教育実習生
六月も終わりに近づくと各地の大学へと進学していた卒業生達が教職員免許証の単位取得のために教育実習生として我が校を訪れて来ました。任期は二十日ぐらいだそうです。
体育館での全校集会の朝礼で紹介されたのは八人の教育実習を行う先生達、男の先生が四人に女の先生が四人です。年季の入った当校の先生達に比べてピカピカのスーツに身を包んだ先生達は初々しく見えます。
傍目に見ればゆま先生が彼等と一番近い年齢に見えますね。彼等が一体どんな授業をしてくれるのかもちょっと楽しみです。
教育実習生の先生の一人である中嶋義人先生は、私と同じ松岡団地口のバス停を利用する様で、朝のバスで一緒でした。まだ話した事は無いですけれど、ちょっといい感じの先生です。
教育実習生の先生達の詰める教室は第一校舎の一階視聴覚室。そこは丁度文化部の部室棟の真向かいになります。
もう校内では新任の先生達についての話でもちきり。男子は女子の先生、そして女子は男子の先生について、大抵はそれぞれの容姿について盛り上がっていますが、これが今後どのような評価に変わっていくのかにも興味がわきます。
この頃になると、我が二年二組のクラスの雰囲気も私の転校当初とは随分と変わってきました。休憩時間になると授業でわからないところを集まって教え合ったり考えたりする集団が出来るのです。
学校の勉強は出来るだけ学校にいる間に解決し、家に帰ってからは受験勉強に一人打ち込む。そんな感じの空気になっています。
難解な問題は成績上位を常にキープしている二人、男子は黒瀬君の元へと持ち込み、女子は池田さんに助けを求めます。
私的に良かったと思うのは藤村君の『わかりません』が無くなった事、そしてクラス内に藤村グループっぽいものが出来ている事です。クラスの才女、池田さんも藤村グループ。そのグループに私は居ませんが、藤村君とはクラブ活動でそれなりに仲良くやっているので、教室では皆さんに彼をお裾分けです。
だからといって勉強ばかりしている訳ではないですよ。クラブ活動にも熱心に取り組むし、いつの間にか放課後にこっそり一緒に帰っている男女の生徒とかも。
生徒達の交際を三年生の学年主任である倉田先生はいつも厳しい目で見ている存在。彼は集会の度に出て来ては「浮かれた事をしてないで勉強に集中しろ」なんて生徒達にしつこく注意喚起を行います。
でもそんな言葉はどこへやら、私達の青春は止まりません。
だってゆま先生が生徒達に言ったんです。
「勉強の邪魔になるから、大学に行って社会に出てから恋愛なんてのはやれ」って言う大人達の言葉を信じるなって。
日本は危機的な少子化時代。その原因は若者達の経済的困窮っていう国の政策ミスも大いにあるけれど、男女の出会いの場が殆ど無いのも原因の一つであるし、若者達の異性に対する互いの理解度や交友経験が足りない事もその大きな原因なのだと。
社会に出たら自分の周囲にいる男女しかその選択対象が無くなってしまうんだぞ。そんな事でいいのか? こんな学校っていう多数の男女が存在する場でツバつけとかなくて一体どうするんだってね。
でも、ゆま先生は但しと付け加えて一つだけ注意しました。
「学生時代に相応しい健全な交際である限り、それは許される。その一線については言うまでも無いが、その程度の事は君たちにはもう理解出来ているはずだな」
そして生物学的な観点からも女子生徒達に言います。
「女性の出産は高齢になるほど自身だけで無く生まれる子供にも危険なリスクが増していく反面、若く健康なうちに子供を産む方が、母子共に健全な状態でいられる確率がより跳ね上がるんだ。だからといって焦る必要は無いが、その事を頭の隅には置いておくように」
確かにこれは私達女子にとっては重要なアドバイス。そんな事を教えてくれる先生なんて今まで誰もいませんでしたし。でもまだ結婚や出産なんて遠い未来の事の様に感じてしまいます。
* *
