていた。

水神飛鳥みずかみ あすかは、いつものように雪駄の音を心地よく響かせながら、アスファルトの道を歩いていた。藍色の着物に袴姿。すれ違う人々が珍しそうに視線を向けるが、彼は気にする様子もなく、穏やかな笑みを湛えている。

「今日も、良い一日でありますように」

心の中でそう呟いた時、視界の端に小さな影が動いた。

歩道の脇、ガードレールの切れ目に一匹の猫が座っていた。毛並みの良い、可愛らしい三毛猫だ。

「おや。……可愛いですねぇ」

飛鳥は目を細め、腰を屈めて猫に手を伸ばそうとした。

その瞬間、猫が何かを追うように車道へと飛び出した。

同時に、交差点へ突っ込んでくる大型トラックの影。信号は赤だったが、ドライバーは気づいていない。轟音とブレーキ音が、静かな朝を切り裂く。

(――危ない)

思考よりも先に、体が動いていた。

陶芸で培った体幹と、茶道で磨いた無駄のない所作。飛鳥の体は流れる水のように滑らかに、しかし矢のように速く車道へ滑り込んだ。

腕の中に温かい毛玉を抱きかかえ、勢いのまま反対側へ放り投げる。

ドンッ、という衝撃。

世界が反転し、視界が白く染まる。

最後に飛鳥が思ったのは、自分の痛みではなく、腕から離れた小さな命のことだけだった。

「……もし!」

それが、水神飛鳥の現世での最期の言葉となった。

気がつくと、飛鳥は白亜の空間に立っていた。

上下左右の区別がない、無限に広がる白い世界。だが不思議と恐怖はない。むしろ、茶室に入った時のような静謐さを感じていた。

「目覚めましたか? 水神飛鳥さん」

不意に声をかけられ、飛鳥は振り返る。

そこにいたのは、予想外の姿をした人物だった。

神々しい光を背負ってはいるが、身につけているのは着古した緑色のジャージ。足元は健康サンダル。手にはポテトチップスの袋を持っている。

「私の名はルチアナ。この空間を管理する女神です」

「……はあ。女神、様ですか」

「何故、私の名前を知っているのか? ここはどこなのか? そう聞きたい顔ですね」

ルチアナと名乗った女神は、ポテトチップスを一枚口に放り込みながら言った。

「ここは『審判の場』。貴方は先程、猫を助けてお亡くなりになりました」

あまりにあっけない宣告。しかし、飛鳥は取り乱すこともなく、静かにその事実を受け止めた。まるで、茶碗のひび割れを確認するかのように冷静に。

「そうなのですか。……あの、猫は無事でしたか?」

「…………」

ルチアナの手が止まった。

彼女は少し驚いたように眉を上げ、飛鳥の顔をまじまじと見つめた。

「なるほど。自分の命が失くなったと聞いた直後に、猫の心配ですか」

「ええ。尊い命ですから」

「動じないのですね。……よろしい」

ルチアナは満足げに頷き、ジャージのポケットに手を突っ込んだ。

「実はあの猫、私が可愛がって下界に散歩させていた子なのです。貴方は私の愛する猫を救った。その功績を称え、水神飛鳥さん、貴方に『転生』の機会を授けます」

「転生、とは?」

「貴方の魂を、別の世界で新たな肉体に入れて蘇らせることです。行き先は『アナスタシア』。剣と魔法が存在し、魔物が跋扈するファンタジー世界です」

「剣と、魔法……」

「過酷な世界ですが、貴方ならやっていけるでしょう。特別ボーナスとして、『言語理解』に加え、貴方の得意分野である『茶道・陶芸』に関する能力を、魔法のようなスキルとして使えるように設定しておきます」

魔物や魔法といった言葉にも、飛鳥は「ほう」と感心したような相槌を打つだけだ。

そのあまりのマイペースさに、ルチアナは苦笑した。

「随分と達観していますね。茶道家というものは、皆そうなのですか?」

「さあ、どうでしょう。ただ、起きてしまったことは変えられません。割れた茶碗を嘆くより、金継ぎをして新たな景色を愛でるのが私の性分ですので」

飛鳥は着物のたもとを整え、ふと思い立ったように女神を見た。

「あの、出発までまだ時間はありますか?」

「ええ、多少なら。何か質問でも?」

「いえ。せっかくのご縁です。……私の茶を、飲んで行きませんか?」

「え?」

ルチアナが間の抜けた声を上げた。

死んで、異世界へ飛ばされる直前の人間が、女神にお茶を振る舞う? 長い管理者生活の中で、初めての提案だった。

飛鳥は何もない空間にスッと手をかざした。

「失礼いたします。――スキル、『茶席展開』」

彼が念じると、白い空間に突如として赤い毛氈もうせんが敷かれ、豪奢な野点傘のだてがさが開いた。虚空から現れたのは、美しい黒楽茶碗と、なつめ茶筅ちゃせん。そして湯のたぎる風炉釜。

「なんと……もう使いこなしているのですか」

驚くルチアナをよそに、飛鳥は流れるような所作で茶を点て始めた。

シャカ、シャカ、シャカ……。

静寂の空間に、茶筅が茶碗を擦る微かな音だけが響く。その音は、女神の心すら鎮める不思議な律動を持っていた。

「どうぞ」

差し出された茶碗の中には、鮮やかな緑色の泡が美しく立っている。

ルチアナはおずおずとサンダルを脱ぎ、毛氈の上に座った。作法など分からないまま茶碗を手に取り、一口すする。

「……っ」

濃厚な香りと、心地よい苦味。その後に広がるふくよかな甘味。

何千年もの間、ジャンクフードばかり食べていた女神の体に、温かいものが染み渡っていく。

「美味しいですわ……。心が、洗われるようです」

「お口に合いましたか。それは良かった」

飛鳥は柔らかく微笑んだ。

飲み終えたルチアナの表情は、先ほどまでの気だるげな様子が消え、どこかスッキリとしていた。

「……水神飛鳥。貴方は面白い魂を持っていますね。アナスタシアでも、その心を忘れずに」

「はい。この一服の御恩、そして新たな生を頂いたこと、感謝いたします」

飛鳥は立ち上がり、深々と、本当に深々とルチアナに頭を下げた。その姿は、高貴な客人を送り出す亭主そのものだった。

「では、行って参ります」

飛鳥の体が光の粒子となってほどけていく。

彼が消えた後には、微かな抹茶の香りと、静かな余韻だけが残されていた。

ルチアナは空になった茶碗を見つめ、クスリと笑った。

「茶道家、恐るべし……ですね。良い旅を、飛鳥」

こうして、ジャージ姿の女神に見送られ、水神飛鳥の異世界での「おもてなし」の旅が幕を開けたのである。

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