ブレンダ・カレンデュラの淑女の決闘
「あなたは我が国の文化にも通じているようだ」
「たまたまですわ。姉の護衛官として派遣された貴国のご令嬢方に教えていただきましたの」
淑女の決闘――――。
決闘とは、キルギリアに限らずいくつかの周辺国に残る伝統だ。騎士が剣を交え、己が名と命をかけて罪を晴らし、栄誉を勝ち取る。けれどかつてのキルギリアは守られる立場であった女性が騎士のように剣を持つことを好まなかった。とはいえ、淑女が矜持を傷つけられ、己がために誉れを取り戻したいと願うこともあるだろう。そのため当時の女性達は決め事を定め、ひっそりと受け継いできた。殿方のように剣を交えるわけではないから血も流れず、肉体に傷を残すこともない。ただ淑女として蓄えた己が知識と人脈を駆使し、完膚なきまでに相手の自負を叩き潰す。
騎士のように手袋を相手に叩きつける代わりに、棘のついた赤い薔薇を贈る。それを開始の合図として互いに水面下で攻防を繰り広げ、最終的には第三者の立ち合いのもと、どちらに非があるか明らかにするのだ。
「最後は立ち合った者がどちらに正義があるか判ずる、だったな。棘のついたままの赤い薔薇を勝者に捧げる」
「さすが、よくご存知ですわね」
「女性も剣を握るようになって忘れ去られてしまったような文化だが、武勇伝のように語る女性が近くにいてね。私の祖母だ」
「かわいらしいお祖母様ですわね!」
「かわいいというか怒るとものすごく怖い。っと、話がそれたな。私の立場では完全な第三者とは言い難いが、まあ許容範囲だろう。満場一致で異議もあるまい」
女性二人に視線を投げ掛ければ、瞳を輝かせた彼女達は盛んにうなずいている。
ライオスはブレンダに赤い薔薇を捧げた。
「おめでとう、君の勝ちだ」
「光栄に存じます」
ブレンダは花咲くように笑って、薔薇を受けた。ブレンダの指先で咲く薔薇を見たライオスは、棘のついたままの薔薇も存外に美しいものなのだと知って目を細める。
「棘に気がついていたら、もしかすると公女にも勝機があったということか」
「決闘に反撃はつきものです。そういう状況もあり得たでしょう」
普通、贈り物に添える薔薇は棘を落とすものだ。相手の指を傷つけないようにと配慮する。だから招待状に添えられた薔薇に棘が残っている時点で、すでに只事ではないということなのだ。
「彼女に淑女の決闘に関する知識が備わっていたかは微妙なところだがな」
「本人もしくは侍女から薔薇の棘について問われたら、決闘のことを正直に話していいとベルジェット商会の従業員には伝えていました」
そのうえで応じてくださるなら喜んで受けて立とうと思っていた。公女殿下がブレンダの全力で掛かるべき相手なのかを見極めるためでもあった。それが全くの無反応とは……肩透かしをくらって、ブレンダはがっくりと肩を落としたものだ。
「贈られた側は、手始めに棘を不審に思うかが試されるのです。おそらくですが薔薇を受け取った侍女が気を使って棘を落としたのでしょう。公女殿下の手元に届いた薔薇には棘がなかった。一事が万事、つまりそういうところですわ」
公女を真綿に包むように愛し、周囲は万難を排除していた。つらい思いをしないで済むように先回りしてきたから本当に危険なものが何かを知らずに育ってしまった。
「だからこその再教育だ」
「ええ、次に会うときは素晴らしい淑女となっておられるでしょう」
勝者は薔薇を、そして敗者には厳しい再教育が課される。なんと愛のある素晴らしい文化かしら! ブレンダの仕掛けが淑女の決闘を模したことにセシリオが気がついているとは思えないが、あの形相ではアネマリーナの淑女教育が見直しされることは間違いないだろう。
「そういえば淑女の決闘には他にもいくつか決め事があると聞きましたわ。キルギリアらしく、大変潔いと感銘を受けましたの」
ブレンダはにっこりと笑った。
「たとえば、勝敗が決したあとには遺恨を残さない」
そう締めくくり、ブレンダの視線を受けたルークが再びカーテンを開く。カーテンの奥にはベルジェット商会の従業員がずらりと並んでいた。手にはかわいらしいお茶菓子と新しい茶器を携えており、手際よく新しいものに取り替えられる。
「お付き合いいただき感謝いたしますわ。それでは仕切り直して、お茶にいたしましょう」
華やいだブレンダの言葉を合図に、お茶会が賑やかに始まった。開け放たれた窓から風に乗り、ほのかな薔薇の香りが周囲を満たす。そして一杯目のお茶が空になって二杯目のお茶が行き渡る、そんなときだ。