学校内での約五日間の研修と準備を終えて、教育実習生の先生達が教壇に立ち始めます。音楽や家庭科の先生は別として殆どの教育実習生が三年生の教室での授業を行っている様ですが、生物の中嶋先生だけが一人二年生の授業を受け持つみたいです。
この日、私のクラスの生物の授業を担当するのは中嶋先生。
話を聞くと三年生の教室には職員室から授業内容を見学する先生達が複数教室内に来ているそうですが、今日の中嶋先生の行う生物の授業にそういった見学者は一人もおらず、生物担当の中村先生とゆま先生の二人だけが指導教員という立場で教室内にいるだけです。
中嶋先生の授業は淡々と普通に進み、何か特に面白い事が起るわけではありません。でも開始十五分ぐらいで突然先生の動きが止まりました。
何度か上を見たり下を見たりして、突然中嶋先生が言います。
「すまない。ちょっと授業内容が飛んだみたいだ」
どうやら初授業の緊張感で、頭の中が真っ白になってしまったみたいですね。それで中村先生が中嶋先生に代わって教壇に立って授業を再開しようとしたのですが、それを中嶋先生は止めました。
「授業からは脱線するが、今後の君たちの参考になるかもしれないので、この私の経験を少しこの場で語ろうと思う」
そして中嶋先生は、他の教育実習生の中で自分だけが二年生の授業を担当している理由を二つ挙げます。その一つは大学受験科目として『生物』が不人気なこと。そしてもう一つは自分の入学した大学のランクが他の教育実習生より明らかに劣っているからだと言います。
「確かに私の通う大学は大学入試ランキングではFランク相当、いやGランクかもしれない。偏差値では三十五から五十程度って所だろうな。君たちの中には偏差値七十以下は『負け組』なんて見ている者も多いんじゃないかな」
私達のクラスはゆま先生の教えで、今はもうそういう事で他人を評価したり笑ったりはしなくなっています。無反応で中嶋先生の話に耳を傾けている生徒達のその反応に、中嶋先生は「以外だな」って感じの表情を見せました。
「このクラスの生徒は笑わないね。
でも私の出身大学を調べた当校の生徒からある質問を受けました。『後悔はしていないのか』ってね。その答えを今から皆さんに伝えます」
中嶋先生が言うには、今現在日本国内にはおおよそ国立大学が八十六校、公立大学が百校、そして私立大学に至っては六百校以上が存在し、その中でFランクやGランクと言った大学は数百の学校の中に埋もれる存在なのだと。でもそれも見方を変えると全く違ったものになるのだと言います。
中嶋先生は黒板に『専門性』と大きく書き出します。
「私が通う大学の学部は『専門性』という観点から見るとこれが一気に全国二位にまで浮上する。一位は東京T大農学部内の学科だが、二位はうちの大学になる。なぜならその学科を持つ学校は全国で二校しか存在しないからなんだ」
この発言には私も驚きました。数百番目の学校が全国二位になるんですから。生徒達も私同様に声を上げています。そして中嶋先生は全国二位というメリットも話してくれます。
「私の大学の卒業生の就職率は一般的な大学の卒業生と比べて約三倍。これはただ大学を卒業しただけの学生のもので、普通に学び卒業した学生ならば十倍以上の就職率になる。
当然それはその『業界』に限っての事になるが、元々その業界への就職を目指しての入学なのだからそこは問題ないでしょう」
そしてもう一つと付け加え、中嶋先生は大学の先生の担う役割についても説明してくれます。
「大学の先生である『教授』達は学生に専門分野を教えるだけでなく、自身でも独自の研究を進めており、中には大学の名を知らしめる程に有名なその分野の第一人者と呼ばれる様な研究者もいる。そしてその教授達が実は自身のゼミ生の就職斡旋も一つの仕事として動いてくれているんだ」
だから楽に卒業単位が稼げると言われる教授の下で学ぶよりも、厳しいと言われる教授の下で学ぶ方が、就職活動はより有利に運ぶのだとです。
