ぬいぐるみは旦那様
私、エレナ・ダインスレイヴ伯爵夫人には、大切にしているものがある。
それは、旦那様――アレク様から、子供の頃に頂いたこのクマのぬいぐるみだ。
私たちは、生まれたときから互いに婚約者として決められていた。けれど、実際に顔を合わせたのは、六歳のとき。
初めて会ったその日に、アレク様が手渡してくれたのが、このクマだった。
くたびれた耳に、少し擦り切れたお腹。けれど私には世界で一番愛しいクマ。
名前は「キキ」。私がそう名付けた。
あれから十五年。ずっと、私はこの子を手放せずにいる。
けれど――大切にしている理由は、それだけじゃない。
「そろそろ時間ね……」
ボーン、ボーンッ――
九時知らせる掛け時計の音が、静まり返った寝室に響く。
私はそっとぬいぐるみに指先を伸ばし、柔らかな毛並みに触れながら、小さく名を呼んだ。
「キキ……」
すると、目の前のクマのぬいぐるみの口が、ゆっくりと動く。
「やあエレナ、今日はどんな話を聞かせてくれるんだ?」
そう、この子はただのぬいぐるみじゃない。
夜の九時になると、ぴたりと決まった十五分間だけ――言葉を話すようになる、特別な存在。
ぬいぐるみをもらったその夜から、ずっと。理由はわからない。魔法なのか、奇跡なのか。
動けるわけでもなく、目が見えるわけでもない。ただ、口だけが動いて、私の話を聞き、時折返してくれる。
この秘密をアレク様に尋ねたこともあったけれど――彼はいつも通り、無表情のまま「さあ……」と首を傾げただけだった。
最初は、幼い彼の悪戯かと思った。けれど、毎晩のように真剣に私の話を聞いてくれるキキは、いつの間にか私にとって、誰よりも心を許せる存在になっていた。
「それで?今日は何かあったか?」
キキの穏やかな声に、私はそっと微笑む。
「今日はね、レギン侯爵夫人が無事にご出産されたの。お子様は女の子なんですって」
「それはめでたいなあ」
「……それで……キキにこんなこと相談するのは、どうかと思うんだけど……」
「ん?なんだ?」
心の奥でずっと引っかかっていた疑問。誰にも言えなかったこと。キキにだけは、聞いてほしいと思った。
「どうしたら……旦那様に、女性として見てもらえると思う……?」
言った途端に、顔が熱くなる。胸の奥がチリチリと焼けるように恥ずかしい。声も無意識に大きくなってしまっていた。
「……?どういうことだ?」
「……あのね、一応、結婚した時に初夜は済ませたんだけど……そのあと、旦那様は一度も……私を抱いてくれないの」
私は思わず、顔を両手で覆った。
羞恥と不安と寂しさが、一気に胸に込み上げてくる。
「もしかして、私、初夜がすごく下手だったのかなあ……」
目の前のキキに向かって、なんとか最後まで言い切る。
けれど、キキは返事をくれない。口も動かない。
――あれ、まだ時間は残ってるはずなのに。
そっと時計に視線を向ける。九時十二分。
「キキ……?」
名前を呼ぶと、数秒の間の後に、キキが静かに口を開いた。
「……お前は、アレクに……抱かれたいのか?」
その問いかけに、私は少しだけ目を見開く。
答えようとしても、うまく言葉が出てこない。けれど、心に浮かんだ本音だけは、逃げずに伝えたかった。
「……えっと……どうだろう。初めての時は……何が起こってるのか、よく分からなかったから……もう一度って言われると、ちょっと怖いっていうか……」
そう口にした瞬間、九時十五分を指す針が静かに時を刻んだ。
それでも、私は止まらなかった。
「ただ、アレク様に――女性として、魅力的に思ってほしくて。アレク様になら……触れてほしいって思うの。怖いけど、でも、それ以上に……」
だけど、もうキキには届いていなかった。
ぴたりと動きを止めたぬいぐるみを見つめて、私はようやく時計を確認する。九時十七分。
「……なんだ、帰っちゃってたか」
ぽつりと呟き、私はいつものようにキキを棚の上にそっと戻す。
「また明日、話を聞いてね」
そう優しく声をかけた、その瞬間――扉がカチャリと開いた。
「アレク様、今日はお早いですね」
「……ああ」
アレク様は無表情のまま、ゆっくりと寝室に入ってくる。
私たちは肌を重ねることがなくとも、毎晩同じ寝台で眠っていた。
彼は、昔と変わらず無口で、感情を表に出すことがない。それでも、彼の静かな優しさは、確かに私の心を温めてくれていた。
――けれど、今日だけは。ほんの少しだけ、寂しさが勝った。
彼がナイトドレスの上から触れてくることも、キスしてくれることもない夜が、もう三年も続いている。
自分から誘う勇気なんて、持ち合わせていない。どうすればいいのか分からないのだ。
私は、そっと寝室のソファに座った彼の隣に腰を下ろす。そして、ほんの少しずつ距離を詰めてみる。
(ここから……どうすればいいの?手を握る?でも、どのタイミングで?)
