8.時計塔へ
「ヴィオル様! 此方にいらっしゃいましたか!」
ある日の夕暮れ。
ヴェルレーヴェン家の領土、辺境に近く人気もない小さな図書館に、一人の従者が馳せ参じる。
人も滅多に往来せず、取り壊しすら予定されているその建物に、慌しい音が響く。
待っていたのはヴィオルだった。
館に僅かに残された古い記事を眺めながら、報告を待っていたのか。
息を切らした従者の報告と聞き終えると、彼は諦観したような表情を見せた。
「……やっぱり、そうだったんだね」
「兎に角、この場から避難しましょう! 今ならまだ……!」
「此処から逃げても、誤差程度の時間稼ぎにしかならないよ」
ヴィオルは力なく首を振る。
既に事態は動いている。
そしてまた、彼も事の真相に気付いていた。
死神の正体が何者であるのかも。
だがその場からは動けない。
全てを打ち破るような決定的な物証がないからだ。
更にヴィオルを押し留めている感情は、もう一つあった。
誰も悪くない。
誰も責めることは出来ない、という比較のない思い。
彼は従者に向けて、古ぼけた封書を取り出す。
「それよりも、これを受け取って」
「この封書は……!」
「それを、とある場所に隠してきてほしい。僕からの命令だ」
そうしてヴィオルは隠し場所を指定した。
慌てふためく様子も、切羽詰まった様子もない。
ひたすらに冷静で、自らの結末を知っているかのような態度。
次期当主を前に従者は封書を受け取り、指示に従った。
とても辛そうな表情で主に頭を下げ、その場から立ち去っていく。
託した封書が自身の手から離れたことを見届け、ヴィオルは近くにあった椅子に座り込む。
そして視線を机の上に向けた。
そこにはこの場には不釣り合いな、精巧な蓄音機が置かれている。
中にレコードはなく、空っぽのまま。
あれ以来、この蓄音機は沈黙を続けている。
未来の世界で何が起きているのか、今の彼には予見すら出来ない。
それでもヴィオルは物言わぬソレを見つめ、固く決意する。
「ラナ、せめて君だけは……」
今の自分に残された時間は少ない。
だからこそ、ラナだけは守らなければならない。
その使命感が、ヴィオルの胸中を取り巻いていた。
●
「どうして、私の声が……!?」
ようやく私は声を上げる。
聞こえてきたのはヴィオルではなく、私自身の声。
焦燥に駆られたそれが、夕暮れの音楽室に小さく響く。
ハッとして辺りを見渡すけれど、この部屋には私以外に誰もいない。
『返事を……いえ、ヴィオルでなくても……。ただ、この声が誰かに届いてさえいれば、それで良いの。お願い。もしこの声を聞いている人がいるなら、これから言う私の言葉を聞き届けて』
こちらの声は聞こえていない。
無意味かもしれないと分かっていて、その私は願いを託している。
嘘やハッタリじゃない。
どうして私自身と繋がるのか。
この私は、いつの私なのか。
疑問は尽きないけれど、今更ここで疑う余地はない。
向こう側の私が必死なのは、十分に伝わってくるのだから。
『ヴィオル・ヴェルレーヴェン。彼の冤罪を証明してほしいの。何を言っているのか分からないかもしれないわ。私も今この言葉が何処に、どの時間に繋がっているのか分からない。今、この1031年よりも後の時間なのか、前の時間なのか』
「1031年……?」
『1025年に起きたヴェルレーヴェン家の事件は、仕組まれたものだった。それを仕組んだ犯人も、直ぐに分かった。私以外にも、あの事件を不自然に感じている人はいるわ。けれど証拠がないという理由だけで皆、口を噤んでいる。過去の間違いを認めたくないようにね』
その私は、何かしらの手掛かりを掴んでいる。
一連の事件に関わるもの、そこにある黒幕の正体も。
けれど、今の私にそんな記憶はない。
1031年という言葉が正しいのなら、これは今から1年後の声。
つまり未来の時間から繋げてきている。
彼女は続けてこう言った。
『でも手掛かりは、あるの。彼が最後に教えてくれた。もし私に危険が及ぶなら、それを探してほしいって』
「!」
『王都にある、国一番の時計塔。ヴィオルはそこに手掛かりを残したの。最上階に飾られた小さな時計を探して。もう、私には探しに行けるだけの力がない……』
酷く辛そうな声が聞こえる。
ヴィオルがそんな事を伝えていたなんて、私は知らない。
その手掛かりも、きっと未来で知ることになるのだわ。
けれどその時の彼がどんな状況だったのか、容易に想像がついた。
打つ手がなく、託すことしか出来ない状態。
そして彼女は同じように、それを私に託そうとしている。
『この記憶も、今の気持ちも、偶然思い出しただけ。今まで私はヴェルレーヴェン家公爵の妻として、ラナ・ヴェルレーヴェンとして生きた。生きてきて、しまったの』
「……!」
『今話したことも、私の中から消えてしまう。だから、この声が聞こえる人がいるなら……お願い……。ヴィオルを助けて……。そうすれば……お父様やお母様も、きっと……』
徐々に声に力が無くなっていく。
