隔絶
激高した少年の拳が自分の顔面を思いっきり殴りつけてきた瞬間、彼女は未だ事態を正確に把握していなかった。
ただツンとした鼻の詰まる感覚に襲われ、気が付くと狭い居間の床に頭から倒れたらしかった。
いきなり視界が暗転したらもう、そうなっていたのだ。
自分が今感じているものが、激しい痛みなのだと、後頭部と顔面両方からガンガンズキズキとどちらのものとも定かでないままに巻き起こっているのがそれなのだと、やっと理解し始めた。
痛い。
ようやくそう感じ始めた。
自分は今殴られたのかと。
遂に思い至った。
その間も変わらず、屋内のあらゆるものに当たり散らしながら喚いていたのだろう孫の姿を思い出すように認識する。
「来るなっつただろっ!」、「みっともねえんだよ!」などと、相変わらず自分が彼の入学式に出席したことを詰っているらしい。
情けない。
酷い痛みと意識の混濁で朦朧としつつも、ただそう思った。
何不自由ない生活を与え、十分な教育をしてきたなどと、微塵も思っているつもりも言うつもりもない。
いや、恐らく今時分の子供にとってはとても不便で窮屈で、満足とは程遠い貧しい暮らしだったのだろうことは間違いない。
こんな社会的には底辺であろう貧弱な、ただの老いた女だけの家。
不平不満さえあれど、前向きなものなど見出すことのほうが難しい。
ほしいものなど、碌に与えられなかったという負い目は確かにある。
自分自身、決して育ちがいいとは言えない身の上、教育などとたいそうなことなどやれるわけもない。
それでも、せめて飯だけは、と心を砕いてきたつもりであった。
寒い冬には鍋を囲み、夏には麦茶を冷やして待った。
誕生日には不格好な手作りのケーキを焼いたことだってある。
孫が笑ってくれた時間は、確かにあった。
しかし。
──その笑顔は、もううまく思い出せない。
衝撃の余韻に揺れる頭の奥で、そんな想いがぼんやりと浮かんでは消える。
今はただ、痛みと混濁の中に怒号だけが突き刺さる。
ああ、違う。
恥などさらした覚えはない。
ただ、人生の節目たる吉日を迎えた孫の姿をどうしてもこの目に焼き付けておきたかった、それだけなのだ。
母親の代わりに育ててきた子の晴れ姿を、見届けたかったのだ。
自分なりに気を使った正装をして、最低限、世間様に恥ずかしくないようにしたつもりだった。
近所の馴染みのパーマ屋で、髪だって整えてもらったのだ。
自分も孫も、家の大きさや生活の内容で軽蔑されないために。
胸を張って表に出られる準備は、十分していったはずだった。
だがそれすらも自分勝手で一方的なこちらの都合でしかなかったのか。
この不良じみながらも心根には確かな情を持っていると信じていた孫にとっては、出しゃばりでおせっかいな祖母の致命的なまでに許されざる傲慢と僭越だったのか。
ああ、もう。
哀しくて怒りようがない。
ただ情けなく、憐れなだけである。
自分も。
この孫も。
良かれと思ってやってきたことすべてが、儚く朧げながらも営々といじましくささやかに積み上げてきたものが皆、これで全部ご破算になってしまったような。
そんな無慈悲でやるせない結末を突きつけられたむなしさだけがあった。
「もう二度と余計なことすんじゃねえよ!」と、捨て台詞めいたものを吐いた後、孫が姿を消してからもしばらく動けなかった。
モルタル風のひんやりと少し湿気を感じる床の上でぼんやりとしていた。
チクタクという部屋時計の音だけが嫌に耳に響いた。
どれだけ時間がたったのか。
ズキズキとした感覚は和らぎ、いつしかもっと鈍く重いものに変わりつつあった。
少しマシになったような気がした。
試しに動こうとしてみたら、うまくいった。
ゆっくりと身体を捻り、手をついて頭を上げていく。
ずんとした重みだけを目の奥に感じるような気がしたが、大丈夫そうだった。
そのまま立ち上がると、椅子に座り込む。
そして、「はぁぁぁぁっ」と。
ぐったりと深い溜息をついてから、のろのろと夕食の支度へと移っていく。
とりあえず日常へ回帰しようと、彼女の無意識的な衝動が身体を淡々と動かし始めた。
永年に渡って培われた防衛本能が、常日頃と変わらぬ行為の中にこそ、安息があるのだという真理に縋りつかせていく。
結局、孫はその日はどこかに行ったまま帰ってこなかった。
用意した夕飯は無駄になった。
そのことにやるせなさを感じつつ、酷い眠気に布団の中に丸くなる。
頭の重みはますます増して、考えることも億劫だった。
そして気絶するように眠りにつくと、人生でこれまで出したこともない大きないびきをかき始め。
やがて朝になる前に彼女は死んだ。
自分が死んだ原因が、育て上げた孫によるものだということだけは知らずに済んだ。