彼の手を探すように、そっと目を向ける。
(……あ、腕を組んでる)
アレク様は、まっすぐ前を見つめたまま、組んだ腕を崩さない。触れられる隙すら与えてくれないようで、胸がきゅうっと苦しくなる。
(私って、そんなに魅力ないのかな……)
家が決めた結婚。子供の頃から決まっていた関係。だけど、最近は恋愛結婚をする貴族も増えてきた。
もしかして、私じゃなくてもよかったんじゃないか――。
心の奥に渦巻いていた不安が、思わず言葉になって口を突く。
「……そうだったら嫌だな」
小さく、吐息のようにこぼれたその言葉に、彼が動いた。
「なにが嫌なんだ?」
静かな声。けれど、確かに私に向けられたもの。
振り向けば、アレク様が琥珀色の瞳で私をじっと見つめていた。
「えっ……あっ、いや……なんでも……」
視線を逸らし、慌てて誤魔化す私。
彼はしばらく私を見つめていたけれど、やがて視線を前に戻し、また無言で黙り込んでしまった。
でも、私の胸の奥では、ぐるぐると不安が渦を巻く。
(……まさか、本当に、他に誰か――)
考えたくもない想像が頭をよぎる。彼が、誰か他の女性に思いを寄せ、肌を重ねているところを思い描いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
そんなわけ、ない。そう思いたい。けれど――
(私……どうしたら、アレク様の本心に、たどり着けるんだろう)
私はただ、そっと彼の横顔を見つめていた。指先も、言葉も、届かない距離を痛いほどに感じながら。
◇◇◇
翌日の九時――
「やあ、エレナ」
「こんばんは、キキ。昨日は話している途中で時間が過ぎてしまっていたわ」
私はキキを両手のひらにそっと乗せ、目線を合わせる。
その小さなクマのぬいぐるみは、変わらぬ口調で返事をしてくれたかのように思えた。
「……ああ、別に」
けれど、どこかよそよそしい。
普段の優しくも親しげな響きとは違い、少し投げやりな声音に聞こえた。
(珍しい……)
キキがこんなふうに話すことは滅多にない。
「キキ……もしかして、昨日の話、聞きたくなかった?」
私は眉を寄せ、申し訳なさそうに尋ねる。
誰にも相談できないことだからと、キキに話してしまったけれど、キキにだって感情がある。
もし不快にさせてしまったのだとしたら、それは申し訳ないと思った。
「……別にそんなことない」
キキはぼそりと呟く。
けれど、それでもまだどこか、声の調子が沈んでいるように感じる。
「ただ……なんで怖いのに無理にアレクに抱かれようとするんだ?」
ふとした問いかけに、私は少し目を伏せる。
「怖いけど……知らないから怖いだけなの」
ゆっくりと、確かめるように言葉を紡ぐ。
「それに、昨日は時間が過ぎてキキには届かなかったけれど……私は、それ以上にアレク様に触れられたいの」
「それって……アレクのこと……」
「うん、好きなんだと思う」
私は、自分の疑問に答えを出すように、ハッキリと口にした。
まるで自分に言い聞かせるように。
カチッ
小さな音がした。
足元に何かが転がる。
「……?」
しゃがんで拾い上げると、それは見覚えのある黒塗りのペンだった。
(アレク様の……?)
アレク様がいつも使っているものだ。
どうしてここに落ちているのだろう。
(もし、アレク様が、これを探しに今ここに来てしまったら……?)
喉の奥がひゅっと縮む。
もう大人だから、キキのことは、秘密にしておきたいのに……
もし聞かれていたら――。
「キキ、ちょっと待ってて」
キキにそう告げると、私は急いで寝室を飛び出した。
いつものように、アレク様はお風呂を済ませた後も寝る時間ギリギリまで執務室にいるはず。
そう思いながら、廊下を駆ける。
執務室の前にたどり着くと、扉がわずかに開いていた。
(開いてる……?)
不思議に思いながら、そっと中を覗こうとした時――。
「……エレナ……?いないのか?」
アレク様の声が聞こえた。
私の名を呼ぶ声。
(え……?)
驚きに足が止まる。
なぜ、私を探しているのだろう。
しかも、独り言のような静かな声で。
まるで、確かめるように。
私は、ノックもせず、少し開いていた扉をそっと押し広げた。
「え、エレナ……!」
驚いたように目を見開くアレク様。
彼は反射的に何かを背中に隠した。
けれど、その一瞬で、私は確かに見た。
(……え?)