「ブレンダ嬢、実は私も君に目をつけていたんだ」
洗練された仕草で茶器を傾けながら、唐突にライオスが口を開いた。女性二人はハッと息を呑んで、ブレンダは小さく首を傾げる。その背後で、給仕をしながらルークはひっそりと笑みを深めた。
――――突然、何を言い出すかと思えば。
「もちろん婚約者がいると聞いて一度は諦めた。だが今回の件で、とても惜しいと思ったのだよ。君は利益と機を見極めるのが上手い。その力は商いにも役立つのだろう。だが、国を動かすのとは規模が違う」
ライオスはブレンダの目を見つめた。誘うような甘い視線を受け止めたブレンダの紺碧の瞳は全く揺れていなかった。キルギリアの深い海の色のようで、とても綺麗だ。
「君はその才覚で国を動かしてみたいとは思わないか?」
――――ああ、また虫が湧いた。脅してもわからないようなら排除しなくては。
脳裏にライオスを引き摺り下ろす手口をいくつも思い描いて、一寸、ルークは手を止めた。すると茶器を扱うために後ろを向いていた彼の背にブレンダの背が触れる。動揺して、固まった。結構距離はあったはずなのに。いつの間にか立ち上がって、こんな近くに?
触れるか、触れないか。微妙な加減で伝わる彼女のほのかな温もり。どろりと爛れ落ちるようなルークの魂を鎮めるように、絶対の信頼を持って背を預けてくる彼女は無防備で無邪気だ。ブレンダは何事もなかったかのようにそのまま窓際まで寄ると、自らカーテンに触れて差し込む日差しの加減を調節した。第三者からは偶然触れたようにも見える仕草に潜ませたのは、彼女自身の思いなのだろう。
――――私を信じなさい、まるでそう言われているみたいだ。
「思いませんわ。これっぽっちも」
席に戻ったブレンダは、これまた唐突に口を開いた。婚約者のいる相手を口説く。不躾なのはお互いさまだ。このくらいの物言いは許されるだろうと、ブレンダは遠慮も配慮もなくポンと投げ返した。面白いじゃないか、ぶっきらぼうな言葉を受け止めたライオスの口元が弧を描いた。
「失礼だが、あなたの受け皿として伯爵位は低すぎる。そう言われたことはないか?」
「たしかに、そういうお話もありますわね」
公爵家においてブレンダの立場は中途半端だった。家を継ぐのか、嫁に出るのか。エルザが他家に嫁ぐことは決まっているようなものだったので、シェリーに何かあれば予備であるブレンダが公爵家を継ぐことになっていた。
けれどシェリーに子供が産まれ後継者ができた今は、憂いなく他家に嫁ぐことができる。そしてブレンダと結婚できれば、婚家はラングレア王国の公爵家という強力な後ろ盾が手に入るのだ。つまり今のブレンダは自国や他国であることを問わず、権力を望む者であれば喉から手が出るほど欲しい大変魅力的な結婚相手だった。
「あなたの婚約者は商家を営む伯爵家。思わず横槍を入れたくなってしまうほどに、爵位はそこまで高くはない」
するとブレンダは笑みを深める。清廉とは程遠い、どちらかというと企む者の顔だ。
「違いますよ、サデュール様。彼の爵位が低いのは私が望んだからでもあります」
彼の場合、伯爵くらいの地位がちょうど良い。
煙に巻くようなブレンダの台詞にライオスは眉を顰めた。
ブレンダの知るルーク・ベルジェットという男は勉強や武術をやらせてみればなんでもできて、語学も芸事も学べば大抵のものは身につく、器用と括るには桁違いの万能型の天才である。彼はブレンダなど足元にも及ばないほど、広く深く遠くまで物事を見渡すことができた。だが多彩な能力と比例せず、中身は空っぽだ。彼を満たすのは虚と無。知恵を授かり、どれだけ知識を得ても心は満たされることはなく、この世界を愛せずにいる。
ブレンダは出会った日のことを忘れない。机上ではあるけれど、彼の知恵と知識を使えば容易に国を滅ぼすことができるのだ。政治、経済その他予想もつかない新たな手が次々に語られて、今思い出しても子供の戯言と笑い飛ばすにはレベルが違いすぎる。彼に権力を与えたらどうなるか、未来を想像した当時のブレンダは青ざめたものだ。
「人にとって爵位は翼でもありますが、枷にもなります。彼の場合、私に手が届く爵位さえあれば十分で、それ以上は与えてはいけないものなのです」
風に煽られたカーテンがふわりと揺れ、ブレンダの顔に翳りが差した。謎めいた眼差しで微笑む彼女は陰を纏うとより一層妖艶さが増して魔性すら感じさせる。一瞬見惚れたライオスは、止めていた息をそっと吐き出した。
荒唐無稽、意味がわからない。それとも謎掛けか、一体何を言っているのだろう?