まるで意識が失われていくような感じ。
私が以前、気を失った時と同じだわ。
自分の力では抗えない強制力。
過去の改変。
それが今、未来の私に降りかかっている。
『ごめんなさい……私は、貴方を助けられなか……』
告げたのはハッキリとした謝罪の言葉。
それを最後に、蓄音機は沈黙した。
どれだけ待っても、それ以上の声は聞こえない。
私は呆然としながらも確信する。
過去の改変による記憶の上書き。
きっと未来の私は、その上書きによって今までヴィオルのことを忘れていたんだわ。
そして偶然にも思い出し、蓄音機に語り掛けた。
けれどそれも一瞬。
今の言葉を聞く限り、未来の私は再び元の改変に取り込まれてしまった。
手掛かりを探しに行く力もない、というのはそういう意味だわ。
既にあの私は、今話した内容すら忘れているに違いない。
だったら、今の私がすべきことは決まっている。
私は思わず蓄音機を抱え、屋敷の外へ出ようとした。
「ラナ様!? 一体、どちらへ!?」
「馬車を出して。今から時計塔に行くわ」
「な、なりません! 不要な外出は、旦那様より禁止されているではありませんか!」
しかし簡単にはいかない。
私は今、ヴェルレーヴェン家当主の婚約者。
勝手に外に出ることは禁じられている。
だからと言って、このまま待っていれば私の記憶も消えてしまう。
騒ぎを大きくしたくなくて一応その場は引いたけれど、諦めるつもりもない。
警備が薄くなる夜を狙って、黙って抜け出すしかなかった。
平静を装い、今まで通りに過ごす。
従者だけでなく、ダルク様相手にも気取られないように振る舞う。
夜になるのは直ぐだったわ。
機を見計らって私は部屋から飛び出し、閉じられていた屋敷の門を潜り抜ける。
幸い誰かに見つかった様子はなく、夜の道を一人で駆ける。
息だけが上がり、抱えていた蓄音機が微かに揺れて音を立てる。
下町へは、私が走っても直ぐに辿り着ける距離だった。
僅かな喧騒を聞きながら、人目も気にせず、目に入った荷馬車の中に乗り込む。
「お、おいおい! 誰が勝手に乗って良いって……!? 貴方はまさか、ラナ様!?」
「王都の時計塔まで私を連れて行って頂戴! 代金なら、幾らでも出すわ!」
そう言って、持っていた金貨の袋を突き出した。
これはラキュラス家が所有していた財産の、ほんの一部。
けれど一般の人からすれば暫く遊んで暮らせる程のもの。
大金を見せられた男は、二つ返事で頷いた。
元々この荷馬車は王都に向かう予定だったみたい。
私を乗せた馬車は、その後すぐに動き出した。
本当にヴィオルが何かを残しているのなら、それを取り戻すのが私の役目。
一体どんなものなのかは見当もつかないけれど、この状況を変えられる何かがある筈だわ。
未来の私のように、全てを忘れる前に動かなければ。
屋敷に戻れという、心の声を感じながらも私は後ろを振り返らなかった。
振り返れば最後、自分の意志が上書きされる気がしたから。
そして夜中に差し掛かった頃、馬車が時計塔に辿り着く。
既に貴族が出歩く時間ではないわね。
約束通り私は金貨を御者に渡して解放した後、ローブに身を包む。
そして暗闇に包まれた塔を見上げた。
時計の針が、重々しく時を刻んでいる。
私は直ぐに視線を戻して、塔の中へと足を踏み入れた。
本来なら閉ざされている筈の内部への扉は、何故か開け放たれていた。
妙な違和感はあるけれど、今更後には引けない。
塔の中はがらんとしていて、誰かがいる気配もない。
作業用に置かれていたランタンを拝借し、階段を一段一段上がっていく。
コツコツと私の足音だけが響く。
そして最上階に到達すると、新たな音が聞こえてきた。
多くの歯車が幾重にも積み重なって回り続けている。
時計塔の針を刻む大掛かりな仕掛け。
此処はその心臓部なのでしょう。
私はランタンに光を翳しながら、手掛かりを探した。
「小さな時計、これだわ!」
目当てのものは直ぐに見つかった。
塔の針を合わせるために壁に掲げられていた小さな時計。
私はその時計を取り外し、異変がないかを調べる。
すると裏蓋が外れ、そこから何かが零れ落ちてきた。
これは、封書だわ。
しかも封が閉じられて何年も経っているのか、かなり古ぼけている。
差出人や宛先は書いていない。
ヴィオルが書いたものなのか、別の誰かなのかは分からない。
けれど一つだけハッキリとしていることもあった。
「この印は、ヴェルレーヴェン家の……」
封をするために押された封蝋印。
その形はヴェルレーヴェン家の家紋だった。
しかも封書の装飾を見る限り、余程のことがない限り使用されない重要書類だわ。
一体、ヴィオルは何を託そうとしたの。
そう思い、その封を開けようとした次の瞬間。
「それがヴィオルの残した、最後の手掛かりか」
「!?」
「ラナ、それを渡してもらおう」
背後に気配を感じる。
いつから私の後を追って来ていたのか。
振り返ると闇の向こうから私の婚約者が、ダルク・ヴェルレーヴェンが歩み寄って来た。