「私は現在、地方では第一人者と言われている教授の下で学んでおり、実はもう企業への内定も決まっているんだ。その企業は国立大学を普通に卒業しても入社は難しいとされている会社だけれど、教授の口利きでの推薦入社、つまりコネ入社ってやつだな。社会に出た時点で私は国立大学の卒業生達でも就職難に苦しんでいる中で、より有利な環境での社会人生活をスタートさせる事が出来る。
結論として、ランク下位の大学に進んだ事を後悔する要素は全く無かったと言っておきましょう」
中嶋先生は生徒達に「国立大学や有名私立大学へと進めば将来的に有利になる」と先生達は君たちに言っているだろう。君達の親御さんもそういう人が多いはずだと言います。でも実際には中嶋先生のような道もあるのだと教えてくれます。
「私は君達に受験だ勉強だと言う前に、まず自身が将来何をしたいのか、どんな職業を目指しているのかを明確に決めるべきだと提案します。それがはっきりと定まっていれば、それを手に入れる為の最短の道が見つかるはずなのだと。
国立大学や有名私立への入学がそうであるならばそれを目指せばいい。私の様にFランクGランクの大学や専門学校へ進む道が実はそれを叶える最短なのかも知れないからです」
この言葉には生徒達から思わず拍手が上がります。
授業時間の終わりまであと十五分を残す程度。ではもう一つと中嶋先生は告げると、今度は指導教員の中村先生が卒倒しそうな事を突然言い始めました。
「『生物』という教科がどんなに好きで得意でも受験科目には絶対に選ぶんじゃないぞ。特に『個別試験』でそれを選ぶと非常に厳しい戦いを強いられる事になる」
中嶋先生は黒板にテスト用紙を模した四角を大きく書いてからそれを分割し、配点を記載していきます。『農業』五十点、『化学』三十点、『生物』二十点という具合にです。
「『生物』を選択科目とする大学の『個別試験』ではこの様な傾向の配点で設問が作られている事が多い。見て貰えれば分かるが『生物』と題しながら、設問自体の配点は二十点程度しかないのです」
『生物』の科目を『個別試験』で選択させる学部は主に農学部かそれに準じる学部となり、設問も農業の基礎を学んでいるという前提で出題されるからだといいます。そして生物は『生物化学』として位置づけられて、大抵は農業肥料に関しての化学式が出題される傾向が強いのだとか。
つまり普通科の学校で教科書を元にして生物を勉強するだけでは、どんなに頑張っても二十点程度しか点数を取れないという事になるみたいです。これに対して農業高校出身者は農業と同時に普通科の授業も学べるため『個別試験』では普通科の学校よりも有利な形で受験できるのだとです。
「以上の理由から普通科の高校生が『生物』科目を選択するのは大きなリスクがあると言っておきます。ですが、この事を理解した上で勉強を進める事が出来れば、より有利に受験を進める事もできるというです。農業資料については個人で用意するのは大変なので、図書室を当たれば野菜の育成について知ることが出来ると思います。本が無ければ中村先生にお願いするか校長先生に談判して入荷してもらうのが良いでしょうね」
ちょうどチャイムが鳴りました。中村先生が前に出てきて中嶋先生に言います。
「最初は危うかったが、面白い授業内容だった。生徒の皆も中嶋先生に拍手だ」
クラス全員の拍手に見送られて中嶋先生は初めての授業を終えて教壇を後にしました。先生達が去った教室内では先程の授業内容でまた大盛り上がり。
「中嶋先生、ちょっといいかも」
なんて声も女子達の間から上がっています。これは、中嶋先生目当てで視聴覚室前に詰めかける女子生徒達の数がまた増えそうですね。
教室では高森由季子が一人そんな感想を述べ、そして彼女の見つめる先には中村先生と中嶋実習生の後をついて第一校舎の廊下を歩いている高森雪緒の姿がある。
しかし、この教育実習生の一人、中嶋義人こそが尾道中の不良達を傘下に収め、ここ尾道中央高校襲撃を画策している張本人であるという事実をこの時まだ二人は知らなかった。