「彼は爵位が低いからこそ貴族という枠の中に収まっていられるのです。もし一国の王族や高位貴族に産まれていたら単調な世界に飽きて、早々に別の何かへと作り変えることでしょう。権力者に相応しく、ためらいもなく力を振るって。人を、価値観を、世界すら変えてしまうかも知れません。そういう人を何と呼ぶのかしら? 革命家、侵略者でしょうか。場合によっては、人とは呼ばれなくなるかもしれませんわね。人の営みを徹底的に破壊し尽くす――――たとえば魔王、とか?」
他人には理解し難いだろう。この感覚は近くで彼を見つめ続けた私にしかわからない。ブレンダは釘付けとなった三人の視線の先に自らの手を掲げた。先ほどまでは自由を謳歌していたはずの彼女の手の先に、今はしっかりとルークの手が繋がれている。
「つまり私は世の平和のために、この手を離してはならないのです」
この世に飽いた魔王ルークが、唯一執着したのがブレンダだ。ルークにとってブレンダは唯一の花、人として世に留まり続けるただ一つの理由だった。当時のエルザがどこまで気がついてルークとの婚約を後押ししてくれたのかはわからないが、もし手に入らないとわかれば、あらゆる手を使ってブレンダを自分の手元まで引き寄せただろう。
さすがエルザ姉様、その予感は大当たりですわよ!
シェリー姉様のときも思ったけれど、エルザ姉様のこういうときの勘は侮れないのよね。誰よりもカレンデュラ公爵家を守るべく立ち働いた姉だからこそ、無意識のうちに敵と味方を嗅ぎ分けたとでもいうべきか。
魔王となったルークがブレンダを手元に引き寄せるため使う手口がカレンデュラ公爵家にとって良いものだけとは限らない。ルークは身分が下がることを喜ぶだろうと、そう語った自身の言葉が脳裏によみがえった。
「そもそも私達は噂にあるような政略などではありませんわ。彼が私を望み、私もまた彼を望みました」
「愛があったと?」
「ええ、相思相愛です。彼ならば私を理解して、支えてくれる」
だって魔王にもなれる男ですもの、器の大きさが違いますわ。ブレンダは心中でひっそりと付け加えた。毒を呑み込んだブレンダは、とうに淑女という枠から外れている。棘のない花をブレンダは美しいとは思えなかった。
一方でライオスはブレンダの表情から悟ったのだ。心を読ませない言い回し、腹の底を覆い隠す言葉選び。そうだ、彼女もまたカレンデュラだった。しかも毒を孕み、茎には鋭い棘までついている。無理やり摘み取れば棘に貫かれて、体全体に毒が回るだろう。悪役という毒を呑み込むと決めたブレンダは、すでにライオスの手には負えない存在へと作り変わっていた。
ライオスもまた試されたのだ、サデュール家に毒を呑む覚悟はあるのかと。
惜しい、だけれど家のためを思えば諦めるしかないだろう。毒だとわかっているのに呑み込むわけにはいかないからだ。サデュール家のような高位貴族は人々の規範となり、政敵に足元を掬われないためにも表向きは清廉でなくてはならない。そう思うと、伯爵家くらいがちょうどいいと答えたブレンダの言葉の意味がわかるような気がした。
「美しい花には棘がついているものです。彼ほど悪役令嬢と呼ばれた私に相応しい男はおりませんわ」
口元を綻ばせて、ルークはブレンダの指先に口づけを落とした。婚約者であるから許される距離感、そしてブレンダが触れることを許しているという事実は大きい。まるで絵のように美しいと、女性達は頬を赤らめ、うっとりとした眼差しでため息をついた。幸せそうに微笑んだブレンダはルークの手を握り返す。
「ライオス様、理由はそれだけではありませんの」
「他にも理由が?」
「平和な世に魔王を解き放つわけにはまいりませんでしょう? 世界の均衡を保つためにも、私は彼の隣で監視していなくてはならないのです。それで手一杯ですし、国を動かすことよりも興味深いのですわ」