「なぜ……アレク様もキキを……?」
彼の背後から覗いたのは、私のキキとそっくりのクマのぬいぐるみ。
信じられないものを見たような気がして、私はその場で固まった。
アレク様は、少し溜息をつきながら、背中に隠していたクマのぬいぐるみを静かに取り出す。
「まさか……アレク様がキキなんですか……!?」
私は動揺しながらも、声を震わせて問いかけた。
アレク様は、しばらく無言で私を見つめ――それから、ゆっくりと説明をし始めた。
◇◇◇
俺が“キキ”になった理由
俺が八歳の頃、初めて婚約者であるエレナに会うことになった。
前々から絵姿を見ていて、すごく可愛い女の子だなと思っていた。
けれど、実際に会うとなると緊張する。
俺は昔から人と顔を合わせて長く話すのが苦手だった。
とくに、初対面の相手とは何を話せばいいのかわからなくなる。
それでも、この女の子を喜ばせたいと思った。
何かプレゼントをしたいと考え、乳母でもあり侍女頭でもある女性に相談したところ――
「それなら、手作りのぬいぐるみなんてどうかしら?」と提案された。
正直、自分にそんなことができるのかと不安だったが、彼女を喜ばせられるならと決めた。
試行錯誤の末、最初に作ったクマのぬいぐるみは、思った以上に不格好なものになってしまった。
目の位置はずれているし、片方の耳も小さすぎる。
縫い目はガタガタで、どう見ても市販のものとは比べ物にならない。
それでも、二つ目はかなり上手く作れた。
形も綺麗に整い、表情も優しくなった。
そして、完成したそのクマのぬいぐるみをエレナにプレゼントした。
初めて会った彼女は、絵姿そのままの可愛らしい女の子で、俺が渡したぬいぐるみを抱きしめて飛び跳ねながら喜んでくれた。
――その瞬間、俺はエレナに恋をした。
屋敷に帰り、寝る前の時間になると、俺はふとエレナのことを思い出した。
彼女の笑顔、嬉しそうにぬいぐるみを抱きしめる仕草、きらきらと輝く瞳――
どれもが心に焼き付いて離れない。
俺は、失敗してしまった方のぬいぐるみを手に取り、ぽつりと呟いた。
「可愛かったな……エレナ」
すると、次の瞬間だった。
「今、私の名前を呼んだの?」
俺の手の中のクマが、口を動かした。
「……え?エレナ?」
驚きのあまり、思わず問い返す。
すると、ぬいぐるみは嬉しそうにこう言った。
「うん! そうだよ、私はエレナ。あなたぬいぐるみなのにおしゃべりできるのね?」
――その瞬間、すぐに気づいた。
これはエレナの声だ。
彼女は、俺が作ったクマのぬいぐるみが話していると思っている。
俺が話しているとは思っていないんだ。
俺はそれをいいことに、自分がアレクであることを隠し、そのまま“キキ”のふりをした。
それ以来、夜九時になると、俺はどんなに忙しくてもその時間だけは予定を空け、エレナと話した。
彼女の日常、悩み、嬉しかったこと、悲しかったこと――
彼女は、俺が“キキ”だとは知らないまま、毎日たくさんの話をしてくれた。
普段、人と話すのが得意でない俺が、彼女とこうして話せる唯一の時間。
それが、俺にとってどれだけ大切なものになったか、気づいたのはずっと後のことだった。
――そして昨日。
「どうしたら……旦那様に、女性として見てもらえると思う……?」
俺は息を飲んだ。
思いもよらない相談だった。
彼女が俺に抱かれないことを不安に思っている……?
驚きすぎて、しばらく何も言えなかった。
けれど、俺は狡い。
まだ“キキ”のふりをして質問を続けた。
「……お前は、アレクに……抱かれたいのか?」
正直に言えば、俺だって、いつでも彼女を抱きたいと思っている。
ただ、初夜の時――俺は、自分の余裕のなさに幻滅した。
初めての彼女を、何度も貪るように求め、理性も何もなく彼女にのめり込んだ。
結果、エレナは何が起こっているのかわからないまま、ただ震えていた。
それが、彼女の中で「怖い記憶」になってしまったのだろう。
だから、自制していた。
次に触れるときは、もっと余裕をもって、彼女を怖がらせずに触れたいと。
「……えっと……どうだろう。初めての時は……何が起こってるのか、よく分からなかったから……もう一度って言われると、ちょっと怖いっていうか……」
その言葉を最後に、時間が来てしまい、エレナとの繋がりは途切れた。
やっぱり、怖がられているんだ。
俺が、あんな風にしてしまったから。
そう思うと、過去の自分がひどく嫌になった。
――そして、今日。
エレナがまたその話をし始めたとき、俺は無意識のうちに少し突き放すような言い方をしてしまった。
「……ただ、なんで怖いのに無理にアレクに抱かれようとするんだ?」
本当は、自分が聞きたいだけの質問だった。
すると、彼女ははっきりと言った。
「私は、それ以上にアレク様に触れられたいの……」
そして、
「うん、好きなんだと思う」
俺は、思わぬ言葉にまた沈黙してしまった。
エレナが俺を好き……?