ブレンダは空想じみたことを大真面目な顔で言い切った。今の台詞のどこまでが本気なのかわからないからだろう、誰もが曖昧に微笑みながら呆れたような顔が並ぶ。そうでしょうね、私も逆の立場ならそう思うもの。最後にブレンダはにっこりと笑った。
「もちろん冗談ですけれどね!」
完全に煙に巻かれて、ライオスはもはや理解することを諦めたようだ。苦笑いを浮かべた彼に、ブレンダは内心でほくそ笑んだ。必要以上に警戒させてもいけないが、侮られてもいけない。彼のような人間には隙がなく完璧よりも、ちょっと変わっているくらいのほうが適度に距離を保つためにはちょうどいいのだ。
「……まあ、理由はともかく愛する人が婚約者であることは幸せだな」
「ええ、そのとおりです。きっと皆様にも素敵な出会いがあると思いますわ!」
言外に、こっちには手を出すなよという思いを滲ませてブレンダは可愛らしく胸の前で手を合わせた。
――――
最後の客人を送り出して、ようやく混沌と混乱に満ちたお茶会は幕を閉じた。
骨董品級の鍵で部屋を閉じ、美術品のような貴賓室を管理者に引き渡したころにはもう夕刻だった。日が沈むと色鮮やかな薔薇園にも陰が落ちてどこか物悲しい。エスコートする手に導かれて、ブレンダはそっとルークの体に身を寄せた。
「疲れただろう、少し休もうか。そのあとに家まで送るよ」
「そうね、だったら生徒会室に行きましょう」
あの部屋ならば、ブレンダお気に入りの茶葉やお菓子が待っている。昔からブレンダは、大好きなものをできる限り自分のそばに置いておきたい主義だった。それは彼女のわがままでもあり、昔から変わらない願いでもある。部屋に着くとルークが慣れた手つきでお茶を入れてくれた。そして茶器をブレンダに手渡すと、そのまま彼女の体ごとするりと膝に抱える。
「もう、いつも言ってるけれど危ないわよ!」
「大丈夫、加減は調節できるから」
何の加減だかわからないが、たしかにブレンダはいつでも無傷だ。ささやかな出来事の積み重ねだけれど、彼と一緒にいて一度も危険を感じたことはなかった。ブレンダは気がつかないところで、ルークという絶対的な存在に守られているらしい。手は出さなくてもいいって言ってるのに……。でもそれは彼の優しさからくるものだと知っているから、ブレンダは咎めない。
ただちょっとだけ、文句は言う。
「そうやって降りかかる危機を排除したら、公女殿下と同じじゃないの!」
「違うよ、君は彼女のようにはならない。人にも厳しいが、自分にはもっと厳しい」
「でも盛り上がりに欠けるのよ」
ほんのわずかに薔薇色の頬が膨らむ。
ルークはそっとブレンダの頭をなでた。かわいい、かわいいブレンダ。彼女が努力の人だということはルークがよく知っている。その努力が自分に追いつくためだと知っているから、より愛おしい。
『あなた、そんなことまでよく知っているわね!』
『知っていたとしても退屈には変わりない』
『まあ、ずいぶんと狭い世界に生きているのね! いいでしょう、私がその知恵と知識を丸ごと引き受けるわ。いくらあっても足りないくらいだもの。あなたはこれから私の知識と知恵の泉よ』
だから、ずっと私のそばにいて――――。
白と黒と灰色に覆われた世界に色を付けたブレンダとの約束を守るため、ルークは暗躍している。ブレンダは、あの約束があるせいでまさか実家の存亡がかかっていたなんて思いもしなかった。単純にそばにいてくれたら便利っていう程度の認識しかなかったもの。
「正直なところエルザ様にはとても感謝しているんだ。カレンデュラ公爵家に手を出さずに済んだ」
「当然よ、手出ししたら絶対に許さないわ」
ブレンダとの婚約はルークがカレンデュラ公爵家に手を出さない保険のようなものだ。彼は切れ味の良い諸刃の剣、でもブレンダという鞘に収まっているうちはカレンデュラ公爵家を決して裏切ることはない。
「ねえ、ルーク。もし私が世界が欲しいと言ったらどうする?」