信じられない気持ちと、言葉にならないほどの喜びが入り混じる。
「キキ、ちょっと待ってて」
彼女はそれだけ言うと、突然黙ってしまった。
俺はすぐに彼女を呼んだ。
「エレナ……? いないのか?」
そして、今、目の前に彼女が立っている。
俺は、焦ってクマのぬいぐるみを背中に隠した。
――けれど、もう遅かった。
◇◇◇
アレク様から経緯を聞いた瞬間、全身が火を噴くように熱くなった。
――じゃあ、昨日の質問も……さっきのも、全部……?
頭の中で言葉がぐるぐると渦を巻く。自分の口から出た言葉を思い返すほど、顔が熱くなり、息苦しくなる。
「じゃあ、昨日の質問も……さっきのも、全部私はアレク様本人に相談していたわけですね……?」
かろうじて口を動かして問いかけると、アレク様は困ったように目を伏せながら短く答えた。
「ああ、本当に悪い」
その一言が引き金になった。
無理無理無理……!! 恥ずかしすぎる!!
本人に「触れて欲しい」とか、「好きだ」とか……そんなことを言っていたんだ、私……!
羞恥に耐えきれず、膝から崩れ落ち、両手で顔を覆った。視界を完全に閉ざしても、熱が引くどころか、むしろ顔の奥がじんじんと熱を持つ。どうにかしてこの場から消え去りたい。穴があったら入りたいどころか、地面に飲み込まれたい。
そんな私の背に、そっと優しい温もりが触れた。大きくて、温かくて、包み込むような感触――アレク様の手だ。
「……幻滅したか……?」
掠れるような声だった。その震える響きに、はっとする。
幻滅なんて、するわけない。
私はゆっくりと顔を上げ、アレク様を見つめた。
「しません。ただ……全て聞かれていたと思うと、ただ恥ずかしいのです……」
声がかすれ、また視線を逸らしてしまう。
しかし、次の瞬間、顎に添えられた手がそっと私の顔を引き戻した。驚く間もなく、唇が重なる。
「……触れて、いいだろう……?」
震えるほどに優しい囁きが耳に届く。
「えっ、でも……」
戸惑いの言葉が零れる。しかし、アレク様は静かに続けた。
「ずっと後悔していたんだ。いくら好きだからって、初夜にあれほどまで格好悪く盛ってしまったこと……」
――初夜のこと。
あのときのアレク様は、まるで理性が追いつかないかのように激しかった。私は何が起こっているのかも分からず、ただ受け入れ、震えることしかできなかった。
「じゃあ……私に触れなかったのは、他に女性がいるわけでもないんですね?」
恐る恐る問いかけると、アレク様は呆れたように息を吐いた。
「何言ってるんだ。子供の頃からエレナ以外の女性に魅力を感じたことなんて、一度もない」
真っ直ぐな眼差しが、私の心に深く染み込んでいく。
そのまま、アレク様は私の体を軽々と抱き上げた。
「――っ!」
驚く間もなく、彼は執務室を出て、寝室へと向かう。
ベッドに下ろされた瞬間、優しい指が私の頬を撫で、次いで鎖骨をなぞる。その動きに合わせるように、唇が深く重なった。
息が詰まりそうなほど濃厚な口づけに、全身が甘くしびれる。
ここは、いつも眠る場所なのに――
今夜だけは、違う場所のように感じられる。
アレク様の温もりに包まれながら、私はただ彼に身を委ねた。
◇◇◇
あの日から、キキはもう話せなくなった。
毎晩、夜九時になると繋がっていたはずのぬいぐるみは、今ではただのクマのぬいぐるみに戻ってしまった。
でも、それでいい。
キキの中の人であったアレク様は、今、私のそばにいてくれる。もう、わざわざぬいぐるみ越しに話す必要はない。私が何かを話せば、アレク様はきちんと聞いてくれるし、彼自身の言葉で答えてくれる。
「……エレナ」
アレク様が優しく私の手を握る。
「はい」
私も彼の手を握り返し、微笑んだ。
キキは彼であり、彼はキキだった。
あの二つのぬいぐるみが、私たちをより深く結びつけてくれた。
今、そのぬいぐるみは二つ仲良く並び、私たちの寝室の棚に飾られている。
これからも、ずっと。