「そうだね。君の望む世界がどの程度の規模になるかによって変わるけれど。五つほど無理を通して、三つほど国が滅んで、一切の自由はなくなるけれど、それでもいいなら手はあるよ」
「具体的なのが嫌よね。困ったわ、うっかりでも道を踏み外せないじゃないの」
物語では、ときに人が魔王になるという。裏切られて全てを奪われたり、失ったものの隙間を埋めるため、進んで魔に囚われる。そんな彼らに共通するのは何でも持っているけれど、どこか欠けていて空虚だというところだ。ブレンダが出会った少年は、見た目は美しいけれど中身は空っぽだった。
そこからゆっくり長い時間をかけて、隙間を埋めて土を耕し、種を植えて。空の色を暁と夕暮れに染めながら世界の形を作り、ようやく美しい花が咲いた。
こうなると二人で過ごした時間が愛そのものだ。ブレンダはルークに振り回されて、揺さぶられて、今ではすっかり絆されてしまった。このまま悪役でいるというのも悪くないわねと思う程度には、だけれど。
「一応言っておくけれどサデュール家を潰してはダメよ? 利害で動く人はさまざまな場面で有用なのだから」
「アネマリーナ様から我々を庇ってくれたしね、潰さないよ。その代わりブレンダへ手を出そうとした罰に資金源を一つ潰す。いくつか不信につながる種をまいた。芽吹けば現在の権勢は揺らがないけれど二年後に行われる選挙では資金不足で苦戦するだろうね。それから」
「それから?」
「我々の結婚式の招待客が減る」
ルークがブレンダの頬に口づけを落とした。全く、そんな軽々しく口にすることではないでしょうに。文句のひとつも言わせてもらおうとするブレンダの唇を彼の唇が強引に塞いだ。迫る夕闇のように、甘やかに侵食される。
「でも悪くない話だと思うよ。むしろカレンデュラ家にとっては朗報になるはずだ」
「まあ、どんな?」
「サデュール家への不信により、共和国は早晩入手先の開拓を迫られるはずだからだよ……絹糸のね」
「あら、旧レオニス領の絹糸はとても出来がいいそうよ? お得意様が増えそうな予感がするわ」
共和国に流通する絹はほぼサデュール家が市場を独占している状態だった。そこを崩して後始末に追われている間に、隙を見て食い込む。いかにして世界を掌握するか。つまりやり過ぎなければいいのよ、私達目線で。
「悪い人ね」
「それでもいいと言ったのは、君だろう?」
ルークが口元を歪めて笑った。不覚にもブレンダは頬を赤らめて言葉を失う。艶やかで、色気が溢れるようでブレンダの背筋に甘い痺れが走った。
瞳に何の色も映さなかった彼が、こんな色づいた顔をするようになるなんて思わなかったわ。いつの間にか茶器は避けられて、そのまま背後から抱き締められる。袖口から漂う異国の香りがブレンダを包んだ。
「ルーク、あなたを見つけられてよかった」
もしもあのとき見つけていなければ、この人はブレンダの手の届かないところへと旅立っていただろう。たったひとり、ブレンダを棘ごと愛してくれる人はあなたしかいないというのに。たとえ悪を呑み込んででも己が隣に引き留めようとするのはルークだけじゃない、私もだった。
「覚えておきなさい。私はね、大好きなものは自分のそばに置いておきたいのよ」
だから、ずっとそばにいて。それはブレンダのわがままでもあり、変わることのない願いだ。ほんの少しだけ腕に力を込めたルークはブレンダの耳元に唇を寄せる。
「君がいるのなら、この世界も悪くないね」
翻弄するように笑って。
口づけを待つブレンダの視界に黒く艶やかな闇が落ちた。
これでブレンダのお話は完結です。本編でエルザが感じたように、超狭い特定の分野でとても気が合う二人が、転がして、転がされるような関係のお話を書こうと思ったらこうなりました。ところどころに人外のような表現はありますが、ルークは人間です(大事なことなので二回言います)。たとえば物語で、人でありながら魔王になっちゃうような人物は根本的にこんな人だろうと勝手に想像しています。
糖度は低めですが、お楽しみいただけたら幸いです。